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砂の中をおよぐ  作者: センガ
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第二章 指輪と腕輪 ─後─

第二章 指輪と腕輪 ─前─ からの続きとなります。前編からお読みください。

 

「また突然だな……あの方らしいと言えばらしいが」

 アイザックは廊下を早歩きしていた。、天気も良かったので外のあずまやに道具を持ち込んで書き物の仕事を片付けていたのだが、突如、知人が訪ねてくると、先行してきた使いの者から連絡があった。とりあえず大事な書類を書斎に戻そうと歩いていた矢先、廊下の角で掃除をしているソフィアと鉢合わせになってしまった。考え事にふけっていたのあり、とっさに反応が間に合わなかった──

「! 」

「おっと! すまない! 」

 彼女と会う時はタイミングがいつも悪くて驚かせている気がする。ソフィアに触れないようギリギリ立ち止まったところまではよかったが、今回もバランスを崩しかけ、すんでのところで踏みとどまった。しかし、アイザックは手にしていた書物と書類を落としてしまった。落としどころが悪く、古い書物はページがバラバラだ。他の書類も混ざってしまっている。ソフィアはそれを見て固まった。

「……君のせいじゃないんだ。うわの空で歩いていたこちらが悪い、気にしないで大丈夫だ」

 かがんでページを集める、ソフィアもしゃがんで集めだす。かなりのページが廊下のあちこちに散らばってしまった。アイザックの足と手はどうしても時間がかかってしまう。

「悪いが、今急いでいるから、この書類を集めて揃えて書斎に置いておいてもらえるか? 」

 ソフィアはひどくかしこまったように頷いて、書物を集め始めた。




「これはフラン殿! 随分とお久しぶりですね! 」

「やあ、アイザック。久しいな。すまないね、急に訪ねてきてしまって、近くまで別件で来たんだが、そういえば君がこのあたりに住んでいたからね」

「いいえ、お気になさらず。再会できて嬉しいです。最後にお会いしてから、また貫禄が増しましたね」

 屋敷前でアイザックらが出迎えたのは、長身で体の引き締まった男性だった。年は中年に差し掛かるやや手前、その立ち振る舞いから軍属であることが分かる。右手には貴族の証である指輪が嵌っている。

「君と最後に会ったのはもう何年前になるのかな。君は相変わらず眉間にしわが寄っているな」

「そこまで顔が引きつっている自覚はないのですがね……とにかく、玄関で立ち話させるわけにもいきません。狭いですが、どうぞ我が屋敷へお入りください」

「我が屋敷、か。ハハハ、随分と一介の貴族の主人らしくなったじゃないか。君がこの屋敷に移り住んでからは、少しは主人らしくなったのかな」

「はは、どうでしょうね」

 アイザックは客人たちを玄関へといざなう。居間に食事を用意させてたので、従者ともどももてなすのだ。

 フランベルグ・グライスナー、親しい者からはフランと呼ばれる男は、アイザックの家と古くから付き合いのある貴族の家系だった。もともと顔見知りではあったが、アイザックが軍医──正確には助手と言った方が正しいのだが──として属州に勤めていた際にフラン率いる隊も駐屯していた。医師が不在の際に負傷したフランを治療したのがアイザックで、以来命の恩人だと言ってさらに交流が深まったのだった。しばらくして今度はアイザックが負傷で軍を離れてしまって以来、実際に顔を合わせるのは久しぶりだった。



 ──互いの時間の埋め合わせをしているうちに夜もだいぶ更けこんでしまった。天気も気温もほどよい夜だったので、外のあずまやに二人だけで座っていた。

「それにしても、君は随分と奴隷に寛容みたいだね、アイザック。風のうわさで君の屋敷は奴隷をホイホイ市民にしていると聞いたが」

 それまでの軽い雑談から、フランは突如、切り出だした。

「食事を運んできた彼らはみな元奴隷だったもの達か? 君の従者だったパルムも腕輪持ちになっていたね。彼らはみな、君の命の恩人にでもなったか? 」

 フランの意図が読めないアイザックは、少し、間をおいてから答えた。

「ええ、みな、もともと奴隷だったものです。ですが、フラン殿はご存知でしょう? 一定の条件を踏めば市民権を得られると制度上決まっているではないですか。彼らは一定の条件を満たし、私は制度に従っているまでです」

