第四章 人の海 ─3─
「ソフィアを連れて行くなど、これはまたどういった意味があるのですか?」
マイセルが、やや疑いの色を含んだ声で言った。
翌日のことである、屋敷内での報告や事務的な連絡を済ませている最中のことだ。
「彼女と同郷の奴隷を連れた客人が西からくるのだそうだ。連れて行けば、話が弾むと思ったんだよ」
これはマイセルの追及を逃れるための、半分方便だった。
「……なら結構です。ただ、何分彼女は目立ちます。それを貴方様が連れて歩くと、他の貴族の方々の間でどう映るか、考慮なさっていないとは思われますが?」
「分かっている。とはいえ、今回はフラン殿の私的なパーティーなんだ。マイセルが心配しているような人物はそう来ないさ」
マイセルは、大きなため息をつく。
「ヴィルフリート様がいらっしゃるだけで、十分過ぎるほどですよ」
「ヴィルフリート様も?」
問いかけてきたのは隣で聞いていたパルムだ。
「フラン殿によればな」
「それはなかなかお堅い晩餐会になりそうですねぇ。ずっと背を伸ばしていないと」
パルムは、皮肉か冗談のつもりか、微笑みを浮かべていった。
「今から先が思いやられますな……」
「なに、兄上は手厳しいが、当てつけで危害を加えたりすることはないさ」
「まずはソフィアにその場相応の衣服をあてがわねばなりませんよ。今から仕立てるのなら急がねばいけませんから」
「ソフィアの服のことは……なんとか頼む」
「もちろん、何とかしてみますとも、これも私の仕事の内ですからね」
そのあと、しばらく他の雑用について打ち合わせた後、マイセルが部屋を出ていき、扉が閉まった。
「もしかして、ソフィアが昨晩アイザック様の書斎に行ったのは、晩餐会の件でしたか?」
しばらくして口を開いたのは、まだ部屋に残っていたパルムだった。
「え? お前は知ってたのか?」
「たまたま、俺が書斎を出たときにソフィアと出くわしたんです。随分と真剣そうな上々だったし、ましてや、アイザック様の方からわざわざソフィアを連れていくことはしないと思ったので」
「そうだ、もしかしたら同郷の者に会えるかもしれないと彼女から頼まれたんだ。それと、このことは」
「マイセル様には秘密、ですよね?」
パルムは白い歯を見せて笑った。
「まったくその通りだ。まあ、なんとかなるだろう」
「ハハハ、アイザック様も、少しは方便を覚えたんですね」
幼少時から傍らで育ってきた青年は、親しみを込めた口調で語った。
「一から十まで全部話していたら日が暮れてしまうだけだからな」
マイセルは頼りになるし、信頼もおいているが、いったん小言が始まってしまえば収まるまでが長いのだ。
耳にタコができるほど聞いて育った二人は、それを十分に理解していた。
二人だけになったことで、パルムは少しくつろいだ姿勢になおる。
「アイザック様は、ソフィアのことを気にかけているんですね」
「ん? 俺は、別に彼女を贔屓はしているつもりではないが……」
「そういう意味じゃないんです。アイザック様が屋敷のみんな、一人一人に親身になっていますよ」
一つだけ歳が上の青年は、穏やかな口調で語りかけた。
「それでも、それ以上に、ソフィアのこと──大切にしてあげてくださいね」
「それは、どういういう……」
「たとえ彼女と身分差があって周囲からなんと言われようとも、俺は応援していますからね! 」
ウインクまで投げつけてきたパルム。
そこで、アイザックはパルムの言わんとすることを理解した。
「待てまて、ソフィアを別に異性とか、そういう気持ちで見ているんじゃないんだ」
「あれ、違うのですか?」
パルムからは拍子抜けしたような声が出る。
しかも、微妙にがっかりした表情が出ている。
「てっきり気になっていると思ってましたよ。アイザック様、彼女が来てから何かと世話を焼いているじゃないですか」
「──というより、改めて問われると、異性として彼女を見ているのは、なにか違う、ように感じるだけだが?」
「アイザック様自身が疑問形じゃないですか」
彼女にはアイザックを惹きつける力のようなものは感じるが、それは、異性に抱く感情とは異なるもののように思えた。
「第一、ソフィアは、なんというか、他の者たちより具合が悪そうな時が多いだろう? だから心配になるのは当然なだけなんだ。……主人として、あまり一人に肩入れするのもどうかと思うし」
屋敷をまとめる主人として、皆に公平に接するようには心がけている。
「アイザック様、そこなんですけど」
「何か、おかしなこと言ったか?」
「どうして誰か一人を大切にしてはいけないのですか? いいんですよ、アイザック様が誰かを優先したって、たとえそれが異性へ向ける感情でなくても」
「優先って……」
「ソフィアを、助けたいなら、心配なら、もっともっと助けていいんですよ。もしかしたら、彼女が頼れるのは貴方だけかもしれない。誰かを優先することは、そんなに悪いことではないはずです」
目の前の、赤毛の青年は続ける。
「俺は、貴方が俺の首輪を外して、腕輪をくれたとき、改めて、自分の意志で、貴方についていくと決めたのです。貴方の、気持ちが、俺の心の奥を動かしたから」
パルムは右手を胸のあたりに添える。
「これは俺の経験則でしかないのですけど、アイザック様が誰かを助けたいと感じるなら、信じるとおりに接してあげればいいのだと、思います。気持ちは、相手にきっと伝わりますから」
誰かに手を伸ばすとき──自分を動かすこの気持ちは何なのだろうか?
