第三話 青州へ(後)
さて、後漢末、いちばんバカを見ているのは庶民である。災害や反乱などの大事件を除けば、中央が政争にかまけて目もくれないのが地方の情勢で、土地の為政者が善良なら大過なく繁栄できるが、そうでない場合は悲惨であった。
「非常につらい」
蕭建が言った。馬車の席で天蓋を見上げて、ゴロゴロとした車輪の動きに合わせて幼い身体を上下左右に揺らされている。
「お気持ちは分かりますが、坊ちゃん。舌をかむんで、馬車の上では黙ってたほうがお利巧さんですよ」
と家内奴隷(使用人)の坤志が言った。今日は馬車の御者をしているが、ふだんは牧畜と手工業に従事しているおじさんであり、元・流民であった。数年前に蕭豊に拾われ、荘園内の労働者として養われている。
奴隷とはいっても、ほかの家人と扱いは変わらない。出身氏族や戸籍のある都市の加護がないぶん、人権らしい人権がなく、荘園主の意向次第の存在だが、時代といえば、そういう時代であった。
「ああ、そうかい! お坊ちゃん! お利巧さん、ね!」
子ども扱いされて――実際、いろんな意味で子どもであったが――蕭建はやさぐれた目を御者席へ向け、日常のストレスを吐き捨てた。父母譲りの秀麗な顔立ちを歪めて喚き散らすさまは、なんらかの悪夢の具現ではあった。
「おまえはいいよな、責任とかないし! オレも奴隷になろうかな! そうしたら親父もやさしくしてくれるかなーッ!」
「坊ちゃん、お言葉は大事にしませんと。天帝さまがお怒りになられますよ!」
と、坤志は慌てて諭した。半分は大人としての子どもへの説教、半分は世界の神秘へのおそれからであった。んが、英才教育という名の圧迫型バイオレンスの心の傷が癒えない蕭建は、鼻で笑って、人差し指を天蓋に向けて、言い返した。
「それを決めるのはおまえじゃない。天帝さまだ!」
言われ、
「ううむ、そう言われりゃ、もっともだ――」
と坤志は納得しちゃいけないところで納得してしまった。
「蕭家の方々! そろそろ山越えですぞ!」
前方の隊商を率いる張世平という、幽州の商家の若旦那が言った。
なんで隊商のひとと一緒にいるか、といえば、途中で山賊が出る、という噂があるからである。江南へ馬を売りに出ていた張世平と、北上を必要とする蕭家の人間の利害が一致し、一時的なパーティを組んだのだ。
クエスト内容は『山賊に気をつけつつ山越えを行え!』である。もちろん、人的・物質的な被害がともにないのが、ミッションコンプリートの達成条件である。
「とてもつらい」
蕭建が遠い目をした。鄭玄の門を叩くための贈答品と、いくらかの護衛の家人をつけられ、蕭建は青州に向けて、半ばかっ飛ばされていたのだ。可愛い子にはクエストをさせろ的なマッスル発想であった。
別に蕭家だけがマッスルな発想をしているわけではない。ある程度の人間の繊細さはリスクの軽減度合いと不可分であり、あらゆる危険水域の高い時代においてはド根性論ですべてが回る傾向にあった。学問でもそうだし、安全保障面でもそうだ。
労働力が機械化された時代なら、根性論はかえって非効率な面が多々あるが、そうでない時代のほうが、人類の歴史としては長かった。
そう考えれば、蕭豊の厳しさもまた、親心であったろう。親の心、子知らずである。子の心、親知らずでもあるが。
「弓はあるんだよね?」
蕭建がげんなりと問うた。随員の騎兵隊長が応じる。
「いえ、こういう場は、駆け抜けたほうが楽です」
いまだ徐州内であるが、場所は東海国ではなく、隣の琅邪国の北部である。泰山山系の東部にあたる。日常的に人々の往来がなされているルートであるが、それだけに山賊の狙うところであった。
蕭建が問う。
「退治しないの、山賊?」
「郡や県の命令であれば、我ら蕭家の人間もそうするのでしょうが、現在、我々はそのような命令を受けておりません」
言われて、蕭建は馬車に立って、手すりから後方を覗いた。確かに、随員は騎馬か馬車ばかりである。武装は短弓と盾と、なけなしの戟や剣だ。それだってみんな鉄製なのだから、後漢代では高品質の装備ではあるのだ。
蕭建が不満の色を見せた。むっと頬を膨らませたのだ。逃げてばかりいるから山賊の被害が減らないんだ、と言いたげなふうであった。坤志も同意見な気配である。
騎兵隊長が苦笑し、今度は応じず、前を向いた。偉くなってから考えろ。騎兵隊長の態度はそういうふうにも見えた。
「なんだい……みんなして」
蕭建はすねた。手の届く範囲があまりに少ない。