 あたり差しさわりのない答えに、フランは笑い出した。

「ハハハハハ、別に咎めているんじゃないさ。ただの、個人的な興味だよ。そうだね、じゃあ質問を変えよう。君は、奴隷制度に反対しているのかね? 」

 個人的な興味、と言っておきながらも、フランの眼光は鋭い。旧知の仲のアイザックですら、彼の視線には身を貫かれる思いがする。彼が、生半可な甘い答えで納得するような人物ではないことはアイザックは知っていた。だから、正直に答えることにした。

「……反対というほどではありません……奴隷制がなくてはこの帝国が成り立たないことは重々承知です」

 帝国の豊かな暮らしは奴隷あってのものだ。家事、農業、建設、人手はいくらでも欲しい。少数の特権階級が政治や軍事に専念できるのも、奴隷制があればこそだ。加えて、帝国以外の国々もみな奴隷制を使っている以上、帝国だけが制度を廃止しても、国力が弱り、他の国々に付け込まれるだけである。

「承知していても、制度は嫌いかね? それとも、手を無くして戻ってきた際に博愛主義者にでもなったか。なあに、酒の席さ、愚痴ぐらいは許される。私は別に君を査問しているわけじゃあないんだ」

「……」

 アイザックはしばし思考した。

「……好みの問題ではなく、ただ、違和感を覚えるだけなのです。彼らと私の間に横たわるものに」

「横たわるもの、とね? 」

 アイザックは、本心を語った。フランという男はうわべで飾った言葉は好まない。

「私が足を失ったとき、好きに動き回る自由を失いました。手を失った時に、望んだ事を満足に出来ない落胆を味わいました。なぜ自分だけが、こんな目に合うのかと恨みもしました」

 きっかけは、事故だった。足を失うまでは、アイザックも、奴隷になど気にも留めなかった。彼らは主人に使われるのが、当たり前だと思っていた。

「ふと、周りに目を向けた時、同じように手足を失っている人々がいて、彼らも同じように絶望していることに気が付きました。道端で物乞いをする片足の市民と同じ目線まで落ちたことに気が付きました。屋敷で働いている、指のない奴隷の男は不自由に時折文句をつけつつも、器用に生活をこなす姿にどこか共感しました」

 むしろ、最初のころは、五体満足の人間にひどく嫉妬すら覚えた。だから、身体の一部を失った人々が生きている姿に安堵を覚えたのかもしれない。

「幸い私は裕福な家庭で育ったから世話してくれるものも、自分に合う義肢を手に入れることもできた。その時にふと疑問に思いました。同じ痛みをもっていて自分だけが救われたのはなぜかと。彼らとの違いはなんだったのかと。」

 アイザックは右手の人差し指に嵌められた指輪に触れた。人差し指の金の指輪、貴族である事を示す、支配者の指輪。

「どうして庭師の息子が足を失ったときは、彼は、義足をもらえなかったのでしょう? この指輪と、それ以外を身につけた者達の違いでしかないのでしょうか」

 フランは答えない。これは、アイザックがアイザック自身への問うたものだ。

「私はずっと考えています。誰もが傷つけば血を流す人間である事には変わらないのに、どうしてここまで異なる生き方を強いられてしまうのか」

 貴族は、支配民族であるアルメリア人の中でもさらに高貴な血統でなくてはならない。市民と貴族の間にすら大きな溝がある。

「血の正当性は大きく、絶対のものだ。まあ、少なくとも、確かに、刃を突き刺せば誰でも血が流れるがね、そこは同じかもしれんがね」

 軍人らしいともいえる感想と同時に、フランはワインの入った杯を振る。血を思わせる、赤い葡萄酒。

「私は、手足を失った際に、その血の違いが、揺らいでしまったのでしょう。かといって否定できるほどの答えを持っているわけでもありません。だから、せめて私が手を伸ばせる範囲の、屋敷にいる者たちだけでも、対等に扱いたいのです。偽善だというのも重々承知です」

