第四章 人の海 ─5─
「やあアイザック、君の礼服を見るなんて、いつぶりだろうね?」
「フラン殿、今日は何時にも増して、凛々しくていらっしゃいますね。この度は、祝賀会にお招きいただきありがとうございます」
アイザックは、しばらく顔見知りの貴族らと社交的挨拶を──かなりの割合で皮肉を──交わしたのち、フランが近付いてきた。
フランはどうやら客人へ挨拶回りをしているらしい。
「私は、普段の軍洋服の方が好みなのだけどね、まあたまにはこういう趣向もありだろう」
「昇格の暁には礼服に身を包んでる時間が、もっと長くなるだろうと思われますよ」
フランは、意見こそ時に鋭いが、それは至極まっとうなもので、他の貴族と違い、当てつけで話しかけてこないところが、落ち着く。
「それは否定できないがね。おや、ソフィアも連れてきたのか」
フランは、マイセルとパルムの間に埋もれるようにして立っているソフィアを見つけて言った。
目立つのを避けるためにいつの間にかこういう立ち位置になっていたのだ。
ソフィアは、フランにうやうやしくお辞儀をした。
「また君も、彼女を連れてきてまわりからとやかく言われなかったのかい?」
「よくご存じで……」
あまりにも図星のことを言い当てられて、返す言葉もない。
「ええ、フランベルグ様、アイザック様にもっと言ってあげてくださいませ」
後ろからマイセルが、大げさなため息をついた。
「ヴィルフリート様を筆頭に、ひたすら言われっぱなしなのですから」
「アッハッハッ! 君も苦労しているね、マイセル。随分と使え甲斐のある主人で」
「これも私に課せられた使命なのでしょう」
マイセルは、会話のはずみとして言っているだけとアイザックには分かっていたので、なすがままにしておいた。
「なかなかに面白い若者だからね、大切にしてやっておくれよ。そうそう、そんな君に新しい友人候補を紹介しようじゃないか。先日話していた者だよ。君の奴隷の友人候補も見つかるかもしれないが」
と、ソフィアに一瞬目をやると、フランは広間の奥にたたずんでいる男の方へ向かった。
男は、四十を過ぎているだろうか、いかにも西方諸国らしい、長いローブと頭にはターバンを巻いていた。
首には、帝国外の民に発行される譜をかけていた。
帝国内を渡航する際は、譜が、腕輪や指輪代わりの身分証明となる。
「トルノ! ずいぶんと寂しそうに立っているね。紹介しよう、こちらはアルケミア帝国貴族、アイザック・オズワルドだ。私の命の恩人なんだ。アイザック、彼はトルノ・クロウパ。ラン・トワンからはるばる来たんだ」
「お初にお目にかかります、アイザック・オズワルドと申します。ラン・トワンとはまた随分と遠いところからお越しになりましたね」
「初めまして、アイザック・オズワルド。私も、大砂漠を渡るのはこれが初めてではないのですが、いやはや、何度横切っても遠いものですね。ところで、貴方が、フランの恩人とは、失礼ですが、一体何をなされたのですかな?まだお若くていらっしゃる」
トルノは、西のやや強いアクセントで話した。
その声は、どこか憂いを秘めているような、それでいて深みのある声だった。
「恩人と言うほど、大げさなものではないのです……。私が医療助手として軍役に服していた際、フラン殿が負傷された折に、たまたま私しかおらず、手当てをしただけなのです」
「そこは謙遜しなくていいんだ、アイザック。君があの時治療してくれなかったら、今もこうして歩き回っていたか分からないからな。トルノ、彼は少々自分を卑下しすぎるきらいがあるが、根はしっかりした若者なんだ」
「フラン殿、恐縮です……」
「彼は軍を退役して、今は義肢の設計などをやっているんだがね、異国のものに興味があってね、君とも気が合うんじゃないかと思ったんだよ」
「ほう、義肢の設計とはまた興味深いですね。なるほど、フランが私に紹介した理由も理解できますね。私は、本国では装身具を扱っているのですが、中には義肢に近いものもありますからね」
「そうなのですね……!それはぜひお話を伺いたいものです」
フランが、気が合うと言っていたのは、トルノの商売のことも含んでいたのだろう。
アイザックは、心が少し弾むのを感じた。
「ふむ、順調なようだね。トルノ、君も少しは気分が晴れるといいのだけど。アイザックなら話し相手としても向いているからね」
「フラン、そこまで気がついていましたか……」
「今日の君は、いつもより憂いを増しているようだらね。おっと失礼」