その時、不意に前方から騒乱の声が届いた。
「何事だァ~ッ!」
騎兵隊長が吼えた。前方から騎馬が走ってきて、報告する。
「賊です。しかし、すでに旅人に襲いかかっているようす――」
「好機だな」
騎兵隊長がさっと言い、全体に叫ぶ。
「脇を駆け抜けるぞ! 鄭老師への贈答品と、相生さまのみを守れ!」
蕭建が、なにか言う間もなかった。前方の張世平の隊商が、すでに駆け出している。引きずられるようにして、馬車の速度が増したのだ。遅れれば、死か、恥辱である。死命を制するのはある種の機会主義の成果いかんともいえた。
しかし、蕭建がコケかけ、それでも、ある種の意地を抱いたのは、一種の天命であったろう。ひとのゆくえを決めるのは誰かではない。天帝さまなのだ。そんな感じのことを言ったのは、つい先ほどの蕭建であった。
「キャー!」
悲鳴は女性や子どもの声であった。蕭建一行の随員に女っ気はなかった。そんなら、誰の悲鳴かはおのずから知れた。
この時、蕭建が馬車の速度に押されてコケていたら、ありはしなかった情景がある。悲鳴は手すりの向こうから響く、生々しくはあっても、色とかたちのない音響でしかなかったろう。しかし、踏ん張って立っていた蕭建にとって、その悲鳴は振り向くきっかけであった。
賊に囲まれた、泣き顔の女の子がいた。
見えたのは、それだけだ。しかし、日常的なストレスに頭がプッツンしかけていた蕭建にとって、キレるのにそれ以上の理由はいらなかった。
機会を与えるのは誰か。天ではないのか。天の配剤によって、ずらずらと目の前に並んだ機会のなかから、選びたいものを選ぶのが、ひとの世なのではないのか。
のるかそるか。キレるかキレないか。みんな選んでいる。晩酌のおかず、好きな本。選ぶ、という行為に、本質的な違いはなかった。
「だァァ~~~ッ!」
蕭建の身体が宙を舞った。叫びは騒乱のなかで半ばかき消えた。気づいたのは坤志と馬車左側を守っていた騎兵たちだけであった。それにしたってあんまりな現実だから、対応するのは遅れた。
「坊ちゃ~~~んッッッ!?」
クソみたいな現実とはよく聴く言葉だ。確かに。現実なんてたいていクソだ。なぜクソかといえば、どこかしこに力が満ち満ち、自分の前途をふさぐからだ。
「おおっ、獲物が自分から転がってきやがったぜ!」
「捕まえろ! 身代金が出るかも知れねえ!」
誰でもそうだ。差し迫った力に苦しんでいる。生命の危機の有無だけで、人間の本質がねじ曲がったりはしない。どこも同じだ。大差などない。
いい加減にしろ。蕭建が思ったのは、そんなことでしかなかった。
「うるせーッ!」
叫びながら、蕭建は、掴みかかってくる山賊の手をいなした。そして、ふわりと懐に入り、おのずから飛び込んでくる山賊の腹に、肘鉄をあてた。衝撃。なにが起こったか、蕭建も含めて、誰も分からなかったろう。蕭建に手を出してきた山賊が一人、泡を噴いて、がくりと膝をついてから、やっと事態が動くのだ。
「野郎!」
「武術だ! 武術を使うぞ!」
「囲んでたためェッ!」
その時、不意に蕭建は気づいた。あれ、オレ強くない? と。そして、またまた気づいた。朝稽古の意味。親心の所在。簡単な話だった。賊と戦うのが生業の一つである蕭豊が教えられることは、戦場で生き残る力くらいだったろう。
「ああ、もう! クソ親父がァ~ッ!」
蕭建はいろんな感情のなかで、半泣きになった。吐いた言葉はもはや呑めない。ましてや、馬車から飛んだのは自分だ。後で蕭豊が知ったら怒るだろうか。そして、もし自分が死んだら?
母の陳芬や弟や妹は哀しみ、祖母は自分が死んでもなお、メシはまだかと言っているだろうか――すべての思考に意味がなかった。
遠くで、山賊に囲まれた女の子が自分を見ている。おそれ、おののき、名前も知らない男の子が殺されることに恐怖しているに違いない。大粒の涙。なんてこったい。お互いさまだ。とりあえず、親指を立てておこう。蕭建はサムズアップし、こう叫んだ。
「任せろぉ!」
周囲の山賊らが高笑いした。
「な~にが任せろだ、おまえはこれから叩き潰されるんだ!」
蕭建は言った。
「それを決めるのはおまえらじゃねえ。天帝さまだ!」
ひとが決められるのは、ご飯のおかずをどれから取るかとか、昼寝するかしないかの判断くらい。生死は始めから意中にない。死ぬときゃ死ぬ。そんなら、それを決めるのは人間じゃねえ。どうして山賊ごときがオレの生き死にを決められるっていうんだい!