 軍を離れて帝都へ戻った時に決めたのだ。自分の屋敷の者だけは、等しく扱おうと。

 しばらくの間沈黙が続き、フランのまなざしは急に柔らかくなった。

「ふむ、君らしいと言えば君らしい。それに、貴族たるもの屋敷の者たちを守ってやるのは、指輪を持つ以上当然の義務でもある」

「自分が貴族だから、というわけでもないのですが……自分もやはり、ただの人ですから。やはりこんな考えは愚かだと、フラン殿なら思うでしょうが」

「いいじゃないか、自分で決めたことなのだろう? 何も考えもせず、ただただ周囲の虚言に流されるものどもよりよっぽどいいさ」

 フランはアイザックの考えを、否定もしなければ肯定もしなかった。

「自分で決めたこと、ですか」

「そうさ、久方ぶりに前線から帝都に戻ったら平和ボケした貴族連中の多いことに呆れたよ。彼らには意志も何もなく、ただ己を着飾ることにしか興味がない。どうしてそんなことをしてるかも、実際分かっていないんだ」

 フランは杯に残った葡萄酒を一気に飲み干す。

「でもねアイザック、いくら君が彼らを平等に扱おうとしても、相手が君を対等の立場で見るかどうかはまた別問題だ。とくに、別の乱雑な主人のもとにいた者や、もともと奴隷じゃないやつらはね。彼らにとっては君は圧制者であり、有利な立場から者を言っているただの指輪持ちに過ぎない。帝都ではあまり聞かないかもしれないけどね、属州では油断して寝首を書かれる主人たちも少なくない」

 奴隷が主人へ害を加えた場合、極刑、よくて終身刑だ。帝都で主人に逆らった奴隷の話はほとんど聞かない。

「気を付けては……いるつもりです」

「これは友人としての忠告だよ。相手の手を握るのは構わないが、武器か、相手を縛る鎖は常に傍らに用意しておくものだ。いざというときのためにね。君がどう考えるかは自由だが、結局、指輪を嵌めた者と、首輪を巻いたモノには大きな差があるのだからね」

「鎖、ですか」

 ──ジャラ──とアイザックはソフィアを初めて見た日を思い出す。彼女を縛る鎖の音で、初めて彼女の存在に気が付いた、あの日を。

「フラン殿、それは、たとえば、相手が死にかけていても縛るべきでしょうか? 」

「私だったらそうするね。死に際で追い詰められているものほど、最後に何をしだすか分からないさ」

 幾度も戦場で戦ったフランのことだろう、もしかしたら、過去に死に際の者と戦ったのかもしれない。しかし、アイザックには奴隷商で鎖に縛られている人々の、あの悲しい眼と、鎖と首輪から解放された屋敷の人々の笑顔を見た後に、彼らを再び鎖で縛るなどと言うことは、到底考えられそうにもなかった。





 翌日の朝、アイザックはもう何度目になろうかという、ソフィアの怯えた顔を正面に見ていた。彼女はアイザックの書斎にわざわざ呼び出されたのだ。書斎の椅子に座っているアイザックは、机越しに、彼女と向き合う形だ。

 しばらくは、メリッサの提案もあり、彼女が落ち着くまでこちらからはあまり話しかけないつもりだったが事情が変わった。どうしても聞きたいことがあった。

「昨日は書類を片してくれてありがとう。助かったよ。しかも全て順番通りに直してくれたんだ。それで聞きたいのだが」

 書類の中には書きかけの文書もいくつかあり、それらも丁寧に、種類ごとまとめられていた。普段であれば気づきもしないのだが、書きかけの書類があったと、ここ最近、他のものに整理を頼んだ際と違っていたからふと心当たりがあったのだ。

「もしかして、君は文字が読めるのか? しかも、第三古語(アル・サルス)が?」

 奴隷で読み書きができるものは、家庭教師などよほど特殊な高技能の奴隷たちだけだろう。市民とてほとんどの者は読み書きできない。加えて第三古語(アル・サルス)は現在では使われていない言語で、芸術か学術に関わるものしか使われない。

