5話 新たな条令
「これで、よし!」
自室にて、雪斎は、和紙に策を一通り書き終わった為、ゆっくりとその場で背伸びをする。
この一週間程、雪斎は部屋にこもりっきりであった。
その理由は、自分の思い人であり、守るべき殿のための、遠江攻めへの策を考えていたからだ。
「雪斎!!」
やっと策を書き終えて、スッキリとした解放感を味わっていた雪斎の耳へ、突然苛立った声が響く。
その声の主に、すぐに当たりをつけた雪斎は、別段動じることなく、縁側へと向かって、声の主の名をつげる。
「なんです? 声が大きいですよ泰能」
「なんです? じゃないわよ! あのバカ殿。どうにかしなさい!」
バカ殿……。
泰能の言葉の主を、少し考えてから、雪斎は閃いた顔をすると、両の手を強く一度叩く。
「あぁ! 広大のことですか?」
「あいつ以外に、誰がいるのよ!」
なぜ、泰能がそれほどまでに怒っているのかわからない雪斎だったが、その手に持っている饅頭を見つけると、無意識に唾液をすすりだす。
飢えた獣のような音と同時に、既に自分が視界に入ってないことに気づいたのか、額に青筋を増やした泰能だったが、大きなため息を一度つくと、饅頭の入っている籠を、雪斎へと渡す。
「さすが泰能ですね! 饅頭が欲しかったときに、持ってきてくださるなんて!!」
ウキウキと子供のようにはしゃぎながら、縁側へと跳びだし、籠を受けとった雪斎は、モグモグと饅頭を食べ始めてしまう。
その姿に、再度大きなため息をついた泰能は、静かに腰を下ろす。
「一週間もあんたの顔を見なかったら、部屋にこもってるか、死んでるかのどっちかだからね。どうせ、饅頭を欲しがってると思って買ってきてあげたのよ」
「うくっ!? のっ、喉に!!」
「急いで食べるからよ」
近くに置いていた水を取りに行った雪斎は、それを一息に飲み干すと、深呼吸して、泰能に優しい笑みを浮かべる。
「で。饅頭を持ってきただけではないでしょ? 何を説得して欲しいのですか?」
「……本当。頭の回転が早いわね」
「お褒めの言葉、ありがとうございます。それで、彼は、何をしたのですか?」
「ふざけた事始めたのよ」
「ふざけたこと?」
泰能が、イラつくように人差し指を床へと断続的に突っつきつつ言う為、よほどの事なのだろうと察した雪斎だがーー。
残念なことに。心当たりがないため、首を傾げてしまう。
その様子を横目で見ていた泰能は、唇を尖らせつつ説明を始める。
「あんたが知らないのも、当然よ。今現在、訳のわからないことをしてんだから」
「今? いったい、何をしているのですか?」
「農民や商人を、1ヶ所に集めてんのよ! しかも、新たな御触れをだすとか言ってんのよ!!」
「そうですか。あの人らしいですね」
「感心してる場合じゃないわよ! 私達に相談しないで、勝手にやろうとしてんのよ!!」
「ふふっ。あの人の考えた御触れですか……。どんなモノなのか、楽しみですね」
泰能は、真剣に怒って言っているのだが、雪斎は、なぜか微笑むと、楽しそうにしだす。
てっきり、雪斎も自分と同じく憤慨するのだろうと考えていたらしい泰能は、雪斎の予想外の対応に、イライラが絶頂になり、意図せず、爆弾発言をしてしまう。
「もしかしたら、若い女を全員妻にするとかーー。そんな、くだらない御触れだったりして」
もしも。広大に合う前の雪斎なら、今の発言に対して、笑いと共に、受け流していたであろう。
しかし。今の雪斎は、恋する乙女。
そんな余裕などある訳がない。
返答が返ってこないことを不思議に思ったのか、泰能が振り返って雪斎を見るとーー。
「どっ。どうしたのよ雪斎?」
そんなドモルような言葉しか出ないほど、雪斎の様子がおかしかったのだ。
それもそのはず。微動だにせず、笑顔で固まっているのだ。
「……んなこと」
「えっ?」
「そんなことしたら、島流しじゃすまないですね」
先程までの優しい笑顔が、恐ろしい笑顔へと変わっていく。
この恐ろしい笑みの状態の雪斎は、今まで三回ほどしか今川家では見せていない。
記念すべき一回目は、雪斎の教え子であるくせに、三河で突然独立した松平元康に怒った時……。
