第四章 人の海 ─7─
「─────随分と仲がいいんだな、君たちは」
一方的に成りかけていたリンチを止めたのは、低く、力強い男の声だった。
声の主は、屋敷の主人であり、傍らには数人の兵士と、マイセルもいる。
カールとオスカーは、ぴたりと動きを止める。
「フランベルグ様……!」
「こんなところでにぎやかなことだ。私も混ぜてもらおうかな?」
フランベルグが、食事の名前を聞くぐらいの気安さで問う。
しかし、そこには有無を言わさぬ圧力があった。
頬の腫れた、エドガーが答えた。
「アイザックの奴隷が俺たちに無礼を働いたもので、責任を取らせよとしたら、アイザックが断ったのです」
「それにしては二対一とはずいぶんと騎士道精神にかけてるじゃないか、エドガー、君らしくもない」
「それは……」
「まさか、アイザックの奴隷も頭数に入れるとか言ってくれるなよ?彼女はとても戦えそうに見えない」
フランベルグの声は、怒っているわけでもないのだが、聞いているものに反論を与えない。
「アイザックの言い分も聞こうか?」
「私は……二人が、ソフィアを侮辱したので、謝罪を求めました。ですが、謝らないので、ついもめてこの有様です……」
アイザックは、素直に自分の非は認めることにした。フランには正直に言ってしまった方がいい。
「侮辱したも何も、元と言えばお前の所の奴隷が俺に噛みついたんだろうが」
エドガーがイラつく。
「ほう?噛みついた?それは本当なのか? ソフィア?」
フランは、ソフィアの方へ尋ねる。
彼女はといえば、隅で帯を両手に握りしめて座り込んでいる。
フランの問いが聞こえてないようだ。
「ソ、ソフィア!」
暗がりであまり見えないとはいえ、ソフィアの上半身は、ほとんど露出していた。
アイザックは、急いで彼女の元へ寄ると、泥だらけになってしまった自分の上着を彼女に被せる。
『────!』
ソフィアは、アイザックに上着をかけてられて、我に返ったようだった。
「大丈夫か……というほど大丈夫でもなさそうだな。ごめん」
彼女は、アイザックが何を言っているか訳が分からず、首をかしげている。
「それでどうして君はエドガーに噛みついた?」
フランがもう一度問う。
「フラン殿、ソフィアは何か書くものがないと」
「ああ、そうだったか。誰か、書くものはもっていないか?」
「フラン殿、そんな奴隷の話を聞くというのですか?私たちは、その奴隷が野犬に襲われていたところを助けようとしたのです」
「おいよせ、エドガー」
憤るエドガーをカールが小声で諫める。
「へえ、野犬?」
フランは、興味をそそられたようだった。
「面白いことを教えようか、エドガー。私の敷地内で野犬など、ここ数年現れたことがないのだよ」
「なっ」
エドガーは完全に墓穴を掘ったようだった。
「私の屋敷の兵士たちが狩りつくしてしまってね。私の部下は優秀だからね、グライスナーの家で諍いがあったことは、ここ数年全くないんだ。まだいるなら、ぜひこの手で狩りたいところだが」
儀礼用とはいえ、フランが腰に飾ってある剣を抜くと、刀身が月光に輝く。
エドガーが震えた。
「酒癖が悪いのは君達の悪い習性だよ、カール、エドガー?」
「犬狩りも結構だが、今日の私は忙しいんだ」
フランの一言で、事は終了となった。
両者とも納得のいく終わりではなかったが、フランの客人として招かれている以上、反論することも許されなかった。
「とはいえ、屋敷で不快な気分にさせた客人をそのまま帰すのはしのびないのでね」
とフランは続け、四人とも手当てを受けることになった。
屋敷の方でも、他の客らが、騒ぎを聞きつけ、庭から戻ってきたアイザックを出迎えてきた。
中にはヴィルフリートもおり、アイザックの進路上に並んでいる。
兄を避けて歩くのも敗北感がある気がして、そのまま横を通り過ぎたとき、アイザックに聞こえる声で、ヴィルフリートが言った。
「お前は、自分より弱いものを救うことで、自身の弱さをごまかしているに過ぎない」
「なっ!」
「結果がこれだ」
それだけ言うと、ヴィルフリートは去っていった。
「それにしても、アイザック様が喧嘩とか、何年ぶりですかねぇ」
パルムが、気まずい空気に水を差すようにぼやいた。
軽い手当てを済ませたエドガーとカールはさっさと出て行ってしまい、殴られた手数が多かったアイザックは、小部屋で手当てを終えたところだった。
「………………ソフィアは、どうなった?」
「隣の部屋で手当てを受けているそうです」
マイセルが答える。
「ソフィアの様子を見てくる。パルムは、フィデルに帰る支度をするように伝えてくれ」
「了解です」
頼りない背中で部屋を出ていく主人を見送った後、マイセルとパルムは目を合わせた。
隣室のドアを叩くと、内側から返事が聞こえてきた。
女中がドアの内側から顔をのぞかせる。
「ソフィア……私の屋敷の者がここにいると聞いたんだが」
「それなら、先ほど手当てが済んだところです」
「よかった、中に入っても?」
当然でございます──と返事をした女中はアイザックを招き入れた。
壁際に据えられた椅子に、ソフィアが所在なさそうに座っている。
アイザックに気がついたソフィアは、ほっとした表情を浮かべた。
そのまま立ち上がろうとするが、挫いた左足に力を入れようとしてよろめいた。
アイザックは慌ててソフィアの元へ寄った。
「ソフィア、痛むのか?」
「捻挫程度ですから、数日安静にしていれば、元の通りに歩けるでしょう。あとは、軽いかすり傷と打ち身が数か所あるだけです」