フランの従者の一人が近付いてきたかと思うと、彼に小声で何かを伝えた。
「すまないね、しばらく二人で盛り上がっていてくれないかな。少し席を外さなくてはならなくなってしまった」
「いえ、フラン、今日は貴方が主役でしょう。私たちのことはお気遣いなく」
「フラン殿、ご紹介いただきありがとうございます。また後程」
フランは、別れの言葉をかけると、屋敷の別室の方へ向かっていった。
「ところで、アイザック、失礼、アイザック殿。後ろに控えている者たちは、貴方の連れですか?」
「アイザックで構いません。ええ、彼らは私の屋敷の者です、執事のマイセル、従者のパルム、そして書記官のソフィアです」
アイザックは、ソフィアのことを切り出さねばならないと考えていたので、ちょうどよい機会だと思った。
「ソフィア……と言いましたね。もう少し近くに寄ってくれませんか? すまないね、私は近頃目を悪くして、近くでないとよく見えないのです」
アイザックは、ソフィアに無言で合図を送ると、ソフィアは、おずおずとトルノの前に出た。
「君は……まさか!」
トルノは、ソフィアの鼻の先まで顔を近づける。
あまりにも突然の動きに、ソフィアは少し後退した。
「あの……トルノ殿。私は、フラン殿からあなたについて少しうかがっていたんです。ソフィアと、同じ見た目をした者を、貴方が連れていると」
アイザックは、トルノが従者を二人後ろに控えさせていることに気がついていたが、どちらもソフィアと同じ特徴を持ってはいなかった。
「…………フランは私を驚かせるのが好きなようだ。ええ、貴方のおっしゃる通り、私の商会には、銀の髪と碧眼を持つ青年が一人いました。ソフィアと全く同じ外見のね」
『────!』
ソフィアも、期待するようなまなざしでいる。
「……実は、ソフィアは同郷人を探していまして、差し支えなければ、その、青年について伺いたく思っております」
ソフィアと同じ故郷の人間。
アイザックは、そこから、ソフィアについて更に知れるのではという期待も抱いていた。
彼女が、ここまでやってきた理由と、過去も。
トルノは、憂いを秘めた瞳を、一瞬伏せた後、天井を仰いだ。
「これは、ズィーカ神の導きなのでしょうか……? ええ、そうに違いありません。実は、今日も、彼を連れてくるつもりでいました」
「彼は、体調を崩したのですか?」
トルノは、天井を仰いだまま瞳を閉じて、言った。
「────彼は、イリヤは、亡くなりました……」
『──!』
「……!」
アイザックは、さすがに驚きを隠しえなかった。
ソフィアを横目にみると、碧色の瞳が、いつもより大きく広がっているのが見えた。
『トルノ様、ご無礼を承知でお願いいたします。イリヤについて、教えていただけないでしょうか。彼は、確かに、私の友人でした』
「──ソフィア、君には話しておくべきかもしれないね、イリヤは、自害したのです」
──トルノが、イリヤに出会ったのは、一年ほど前だったという。珍しい奴隷を扱っていると、他の商売仲間に連れられて行った店で、売られていたのだそうだ。
酷くやせ細っていて、店の片隅に追いやられていた姿と、珍しさにひどく惹かれて、買ったのだそうだ。
看病の甲斐もあり、イリヤは間もなくして回復した。
手当てをしてくれたトルノに、イリヤは恩義を感じ、トルノの元で働き始めた。
物覚えも早く、学もあったイリヤは、何かとトルノの役に立った。
西方にも奴隷制はあれども、アルケミアのように階級差がはっきりと分かれていないので、トルノは、イリヤと親子のような間柄にまでなった。
「私には、妻はいますが、息子を若い時に亡くしましてね。どこか、彼を息子のように思っていたのかもしれません」
──息子、か。
トルノがイリヤに息子の影を求めたなら、俺は、あの日、ソフィアに、何を見出したのだろう。
アイザックは、話を聞いてる最中に、ソフィアを横目に見た。
その表情は、悲しみが含まれていたが、どこか、それほど驚いていないように見えるのは、気のせいなのだろうか。
イリヤは、時々、トルノの危機を察知したようなふるまいをして、トルノの窮地を何度も救った。
トルノは、イリヤを神から授かった幸運の遣いとすら思うようになった。
しかし、イリヤは自分の過去はほとんど語らなかったという。
「──過去に辛い目にあったから、私のような主人に買われただけで光栄だ。と機会に触れては言っていました。せめて、彼の心の傷にもっと寄り添えてたら、彼を亡くさずにいられたのではと……」
「──そんな、話を伺う限り、貴方はイリヤに優しく接していたではありませんか。なぜ……?」