蕭建は気を抱くようにして構えた。武術の構えである。そしてふわりと軸を取って、大音声するのだ。
「かかってこォ~いッ!」
臨戦態勢の山賊らが突っ込んで――はこなかった。その前に、距離のあった護衛の騎兵部隊が反転してきたからだ。先頭で斬り込んできた、騎兵隊長が叫んだ。
「殺!」
山賊が何人か、吹っ飛んだ。騎馬の圧に負けたのである。ここにも力。まったくままならないよなぁ、お互いさま~、と蕭建は山賊らを急に哀れと思い、不思議な苦笑を浮かべた。大変だよなぁ、という共感である。戦場の同気というものだろう。いまこの瞬間だけは、境界線がなかった。
「坊ちゃん!」
気づけば、襟首を掴まれて、引き上げられていた。坤志の怒り顔。蕭建は不思議がったが、馬車の荷台に降ろされた時、ふと思い立って礼を言った。
「謝謝(ありがとう)!」
とたん、坤志は顔をくしゃっとさせて、蕭建の頬をさっとつまんだ。軽い罰なのだろうか、ちょっとひねられる。蕭建が顔をしかめつつ、それでも、自分が思いのほか愛されていることを自覚した。
蕭建がある方向を指さすと、坤志はそちらを一目見て、合点承知、とばかりに、馬車を大きく回らせるようにして、走らせた。
寄せた先には、先の女の子と、その供回りだろう女性が数人いた。
坤志が、
「こちらへ!」
と叫ぶ。
次いで、蕭建が馬車から女の子に向かって、手を差し出した。ほこりまみれの手だ。女の子はさっと顔を赤くし、きゅっと泣きそうな表情で蕭建の手を取った。ほこりが嫌だったかな? とニブチンなことを蕭建は思いつつ、女の子と手と手を持って、自身の荷台まで引き上げた。
「よいしょお!」
その時、山賊を一撃で追い崩した騎兵隊長が、態勢を整え始めた山賊たちに向かって、こう叫んでいた。
「我々は、ここを通りたいだけである! 相手をするとあらば致し方がないが、そなたらも命は大事だろう! 賢明な対処がどうあるか、山賊であっても身命のあり方は心得ていると信じたい、どうだろうか!」
「荷をよこせば、考えてやる。女も!」
「でき~ぬッ!」
そんなやり取りがあって、山賊と騎兵隊の双方に緊張がはしった。女の子が震える。蕭建がその背中を撫でて、妹をあやすように、だいじょうぶ、と耳元で言い続けると、女の子の震えは止まった。代わりに額を蕭建の胸に押し当て、体温を上げている。なにがとはいわないが、蕭建のふるまいは凶悪であった。
その時、山賊たちが退き始めた。追撃を警戒しているのか、いくらかの集団は残っていたが、騎兵隊長が動かないのを見ると、一斉に退いた。
蕭建がホッとして胸元のほうを見ると、女の子と目が合った。よく見ると美しい少女であったが、茶髪が左右に跳ねており、目がトロンとしている。トロンとしているのは別の意味もあったろうが、蕭建は以下略である。
女の子の瞳の奥に知性の輝きがあるから、案外と根っこの芯はあるほうなのかも知れなかった。身なりからして、良家の子女だろう。
「このたびは――」
と、お礼を言いかけた女の子を手で制し、蕭建は相手を安心させるために、ニッコリと笑った。お礼は後で、的な意味合いの行動で、蕭建はすぐに馬車に立って、こっちにくる騎兵隊長になんらかの対応をせねばならなかった。んが、女の子は顔を真っ赤に以下略であった。
「詫びれば許してくれる?」
いけしゃあしゃあと蕭建が言い、この幼い若君の意図を察した、騎兵隊長が言った。
「酒でいいですよ」
それで蕭豊への報告に手心は加えてやる、という言い方であった。もちろん、この先も自分を大事にしてくれるのならだが、そういう意味合いもあった。ふてぶてしいが、それくらいでなければ後漢の世は生き抜けないのだろう。
「名前は?」
蕭建は問うた。応諾うんぬん以前に、一定の能力を示した相手への礼儀でもあった。騎兵隊長が馬上で礼を示し、応じた。
「昌豨。子覇!」
「チャン・ズー・パー!」
蕭建はうたうように言い、ちょっと昌豨を招き寄せて、
「ここだけの話なのだが……勝手なことして、ごめんなさい」