そして二回目は、先代今川義元の妹君である氏真が、バカな家臣にそそのかされて、遠江で謀叛した時である。
そして、三回目。
自分の慕っている人物が、欲に走り、馬鹿げた御触れを出すかもしれない……。
雪斎の中でも、その可能性は、1%ほどにしか満たないモノであるが、予想ができる範囲内にある。
つまり、大問題である。
自身の発言が、地雷を踏んでしまったことに気がついたのか、慌てた様子で宥めようとする泰能。
「よっ。予想の話よ! だから、落ち着きなさい!!」
「ふふっ。そうですね。泰能は、予想で判断する愚か者ですものね。あまり、私の導火線に火をつけないでくれますか?」
「わっ。悪かったわよ……。私が愚か者でいいわ。でも、島流しより恐ろしい罰なんてあるの?」
あまり愚か者であることを認めたくなかったのか、苦々しい顔で肯定した泰能が、おそるおそる罰についてきく。
その事に対して、雪斎は、実ににこやかに答えた。
「磔にして、棒手裏剣を一本ずつ刺していくんですよ? 知ってますか、泰能。人間は、そうそう死なないのです」
「……あんた。試したことあるとか、言わないわよね?」
「あれは、まだ私が修行僧の時です。夜這いをしてきた、くそ坊主を」
「やめて! ききたくないわ」
青ざめるつつ、手を前へと突きだす泰能と、恐ろしい罰を行った時のことを思い出したのか、少し落ち着いたらしい雪斎の前に、新たな人物が現れた。
女性でありながら、筋肉が素晴らしい岡部元信だ。
「二人とも、ここにいたのか。殿が呼んでおられるぞ」
「わかってるわよ。行くわよ。雪斎」
「えぇ。今支度します」
雪斎達が呼ばれた場所は、見張りだいの一つであった。
その見張り台の周りには、農民や商人だけでなく、兵士たちも集められている。
その為、かなりの人口密度になっており、ガヤガヤと賑やかな雰囲気をつくり出していた。
「なんで、こんなに人を集めてんのよ!」
「落ち着け泰能。小生は、殿が素晴らしい御触れをだすと思っている。だから、逸る心を抑え、冷静になるのだ」
「あんたの場合は、どんな御触れでも喜ぶでしょうが……」
「うむ。政は、小生の分野ではないからな!」
なぜか、得意気な顔で胸を張って言う元信。
その様子に、呆れ顔になった泰能は、広大がくるまでの間、イライラを表すように、地団駄を踏む。
そうして、しばらく待っていると、やっと見張りだいへと、広大が顔をだす。
「みなさま。お集まりいただき、ありがとうございます」
礼儀正しく頭を下げた広大は、なぜか満面の笑みを浮かべている。
そして、その隣には、大きな巻物を持って立つ親長。
「親長!? あいつ。何してんのよ!」
「おや。殿だけでなく、親長が一緒ですか……。それなら、変な御触れが出る心配は、ありませんね」
泰能は、親長の姿を確認すると驚きの声をあげたが、雪斎は、親長が関わっていると知ると、安堵の息を漏らす。
「親長がいて、なぜ安心なのだ?」
「普段は、オドオドして頼り無さそうに見えますが、あぁ見えて、親長は知恵があります。元信のような槍働きばかりだと、殿に言いくるめられる恐れがありますが、親長なら、きちんと咎めることができます」
さらりと元信をバカにする発言をした雪斎だが、そのことに気づいていないのか、気づきつつ流したのか……。元信は、納得したように一度頷くと、広大の方へと視線をむける。
「あんた……。それでいいの?」
「むっ? 泰能は、雪斎の説明が理解できなかったのか?」
「……もういいわ」
泰能の発言は、バカにされたことを言っていたのだが、元信は、雪斎の説明がわからなかったのかと、勘違いして問い返す。
それに呆れたのか、額へと片手を当てた泰能は、息をはきだしつつ、話を打ち切ってしまう。
「それでは、これから新たな御触れをだします」
そんな家老達のやり取りを、当然知らない広大は、意気揚々と、御触れを発する。
「その1。座を廃止して、市を開きまーす」
その1だけで、一気に農民達がざわつき始める。
座というのは、この戦国の世ではあたり前にある制度の一つであり、簡単にいうなら、座に加入していないものは、商売ができないという制度だ。
それならば、座に入れば良いのでは?