トルノは、こめかみを抑えつつ首を横に振った。
「──あれは、大砂漠を渡って、帝国領土へ入りたての頃でした。その地域は、野盗たちの噂が立っていましたが、私達は急いでいたので、夜分に隊を移動させたのです。ですが、それがいけなかった」
イリヤは、別の迂回路を提案したが、トルノは、行程が遅れていたこともあって、最短距離を進むことを譲らなかった。
進んだ先には、野盗たちが待ち構えていてが、戦闘になった。
小競り合いになったものの、イリヤの予測が早く、対応できたので、すぐに抜け出すことができた。
ただ、その際、トルノを護るために、正当防衛とはいえ、イリヤは何人か殺めたという。
「──それからです、彼の気が落ち込むようになったのは。帝国の内部へ進むにつれ、人込みへまぎれるにつれ、彼はますます気落ちするようになった」
「………」
しばらく、トルノは言葉に詰まっているようだった。
『イリヤの、最後の日はどのような感じだったのですか?』
沈黙に耐えられないのか、ソフィアはおずおずと、筆記版を差し出す。
「あれは、私と一緒に市場へ出かけた日の夜でした、彼は、ポツリと言いました────もう、世界を『視る』ことに、疲れたと。汚れてしまった人間は元に戻れない。トルノ、貴方にもっと早く出会っていればよかった──それが、彼の最後の言葉です。次の朝には宿舎のベッドの中で、持っていたナイフで──」
──己の手首を切っていた──と聞き取れたところで、トルノは、顔を下に向けてしまった。口元に手をあてる。
「──申し訳ない。こんなお姿をお見せしてお恥ずかしい……」
「いえ、謝るのはこちらのほうです。辛いことを思い出させてしまって。何か飲まれてはいかがですか?」
アイザックは、パルムに目線で合図すると、パルムは、飲み物を探しに離れた。
受け止めきれない過去を思い返すのは、誰にだって難しい。
パルムの持ってきたワインをあおると、トルノは、少し落ち着いたようだった。
『イリヤのことは、お悔やみ申し上げます。彼は、実直な青年でした』
ソフィアは、何度も頭を下げる。
「やっぱり、イリヤのことを知っているのですね。貴方に会えてよかった──トルノにもう一度会えたような気がして」
トルノは、悲しみと、懐かしさの混じった表情をソフィアに向ける。
『推測ですが、イリヤが死んだのは、貴方のせいではないと、思うのです』
「なぜ、そう言える? 彼を死なせてしまった、私を?」
ソフィアが書き出した言葉は、アイザックにとっても意外だった。
トルノもアイザックも、ソフィアの次の言葉を待った。
ソフィアは、慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと綴る。
『トルノ様に会うまでに、すでに、彼は絶望していたのかもしれません。私も、似たような気持ちでしたから』
それは、ソフィアが語らない過去と同じなのかもしれない。
『私たちが最後に会ってから、彼が、どんな過程を経て、トルノ様の所にたどり着いたのかはわかりません。けれど、トルノ様に気を許したからこそ、最後に、心の詰まっていたことを、言えたのではと思います。何も言わずに、消え去ることも、彼にはできたはずなのですから』
「そう、言ってくれるのか……君は」
『彼が、トルノ様を何度も守ろうとしたことは、彼が決めたことです。けれども、それまでに受けた傷が、イリヤには、耐えようのないものだったのだと。癒しきれない傷だったのだと思います』
それが、瞳の力のことを指しているのか、アイザックには測りかねたが。
「癒しきれない傷と……」
「そうですよ、最後に会えたのがトルノ殿で、イリヤは少しは希望を見出した、と考えることもできますね。だから最後に『もっと早く出会えてれば』と言ったのかと」
ソフィアが言った通り、辛い過程を経た後に、トルノに出会えたのは、イリにとってはあたたかな思い出だったかもしれない、というものの見方もできる。
「アイザックまで……。そうだったら、どれほど救われるか」
トルノは、再び崩れ落ちそうな、クシャっとした表情を浮かべた。
「やっぱり、これは神の導きなのでしょう。ソフィア、あなた方がどのような道を経てここに流れ着いたのかは、聞かないでおきましょう。きっとあなたも、イリヤのように傷を抱えているから。無理にこじ開けることはもうしたくない」
『お気遣い、ありがとうございます』
「アイザックも、彼女を連れてきてくれてありがとう」