女中は補足するように後ろから声をかけた。
「そうか、礼を言う」
女中は気を使ったのだろう、「私は席を外すので、何か必要でしたらお呼びください」と言い、部屋を出て行ってしまった。
「────」
アイザックは、更に言葉を続けていいものかと、悩んだ。
ソフィアはと言えば、アイザックを見つめている。
「怪我の方は、ひどくないようでよかった」
彼女は頷いた後、突如首を横に振り、アイザックを指さした。
「ん?顔に何かついてるか…?ああ、俺の傷のことか、大したことないよ」
殴られたのはアイザックなので、口の端が切れ、頬が腫れていて、一見しただけでは、アイザックの方が重症に見えるのも不思議ではない。
「そんな見た目の傷より、君の方が大丈夫なのか?」
『────』
アイザックが駆けつけたときに開けていた衣服は、元の通り着なおしている。
ソフィアは、少し目を逸らせながらもうなずいた。
「──本当に?」
今度は強い頷きだった。
最悪の事態は避けられたのだろうか。もっとも、襲われている時点ですでに最悪とも言えたが。
「なら──よかった──もっと早くに気がついていれば、君はこんな目に合わなくて済んだのに」
アイザックは、右拳を握りしめる。エドガーを殴った際に切れてしまった肌がヒリヒリと痛んだ。
近くにあった別の椅子を引き寄せてソフィアの正面に座る。
ソフィアはまたしても立とうとするが、そのまま安静にしてるよう合図した。
「さっき、庭から戻ってきた時、兄とすれ違ったんだ──俺は自分より弱いものを救うことで、自身の弱さをごまかしているに過ぎないって言われて、言い返せなかった」
ソフィアの目を見ることができなくて、うつむいたまま続ける。
「カール達が、あそこまでするとは、思っていなかったんだ。いつもだったら、酒癖が悪いくらいで、でも、俺の考えが足らなかった」
顔を伏せていると、ちょうど、彼女の膝のあたりが見える。ソフィアが、膝に置いた手でスカートの裾を強く握っているのが見えた。
「俺は、嬉しかったんだ。君が、何かを願ってくれているのが。俺を頼ってくれたのが──イリヤのことは残念だった──」
結局のところ『彼女を助けたい』という願いは、俺の願いでしかないのではと、疑惑が浮かぶ。
そもそも、その願いすら──
「結局、君を、助けられなかった。フラン殿が来てくれなければ、俺一人だと、何もできなかった」
頭を抱える。
もう、彼女の姿の一部すら視界に映るのが悲しくて目を閉じた。
──ソフィアには、いつもこんな姿ばかり見せている気がする──
どれくらいたったのだろうか、それともほんの一瞬だったのかもしれない、右手に、温かいものが触れた気がした。
再び目を開くと、右手の甲に、ソフィアの指先が触れている。
『────ぁ──』
彼女は、何かを伝えたそうに口を開いては閉じている。
時折にかすれた息の音が混じるが、何を言っているのか分からない。
「──どこか、痛むところがあるのか?」
ソフィアは瞼を半ば閉じて、激しく首を振る。
そして、突如思い出したように、懐を探し回り、周囲を見渡している。
「筆記版か──?」
どうやらこれまでの騒動でどこかで失くしたようだ。
「それなら書くものをさっきの女中に──」
アイザックは屋敷の者を探そうと立ち上がろうとしたが、ソフィアはアイザックの右手を両手で握り、アイザックを引っ張った。
「どうしたんだ?」
ソフィアはまたしても首を横に振り、片方の手でソフィアの左隣を指さす。どうやら隣に座れという事らしい。
「何か話したいことがあるんじゃないのか?」
ソフィアは強く頷きかえす。
そして、アイザックの右手を開き、指先で手のひらをなぞり始めた。
彼女の細長い人差し指で掌に触れられるとくすぐったい。
やがてそれは、とあるパターンをなぞっていることに気がついた。
「て…れ…た…?──じゃないか、……たす…け…に…きてくれ……た?」
手のひらに書かれた言葉が通じたことが嬉しいようで、ソフィアは大きく目を見開いて頷く。
「確かに君を、助けに『来た』けど、実際のところ君を助けたのはフラン殿のおかげだ……」
アイザックは肩の力を落として言った。
『───』
再び指先が手のひらに触れる。
「────たすけに、きて……くれた……だけで……うれ…しい」
『──いままで、たすけをよんでも、だれかきてくれたことなんて、なかったから──』
だから、誰かが来てくれただけで、それだけで、嬉しいのだと、彼女は綴る。
『──あなたのこえが、きこえたとき、あんしんした──』
『助けに来てくれたのは、アイザック』
──アイザック、力のこもった指先で締めくくると、ソフィアは両の手で、アイザックの右手を優しく包み込んだ。
手を伸ばすだけで、差し出された相手は、嬉しいのだろうか。
ならば、これからも、手を伸ばし続けることは、許されるだろうか。
「──君がそう言ってくれるなら、俺も嬉しい」
アイザックは義手の左手を、ソフィアの手に重ねた。
伸ばした手に答えてくれることは、アイザックにとっての喜びなのかもしれなった。
体温など感じないはずの、義手にも彼女のぬくもりが通じた気がした。
「アイザック様、馬車の準備ができたようです」
しばらく互いに見つめていただろうか、ドアの向こうから聞こえたマイセルの声に、驚く。
「分かった。ソフィアも、歩けそうか?」
『──』
彼女は短くうなずき返した。
辛いことを映したであろう、碧色の瞳は光を失っていなかった。
その光は、アイザックを照らす、灯のようにも見えた。