と思うだろうが、そう簡単には、入ることができない。
金銭が必要なのはもちろん、座の代表に嫌われてしまった場合、入ることさえ許されないのだ。
そのような座を廃止するなど突然言えば、誰だって慌てふためくだろう。
「俺はこの政策を『楽市・楽座』と命名します」
その言葉と同時に、親長が1つ目の巻物を、見張り台からたらす。
そこには、デカデカと書かれた『楽市楽座』文字。
「おっ、お待ちくだされ! そのようなこと、我々は認めませんぞ!!」
やっと状況が飲み込めたのか、おそらく、座の代表の一人だろうと思われる男が、慌てて異議を申し立てる。
すると、広大は手を前につきだし、その男に対して『待て』のジェスチャーする。
まだ。話しは終わっていないと言うかのように……。
「もちろん。これだけでは、座の人達が認めてくださるとは、思っていません。そこで! その2」
広大の言葉に続いて、親長が、二つ目の巻物をたらす。
「関所。撤廃しまーす」
巻物には、関所廃止という文字がデカデカと書かれていた。
その言葉に、商人達から歓声があがるが、今度は、兵士達がざわつき始めてしまう。
「あんのクソバカー!」
そして、その兵士達のざわつきに紛れて、泰能が大声で怒りの声をあげた。
なお。左右の家老二人は、特に反論がないのかーー一人は、何度も頷づいており、もう一人は「その手を打ちますか……」と楽しそうに手を打ち合わしている。
その反応に対して、青筋を立てた泰能は、元信の足に蹴りをいれ、雪斎の頭を叩く。
「関所を失くせば、富士山を見放題になるだけでなく、旅の人達も一息つくために、この国で小休止するでしょう。そうすれば、店は繁盛繁盛!!」
家老三人の戯れなど視界に入っていないのか、いつの間にか取り出していた扇子を開いて、ワハハ! と高笑いする広大。
しかし、関所を失くすということは、忍の出入りが簡単になってしまうという事にもなり得る。
となると、当然多くの忍の狙いは、殿である広大になるのだから、兵士達の苦労が増えるのは、確定してしまう。
そのことがわかっている泰能やその他多くの兵士達が、ぞくぞくと口々に異議を申し立て始める。
「まぁまぁ。待ちなさいな兵士の方々よ。これで終わりではないぞ!はい。その3!」
扇子を閉じた広大が、指示するように親長に扇子を向けると、それを合図に最後の巻物をたらす。
「兵農分離です!」
「おおっ!」
この制度に関しては、集まっている人々の多くから、歓声の声があがった。
それは、主に農民達があげたものであった。
この時代、何より多いのは農民である。その為、この場所で一番の歓声があがったもの、それが理由である。
「名前でわかる人がいるかもしれませんが、一応説明しましょう。聞いた話によると、農民の次男坊以下の方々には、遺産がほとんどないとか……。そんなの不公平ですよね! ですから、次男坊以下の方々は、今川家で足軽として雇うことにしました!!」
「本当か! これで、兄貴にでかい顔されないですむぜ!」
「うぉー。俺にも出世の道が!」
などと、農民の次男坊以下の人々が、喜びの声をあげる。
「長男の方は雇わないので、そこは注意してください。しかし、大変苦しい長男の方がいるのなら、こちらで調査したのち、雇うどうかを決めさせていただきます! それでは、かいさーん!」
こうして、広大の初めての御触れは、多くのざわつきを残して、終わったのであった。
「こんのーーアホがー!!」
ゴスン!
手加減容赦ない必殺の拳が、広大の顔面へとめり込んだ。
「うがーー!! 何しやがる、泰能!!」
場所は変わり、広大の自室。
今川四家老が、一同に集まっていた。
その中でも短期な泰能は、広大の顔を見るや、真っ先に殴りかかってきたのだ。
「ちょっ! 俺、殿様だよ? お前、打ち首もんじゃね!?」
「やかましいわよ! 仕方なく2代目今川義元にしてあげたのに、調子に乗って相談もなく御触れだして!!」
「仕方なく!? 仕方なくで、命狙われてたまるかってんだよ!! 御触れくらいだしてもよくね? こっちとら命狙われたことあんだぞゴラ!!」
額をぶつけ合いながら、鼻息を荒くしつつ、口論を始める二人。
その様子にオロオロしていた親長は、唯一この状況を止められるだろう人物に、助けの視線を向ける。
「泰能。そこまでにしておきなさい。殿も、深いお考えがあって、御触れをだされたのでしょう?」
「当たり前さ! 俺は、完璧主義者だからな!」
雪斎の問いかけに、腰に手をつけ、威張りつつ言う広大。
「やはりな……。小生は、初めから殿の事を信じていました」
「あんたの場合は、よくわからなかっただけでしょ……」
やはり、私の仕える殿だけあるな! と、自信満々に頷いている元信に、呆れた声をだす泰能。
「で、具体的になんのための御触れなんですか?」
「うーん。なんて、言えばいいのかな……」
唸りながら、あぐらをかく広大。
「単純にいうと、兵士の増加。それと、人口の増加?」
「はぁ? なんのために?」
「戦?」
「ど素人集めれば、勝てると思ってんの?」
「勝てないの?」
「あぁ。そう。つまり、あんたは大雑把にしか、考えてなかったて言うことでしょ!」
ゴスン!