「いえ、こちらこそお話しいただけて助かります」
「私は、今日はこの辺りで戻らせてもらうとします。また何か聞きたいことがあれば、宿の方まで遣いを下さい。しばらく滞在しておりますから」
トルノは、本当に具合が悪そうだった。
「ソフィア、貴方はせめて、貴方の抱える傷が癒えますように」
──あなた方にエリエム神の加護があるように──トルノは、最後に、西方式の礼を深々とすると、離れていった。
「ソフィア……残念だったな」
他の人々に紛れて見えなくなっていくトルノの背中を、ソフィアは見つめていた。
こちら側からは、彼女がいまどんな表情を浮かべているのか、分からない。
『実は、こんな結果になるのではと、覚悟していました』
振り返った彼女に差し出された筆記版は、そう答えた。
「覚悟?」
『おかしな話だと思われますが、私は、実は、同族の誰かに会うことが、とても怖かったのです。私は、彼らと最後に会って以来、随分と変わってしまいましたから。その変化を、咎められるほどに』
「以前の君とは、そんなに違うのか?」
『変わったというより、汚れたといえばいいのでしょうか。同郷の者たちは、みな誇り高かった。私は、生き延びるために、それを捨ててしまった。イリヤも同じ気持ちだったのかもしれません』
書ききると、ソフィアは、今までため込んでいたのか、息を大きく吐きだした。
「汚れた……? 私には、君が汚れているように映らないけど」
ソフィアが何か言う前に、急いで続けた。
「でも、頼むから、君は、抱えきれないことがあったら、どんな形でもいい。助けを、求めてほしい」
イリヤのように、手遅れになるまえに──
アイザックは、彼女の肩に、右手を置いた。
ソフィアは、一瞬泣き出しそうな顔を見せた後、儚い微笑みを見せた。
『ありがとうございます』
『わがままを言って申し訳ないのですが、しばらく、どこか隅で休んでいてもいいでしょうか? 気持ちを落ち着けたいのです』
晩餐会もいよいよピークを迎えた頃合いである。
無理からぬことだ。
様子を見にやってきたフィデルに、ソフィアを任せることにした。
「すみません、ソフィアを見失いました、こっちに来ませんでしたか?」
しばらくすると、フィデルがアイザックの元へ急いでやってきた。
「食べ物を取りに行ったとかじゃなくて?」
パルムがありつけた肉をかじりながら言う。
「どうしても見当たらないんだ、腹減ってるか聞いた時は全然そんな様子じゃなかったし……エドガー様?だっけ、あの、いつもパルムが話してるちょっと面倒な貴族。あの方に突然話しかけられて、一瞬の間に、何も合図無しで消えたんだ」
「フィデルが話しかけられたのか、随分と変な話だな」
──なにか、嫌な予感がする
アイザックの直感が告げていた。
「何か手がかりはないのか。良くも悪くも目立つんだ、誰かしら目撃してるはずだ」
「俺、守衛らに話を聞きます、フィデルは玄関の方な!」
パルムは主人の様子が真剣なのを悟り、フィデルとそれぞれ別の方向へ駆け出した。
「アイザック様はマイセル殿と離れないでくださいね!」
パルムは最後に付け足して消えていった。
「くそっ」
アイザックは、握った右手で近くの柱を殴りつけた。
「アイザック様、焦りは禁物です。まだソフィアが消えただけでどうして消えたのかは分かっていないのです。夜風に当たっているだけという可能性もあります」
マイセルは、アイザックを落ち着かせるために言った。
「……分かっている。でも、違うかもしれない。嫌な予感がするんだ」
マイセルの通り、ソフィアが夜風に当たっているだけならいいが、それ以外の可能性は、考えるとぞっとした。
アイザックは窓から裏庭のポーチを覗いた。外にも明かりが灯されており、人込みで火照った人々が涼んでいる。
突然、暗がりの茂みから、若い青年と、屋敷の使用人らしき女性が微笑みながら出てきた。
青年は若い貴族で、使用人の方は、奴隷のようだ。
逢引でもしていたのだろう、二人は辺りを見渡すと、バラバラに、人混みの中へまぎれていった。
────まてよ
アイザックは、周囲を慌てて見渡し、ある人物たちを探した。
「──マイセル、警護を呼んできてくれ」
「承知いたしましたが、心当たりは?」
こういう時のマイセルは余計な催促をしないので助かる。
「────裏庭だ」
アイザックは、階下へ向かいながら、窓の外に横たわる、屋敷の広い裏庭をにらみつけた。
マイセル達を待っている時間も耐えられなくて、アイザックは一人、傍目から見れば走っているとは言い難い姿で、駆け出した。