慈愛だろうか? 憐憫だろうか? 義務感だろうか?
もしかしたら、全てかもしれない。
アイザックは、実の所よく分からない。
自分でもよく分かっていない原理が、相手に何らかの形で伝わるのは、なぜだろうか。
「そうか、伝わっているなら、喜ぶべきなんだろうな」
「そうですよ、だから、一屋敷の主人としてふるまおうと、ガチガチするだけでなくて、少しは、アイザック様個人として、好きに行動してください。誰も咎めやしませんよ」
「そんなに俺は一所懸命にぎこちなくふるまっているように見えるか……?」
「いいえ、ちっとも、ただ、何となく俺がそう感じただけです」
「やれやれ、お前には何でもお見通しだな」
傍らの友人は、返事は特にせず、再び大きな笑顔を浮かべた。
「さて、後はソフィアの服がうまく見繕えるといいんだが」
「その件ですが、俺に任せてください、さっき忘れていたけど、ひとつ当てがあるんです」
パルムは、胸を拳で軽くたたいた。
「えええっ! アイザック様って奥様がいたの?」
「声が大きい!あんまり大声で話題にする内容じゃないんだぞ」
屋敷中に響き渡ろうかと言うほどのシャーリーの大声を、パルムは諫めた。
「ははは……すでに聞こえてるけどな」
アイザックが部屋に入ろうとドアを開けた瞬間に、シャーリー大声が響いたので、アイザックに筒抜けである。
「ほらみろ……」
「す、すみません……」
シャーリーは深刻に謝った。
「いいんだ。隠している訳ではなかったし。情けない話だが、あれは私が悪かったんだ。亭主としては失格だったんだから」
パルムがどこからかソフィアの衣服を調達したので、試しに着せるから見てほしいと言われ、やってきたのだ。
「ソフィアは?」
「アイザック様、私とソフィアはこちらですよ」
と、部屋の隅に設けられたついたての向こう側から、にょき、と手が伸びてこちらへ振っている。
「もう少しかかるのでお待ちくださいね」
と、パルムの妻であるフランカの顔だけが間仕切りから現れる。
「そうか、焦らなくていいぞ」
アイザックは、部屋に備え付けの椅子に、腰かけた。
「奥様の件は、アイザック様だけの責任ではありません。俺たちも奥様の気分を害してしまったんです」
パルムがすまなそうに言う。
「それは、どういう事?」
シャーリーは好奇心を隠しきれずにパルムに聞いた。
アイザックとしては、特に語らない理由もなかったので、説明してやった。
「私がこの屋敷に落ち着いたころ──ちょうど二十の時だ──いい加減妻を取れと家が縁談を持ち掛けてきたんだ」
オズワルド家の男が家庭も持たず、帝都の片隅の屋敷で一人で住んでいるなど、という本家の心配もあったのだろう。
「妻は、他の由緒ある貴族の娘でね、まだ手を失って不自由していた私にもいろいろ世話を焼いてくれたんだ──ただ──」
──ただ、アイザックが、屋敷の奴隷に親しくしているのが、彼女には耐えられなかった。
彼らに、財産を削ってまで、必要以上の物資を与えるのが認められなかった。
普通の貴族としての暮らしを望んでいた彼女は、「普通の在り方」に疑問を持つアイザックとは、相いれなかった。
──貴方は、結局、何が大切なのかしら? 貴族としての体裁? 奴隷たち?家庭?私? それとも、貴方自身が満足に浸りたいだけ?──
彼女はそう言い放って去っていった。
「──最後には、彼女は西の商人と駆け落ちして去ってしまったよ。私は、彼女が寂しがっていたことに、最後まで気がつかなかったけどね」
話をまとめると、さすがのシャーリーも静かになっていた。