青筋を額に浮かべた泰能の本気の蹴りが、またも広大の顔面へとめり込む。
「うご!? おま、いい加減にしてくれね? ほら、鼻から血がーー」
「やかましいわよ! このうつけが!!」
「落ち着きなさい泰能。殿は、説明が苦手なだけです」
すぐさま雪斎がフォローに入ると、広大の鼻を摘み、血が流れてこないように、上をむかせる。
「ふがぁ。ありがどう雪斎」
「いえ。殿を守るのも私の勤めですから」
そう言うと、いつもと変わらぬ優しい笑顔をむける雪斎。
「……どうして、雪斎はこの男に甘いのよ。訳わからないわ。ねぇ親長?」
「いいな~。私も殿と……。いやいや、いけません。私は、側室で我慢です!」
泰能は、同意を得るために親長に問いかけたのだが、親長は顔を赤らめながら、ブツブツ独り言を言っており、まるで声が届いていない。
なんとも、バラバラな家臣団である。
そんな事をしていると、突然庭に、木の葉が舞い上がる。
直虎である。
「殿。兵士として、志願してきた女子がおります」
当然、親長以外は誰かと思うが、説明するよりはやく、広大が前に出てーー。
「わかった。今行く」
そう言って、奥ゆきがある部屋に向かう。
そこには、ボロボロの服を着ている女子がいた。
「お初お目にかかります!尾張の農民、木下藤吉郎といいます!」
広大が、上座にある畳に座ると同時に、方膝をついていう女子。
今川四家老も、広大の少し下座に、左右並んでる座る。
こうなると、藤吉郎から広大を見ると、美少女の花道のようになる。
「うん?尾張の人なの?」
「はい!尾張の者です」
広大は、首を傾げながら、パン!と手を叩いた。
すると、すぐさま直虎が現れる。
木の葉を撒き散らしてであるが……。
「お呼びでしょうか?」
「俺、遠江だけしか言ってないよね?」
「どうやら、噂が広がりすぎたようです」
「あっ、そうなの?なら、いいや。下がってよし!」
そう言うと、頷いて消える直虎。
「尾張からきたのか。長かったでしょう、採用!」
「ありがとうございまする!」
これには、今川四家老も驚きしかない。
もしかしたら、尾張の織田信長からの間者かもしれないのに、こんなに簡単に採用してしまうとは、誰も思わなかったのだ。
「待ちなさい!殿、そんな簡単に決めていいの!?」
「うん。この子は、真面目そうだから」
「だからって!!」
「泰能!殿がお決めになったことです。口を閉じなさい!」
泰能は、正面に座る雪斎の言葉で押し黙る。
家臣のやり取りに、戸惑っていた藤吉郎をみて、雪斎が言う。
「明日から、足軽として働いてもらいます。今日の所は、お引き取りを」
「はい!!」
元気よく出ていく藤吉郎。
この時は、まだ誰も知らない。
この木下藤吉郎。後の豊臣秀吉である。
秀吉が、今川に仕官した。
この時から、歴史は大きく変わるのである。
太原雪斎。
この人は、小さい頃の今川義元の先生であり、良き理解者でもある人です。
お坊さんでありながら、今川の軍師としても働き、外交でも働いた人のようで、今川の仕事をほとんど受け持っていたとかーー。
実は、この人が今川の全盛期を築き上げたんですよね!
しかし、桶狭間の戦いの前に病で死んでしまうんです。
もし、この人が生きていたら、信長の奇襲攻撃は成功しなかったと言う歴史学者が、多いようですよ。
それほど、義元にとっては必要な人だったようです。
あと、あの徳川家康も、この人に教わっていたとかーー。
私の物語の中では、恋する乙女であり、怒らすと恐い人でもありますが、なるべく驚く策を出そうと思っています。