 言葉を発せずとも、ソフィアの顔は肯定と答えていた。ソフィアは、不安そうな目でこちらを見つめる。

「あ……別に文章の内容を読んだことを咎めていたり、君を処罰するとかではないから安心してくれ。ただ、知りたくてね。読めるなら、君は書くこともできるのか?」

 ソフィアは、しばらくの間をおいて、頷く。

「試しにここに何か書いてみてくれないか、そうだな、君の名前とか? 現代共通語(ゲーゲン・ワルド)でも構わない」

 机にあった紙とインク壺に入った羽ペンを渡す。彼女は、やや震えながらも、慣れた手つきで、

 『ソフィア』と、現代共通語で記した。

 字体からは丁寧さと柔らかさが伝わってくる。そのまま続けて、

『今まで黙っていたこと、大変申し訳ありませんでした』と書いた。読み書きについて教えなかったことの謝罪のようだった。

「だから……咎めてはいないんだ。一度でも聞かなかった、こちらも悪かったんだ」

 そもそも普通の人々で読み書きができるなど考えていなかったので、盲点だった。

「前の主人の元で、書記としてでも働いていたのか? 」

 途端にペンが止まる。どう答えようか、考えているようにも見えた。

「……もし答えたくなかったら答えなくてもいいんだ。そうだな。いつ、誰に読み書きを教わったんだ? 」

『両親からです』

「君の家は商家か何かだったのかな?」

「──」

 再びの沈黙。商家でなければ支配州の元貴族だろうか。しばらく続けて彼女の過去に関する問を投げてみたが、ほとんどの答えは沈黙だった。

 ソフィアと腰を据えて対話できる初めての機会でもあったし、せっかくなので他の話題を聞くことにした。屋敷に来た人々の中でもソフィアについてはほとんど知らない。

「そうだ、怪我の具合はどうだ? 首の怪我、首輪と擦れて痛んだりしていないか? 」

 首を横に振るソフィア。ソフィアの首輪から除く喉元には、まだはっきりと人の手の痕が残っていた。

「できたら、もっと、言葉を使って教えてほしいんだ。些細なことでも、傷が痛んだりしていないか? あれば書いてほしい」

 アイザックが紙片をソフィアの前へ差し出すと、ソフィアは

『問題なく働けます』とだけ書いた。

「この屋敷には慣れたか? なにか不便なこととかは? 」

『特にありません』

「食事は? 十分にとっているか? 」

『十分です』

「ほかの屋敷の者たちとはうまくやってるか? 」

「……」


 ソフィアは、次々と重ねられる些細な質問に、困惑しているようだ。しまった、これでは随分と一方的ではないか──アイザックは苦笑した。

「……こんなに質問攻めしてたら困るだろうな。やっと会話ができたみたいで嬉しくなってついつい歯止めが利かなくなってしまった……ずっと、君と落ち着いて対話してみたいと思っていたから。初めて見た日から、君の瞳は、何かを物語っている気がしてね」

 その時、ソフィアは、やや解せない、というような疑問の表情を呈した、ような気がした。恐怖や怯えた感情を見せたことはあっても、こういった表情を目にするのは初めてだ。首をやや傾け、そのあとに、疑念の混じった表情、そしてすぐにいつもの、無表情に近い顔へと戻った。

「あ……別に君に対して変な気持ちをもっているとかじゃない。信じてもらえないかもしれないが、ただ単に、ずっと怯えられていたものだから……というより、俺が怖かったのかな。君を傷つけてしまいやしないかと」

 ソフィアは、またしばらく間を開けた後、何やら書き出して、こちらに差し出した。

『貴方は私の主人です。奴隷は道具なのに、どうして、私を傷つけるのを恐れるのですか? 』

 初めて、ソフィアの方から、アイザックへ発せられたことばだった。

「え……」

 彼女の質問に、戸惑っているうちに、ソフィアは次の文章を急いで続けた。

『差し出がましい質問でした。お忘れください』

 彼女は申し訳なさそうに頭を下げる。違う、気を悪くしたから答えれなかったのではない。これでは、また、彼女を委縮させてしまう。

「そんなつもりでは……ないんだ。俺は、君のことを」

 ──バンッ!