「まあ屋敷に長くいれば遅かれ早かれ知れた話だ。よくある男女の、よくある話だよ」
アイザックは暗くなりすぎないように、軽く話を終えようとした。
「ソフィアの着替えが終わりましたよ」
ついたての方から、メリッサとフランカが出てきていた。
ソフィアも、顔だけがついたてから出ている。
「ほら、ソフィア、見せてあげなさいな」
『────』
「……メリッサ……これは……」
アイザックは、一瞬呼吸を忘れてしまった。
「うん、似合ってるな」
「すごい……! ソフィア、すごく……きれいだよ!!」
脇ではパルムやシャーリーもうんうんと頷いている。
ついたてから現れたソフィアは、肩で切り取られた白いワンピースの上に、腰には帯が巻かれており、さらに、深い藍色のショールを羽織っている。
全体として装飾は控えめでシンプルだが、それ逆に彼女の風貌を引き立てていた。
「ええ、元奥様に、アイザック様が贈られた衣服ですよ。屋敷を離れる際、持ちきれないものを何枚か置いて行かれたのですが、せっかくアイザック様がお選びになったものでしたからね、捨てるに忍びなくて取っておいたのですよ」
メリッサが、当時を思い出したように語る。
「ちょうど、ソフィアは背丈が奥様と似ていましたからね、あとは少し調節するだけでよかったのです」
「俺も、昔、その場に居合わせていたので、思い出したんですよ」
「ああ、パルムの言っていた当ては、これだったんだな……」
『──アイザック様の元奥様の服を借りてよかったのでしょうか?』
ソフィアは、アイザックの反応を不安に受け取ったのか、部屋の傍らに置いてあった筆記版を拾い上げて聞いてきた。
「当然だろう。似合ってるから言葉が出なかっただけだよ」
『ありがとうございます。アイザック様のセンスが素晴らしいのだと思います』
「これはアイザック様が自ら選んだ服ってことは、ある意味、間接的にソフィアに見繕ったことになりますね」
パルムがうんうん、と頷く。
『……?』
「あははは……」
パルムの言わんとすることが理解できないのか、ソフィアが首を傾げたので、アイザックは苦笑するしかなかった。
「こーら、茶々を入れるのはやめなさい。アイザック様が返事に困るでしょう?」
フランカがパルムに注意を飛ばす。
「私は元奥様を見たことないけど、確かに、ソフィアのこと知っていて選んだみたいですね、アイザック様!」
パルムの含みに気がつかないままに、シャーリーは感想を述べた。
『汚したり傷めたりしないよう気をつけます』
ソフィアは、極めてシンプルなコメントを付けた。
「いいんだ、ソフィア。どうせ誰も着る人がいないわけだし。君が着てくれたら、嬉しい」
──しまった、これでは服の押し付けみたいな言い方だ──もう少し他の表現があったのでは、とアイザックは心の内で思った。
「もちろん、君が気に入ったら、だけどの話だが」
『では、大切に着させていただきます』
ソフィアは、アイザックの気持ちを知ってか、知らずか、小さく礼をした。
二人を見守るパルムは、にっこりと微笑んだ。
「何かあったの?」
フランカは夫の微笑みに目ざとく気がついた。
「ん? なんでもないさ。それより、ソフィアの衣服の仕上げ、期待してるからな」
パルムは、妻の肩を抱き寄せて言った。
「元奥様の服を引っ張り出すなんて貴方が言ったときは、正直荒れると思ったけど、案外うまくことが進みそうでよかったわ」
「なんでだ?似合ってるからいいじゃないか?」
「はぁ……男の人って、どうしてこう、細かい心情には疎いのかしら」
フランカは、頼もしいが時折繊細さに欠ける夫に、愚痴をこぼした。