と、昌豨には謝っておいた。良心の呵責はあるからである。昌豨は耳元で聴き、やおら大笑いした。そして胸の甲を叩き、ふてぶてしく頷き、応じた。
「お父上が二発殴るようなら、お止めしましょう――」
「ほんと頼むよ、マジでな!」
言われれば、余計に恐くなる蕭建であった。
さて、そのあとで助けた女性陣がお礼を言い、自分たちの身元を述べた。すると、蕭建も含めた、蕭家の人間全員の目が点になった。
「わたしの名前は鄭雪詩。青州北海国の鄭康成の末娘です。これらのものは、わたしの侍女です――」
『えーッ!?』
ってなものであった。
なんでも、すぐ西南にある城郭都市の知人を訪ねるため、難を避けて引きこもっている父に代わり、鄭雪詩が使いに出されたのだという。もちろん護衛もいたが、山賊を見ると大半が逃げて、残った勇者は殺されてしまったらしい。鄭雪詩たちからは、ほんとうに感謝している、との言質が涙ながらに出た。
すると、急に、
「お手柄でございますなぁ、坊ちゃん――」
と、坤志がすり寄り、昌豨とその部下も続いた。
「かの鄭老師の娘御をお救いするとは……当代まれなる勇気のある若さまでござるな!」
「いよっ、若さま!」
「古今無双!」
「おまえら覚えとけよな! ほんとあとで覚えとけよ!?」
と、蕭建は周囲の変わり身の早さに愕然として、喚いた。
みんなで喚いたり無事を喜んだりしながら先へ進むと、張世平の隊商が待っていた。どうも後続がないのに気づき、しばらく様子見のために待機していたようだ。先の鄭雪詩の護衛の話を聴くに、逃げるやつは逃げるのだから、張世平の対応は良心のあるほうだ。
蕭建も責めることはせず、かえってこっちの無思慮を詫びると、張世平はいたく感心したようだ。
「これでも見る目はあるほうでしてな――」
と、蕭家には特別に馬をおろす時に優遇措置をとるという。代わりに、この張世平をよろしく、というところだ。蕭建は丁寧に礼を述べた。
さてさて山越えも終わり、ちょっと歩くと青州だ。張世平の隊商と別れて、北海国を目指す頃になると、蕭家一行の目的も、鄭雪詩側に知れる。
「えっ、わたしのうちにかいっ!? じゃない――うちにですか??」
鄭雪詩は口元で手を打ち合わせて、トロンとした目に歓喜の色合いをにじませた。聴けば蕭建とおないどしという。話してみると猫をかぶって、しおらしくしている面が多少は見受けられたが、根は素直なほうらしい。
「そうなんだよ。でも、鄭老師は最近じゃ、門を閉ざして誰にも会ってくれないっていうから、うちの親父も無茶言うよね。ハハハ!」
「そんなことはないよ! あ、いえ――ないです。オホホ」
この時、鄭雪詩の茶色い瞳に黒いものがよぎったが、蕭建は気づかない。鄭雪詩は意を決したように、馬車の荷台上、えいっ、と蕭建の二の腕に抱きつき、驚く蕭建に対し、熱のこもった声色でこうと言うのだ。
「だいじょうぶ……わたしがきっと、父を説得してみせよう! いや――みせますよっ」
馬車の近くを流民か農民か、区別のつかない集団が通った。何事か、呪文のようなものを唱え、シャンシャンと錫杖のようなものを鳴らしている。太鼓も叩き、なにかの祭りのようでもあった。
「祭りかな?」
「いや、あれは最近流行りの宗教さ……うおっほん。宗教です」
そろそろ鄭雪詩の地が隠し切れなくなってきたところで、蕭建が問うた。
「宗教?」
「うん。確か……太平道、と」
「タイ・ピン・ダオ――」
蕭建にものを教えられたのがよっぽど嬉しいのか、ドヤ顔で笑みを浮かべる鄭雪詩の向こうには、あまたの人間が群れをなして、荒れた土地を行くのが遠望できた。
天下は黙然としている。しかし、そこに服従の意味はないのだ。蕭建の耳には、シャンシャンという錫杖の音だけが、いやに鳴り響いて残った。
なお、蕭建の武勇伝という名のおイタが蕭豊の耳に届き、鄭玄の門下生となった後の蕭建が、挨拶に訪れた蕭豊から想いのこもった鉄拳制裁(無茶すんなパンチ)を受けるのは、また別の話である。