「──!」

 アイザックは、机に手を叩きつけた勢いで椅子から立ち上がっていた。正面にいたソフィアの顔がひどく近い。彼女は突然近づいたアイザックにひどく驚いて、後ろにほとんど飛び下がった。

 ──しまった──彼女を動揺させることだけはしまいと思っていたのに、意気込みすぎだ。

 アイザックはよろよろと、後ろにあった椅子へ崩れ落ちた。

「ごめん、今のは、怖かっただろう。今日はもう下がってくれていいから」

 ソフィアを見るのをはばかられ、頭をうなだれる。君のことを、──教えてほしいだけなのだと──言いたくて言い切れなかった。一体どうして彼女に対してこうも感情的になってしまったのだろうか。


「────」

 しばらく時がたっただろうか、息を大きく吐いて、顔を上げると、机の前にはまだソフィアが立っていた。そういえば、ドアの音がしなかった。

「どうして……? 君は動揺していると思ったから帰したんだ」

 ソフィアも、アイザックに話しかけられたことで、やっと自分がまだ書斎にいることを思い出したようだった。

「すまなかった。さっき、君からの質問を、意外だと思ってしまったんだ。会話を望んでいたのはこちらだというのにね。それに、俺は少し興奮してたんだ、君と会話できて」

 ソフィアは何をするでもなく、正面に立ち続けている。アイザックは続けた。

「質問の答えだけど、君は道具ではない。一人の人間だからだ。俺は、確かに今は君の主人かもしれないが、人として対等にありたいと思っている。これで、答えになっているだろうか? 」

「──」

 もう何度目か分からない沈黙。もしかしたら数秒の事だったのかもしれないが、アイザックには、ひどく間が空いたように感じられた。


『アイザック様が寛容な方だと分かりました 』

 ソフィアは、アイザックの答えに対して、そう、応えた。

「もし、君に、納得してもらえたならいいんだ」

 こちらに害意がないことを、少しでも知ってもらえるだけでもありがたかった。


「それで……今日君に来てもらったのにはもう一つ理由があってね。もし君が嫌でなければ、手伝ってほしい仕事がある。君が読み書きできると分かったから」

 アイザックは椅子の上で姿勢を正した。

「私の仕事の補佐を頼みたい、といっても難しい仕事ではないんだが」


「以前までは仕事を補佐してくれていたものがいたんだがね、彼は年なのもあって引退したんだ。もともと読み書きできるものはこの屋敷にほとんどいないのもあって、今は書斎の仕事は私が一人で片している。ただやっぱり、この手足ではなかなかに不自由でね、まず片づけがうまくいかない」

 アイザックは書斎を見渡す。ソフィアも同じ方向へ目線を動かした。高いところのものや、重い書物が片しきれなくて床に積みあがってしまっている。

「それと、細々とした書類のやり取りも一人だとなかなか捗らなくてね。いつもつきっきりでなくていいんだ。一人での仕事もいくつかある。もし、君が嫌でなければ、引き受けてくれるか? 」

 昨日の話と合わせて、もし彼女に識字能力があるのなら、彼女にはもう少し、一人で静かな仕事を与えてもいいのではとメリッサと話し合った。

 今度はさほどの間をおかずに、ソフィアは、

『命令とあれば引き受けさせていただきます』

 と、書き記した。

 『命令』の文字に苦い気持ちではあったが、引き受けてくれるのはアイザックとしてもとても助かる。

「ありがとう、引き受けてくれて嬉しいよ」

 実際の仕事は明日から、ということソフィアに伝えて、今日は下がらせることにした。ソフィアは、深々と頭を下げて、そのまま元の仕事へ戻っていった。部屋に入って来た時よりも、幾分緊張が解けたと感じるのは、思い込みが過ぎるだろうか。


 アイザックは、ソフィアが去ってから、しばらくぼんやりとしていた。決して、悪い気分ではなかった。仕事を手伝ってくれるのはありがたい、けど、一番は、ソフィアと、会話できたから、なのだろう。アイザックは、昨日の会話を思い出した。メリッサの励まし、屋敷の者たちの明るい顔、馬屋での出来事。

 ソフィアも、いつか、笑顔を浮かべたり、彼らと混じって生活できる日がくるのではないかと。

 マイセルの提言や、フランの忠告も思い出した。主人としてふるまうこと。けれども──アイザックは心の中で呟く──やっぱり、俺は主人としての立場からではなく、一人の人として、彼らを対等に扱いたい。そう、これは俺が決めたことなのだ。最初はあんなに怯えていたソフィアだって、今日少し打ち解けたではないか。だから、このままでいいのだろう。

 アイザックは、胸の奥底の不安と同時に、小さな希望を見出そうとしている自分に気が付いた。その光は、まだとてもわずかなものだったが、いつか、不安ではなく、希望を強く抱いていられる自分でありたいと、アイザックは願った。




第二章 了

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