20話 今川市誕生
廊下を歩く音が二つ。
一人は太原雪斎であり、瞳には覚悟が灯っている。
もう一人は朝比奈泰能。緊張した顔つきをしながら、一歩先にいる雪斎をみている。
どうして泰能が緊張しているかというと、今日の朝方、突然近江から帰ってきた雪斎の策をきかされて、不可能に近いのではないかと思っているからである。
さらには、殿である広大にも秘密でこの策を実行するというのだから、恐ろしいことである。
(最悪だわ。成功したら、後からバカ殿に怒られるでしょ……。失敗すればするで、後からバカ殿にバレて怒られる……。どっちに転んでも、怒られることは覚悟しないといけないのね……。)
深いため息をついて、広大に怒られた時の言い訳を考え始める泰能。
あんなバカ殿であるが、本気で怒ると恐ろしいことを泰能ら重臣は知っている。
ゆえに、雪斎も覚悟を決めているのだろう。
「さて。つきましたよ泰能」
「みたいね……。大事なのは、どこで切り出すかかしら?」
「回りくどいことをすると、こちらの冷静さがなくなりますから。ここは、一気にいきましょう!」
そういうと、二人で襖を開く。
部屋の中央に座っていたのは、織田市。
二人の顔を見た瞬間、美しい顔が嫌そうに崩れる。
「気分はどうですか?」
「あなた達の顔を見なかったら、最高だったわ」
そっぽを向きながら答えるお市の前に、雪斎と泰能が座る。
しばらく沈黙が続いていると、お市のほうから話しかけてくる。
「何の用事できたの?」
「大切な話があります」
「へー。なにもできない私に、大切な話があるの?」
「あんただからこそ、できる事があるのよ」
泰能がそう答えると、お市は鼻で笑う。
「私にできることなんてないよ」
「それがあるんですよ。あなたも知っていると思いますが、我々は美濃を取ろうとしています」
「えぇ。知っているわ。何回も敗走しているということもね」
クスクスと笑いながら、バカにする顔をするお市。
その顔が気にくわなかった泰能が、拳を震わせるが、雪斎が小言で止めに入る。
「落ち着きなさい。この程度の挑発は想定内です」
「私は想定外よ。とことんムカつく女ね!」
「気持ちはわかります。しかし、ここは冷静に行かなければなりません」
「わかってるわよ。さっさと、終わらせるわよ」
軽く息をついた雪斎は、ついに本題をきりだす。
「お市殿。あなたには、今日から織田の姓を捨てて貰いたいと思います」
「……本気でいってるのね」
今まで笑って余裕だったお市が、初めて怒りの表情に変わる。
このことを覚悟していた雪斎と泰能は、緊張した顔でお市を見つめる。
「私に織田の姓を捨てるなんてのは、できないわ。そうとうな理由がないかぎりね」
「理由ならあります。殿の信頼できるお人のところに、嫁がせるつもりです」
「私を道具として使うつもり?やはり、あんた達も他の大名家と変わらないわね!!」
「これは、私と雪斎の独断よ。バカ殿は関わってないわ」
そう泰能が説明すると、お市の顔はさらに怒りに染まる。
「うつけねあなた達わ!自分の当主に許可も取らないで、そのようなふざけた事を言うなんて!」
「どう思われてもかまいません。しかし、これしか手はないのです……」
「殺されないだけ、ましと思いなさいよ。まぁ、女としての幸せを奪い取ることは、謝るけどね」
「フフっ。ふざけないでくれる!そんなの認めないわ!帰って!!」
怒鳴り声をあげて、立ち上がるお市。
心の中で舌打ちをした泰能は、自分も立ち上がり、反論しようとするがーー。
「落ち着くでござるよ。外まで聞こえると、いろいろ厄介でござるからな」
そう言うと、同時に襖が開く。
そこに立っていたのは、牢にいたはずの木下秀吉。
その隣には氏真もおり、その手には、秀吉の腰についている縄が握られていた。
突然の訪問者に驚く三人だが、そんなこと関係ないとばかりに、秀吉は雪斎と泰能を見る。
「その話、拙者に任せてくだされ。殿のために、説得してみせるでござるよ」
秀吉の発言に泰能が何かを言おうとしたが、隣にいた雪斎が手をだし、止めてしまう。
「わかりました。ここは、あなたにお任せします」
「かたじけない。氏真殿は、見張りのために居て貰うでござるよ?」
「当たり前よ。そういう約束だもの」
そういうと、秀吉と氏真は互いに笑いだす。
その光景をみて微笑んだ雪斎は、納得していない顔の泰能の背中を押して、外に連れ出す。
秀吉とすれ違う瞬間、雪斎が小声で言う。
「後は、任せましたよ……」
その言葉に無言で頷いた秀吉をみて、雪斎は襖を閉めた。
「さて、まずは自己紹介からでござるな!」
縄に繋がれているにもかかわらず、ニコニコする秀吉に、嫌そうな目をむけるお市。
「あなた……。今の姿で、よく笑えるわね」
「うきゃ?あぁ、この縄でござるか?これは、拙者の犯した罪でござるよ」
自分の腰についてる縄を見ながら、少し悲しそうにする秀吉。
しかし、すぐに元通りに戻るとお市の前に座る。
「拙者は、罪を犯した……。それこそ、打ち首ではすまないくらいの罪でござる」
「……それがなに?私には関係ないわ」
「本当は、気づいているはずでござる」
真剣に話す秀吉を、じっと見守る氏真。
秀吉の言葉に、少し眉を動かすお市。
その表情を見た秀吉は、確信したように、一回頷く。
「拙者とお市殿は、借りがあるでござる。今川義元という男に」
「……だから、それを返せと?」
「考えるでござるよ。あの人に借りがあると、雪斎殿辺りから面倒なことをさらされる可能性があるでござる」
「なるほどね。面倒ごとをやらされる前に、ここから離れた方が良いと?」
無言で頷く秀吉。
そんな秀吉を見てから目をつぶったお市は、何かを考え始める。
「もし、殿方がうつけだったら?」
「その場合は、拙者におまかせを!」
「なるほどね……」
そうお市が呟くのをきくと、秀吉は突然立ち上がりーー。
「さて、そろそろ行くとするでござる」
笑顔でそう言うと、障子を開けて出ていってしまう。
とうぜん、縄持ちの氏真も、引きずられるように退室してしまう。
「ちょっと!まだ終わってないでしょ!」
秀吉の縄を引っ張りながら、氏真が怒鳴り声をあげるが、秀吉はにこやかに笑いながら、どんどん部屋から離れていく。
しばらく歩くと、突然立ち止まる秀吉。
「……ここらへんで、いいでござるな」
「はぁ?あのね。まだ説得してないでしょ?」
「いや、説得は終わったでござるよ」
自信満々に振り返っていう秀吉に、訳がわからない氏真は、首をかしげる。
「お市殿は、負けず嫌いな人物でござる」
「まぁ、雪斎と言い争うぐらいだからね」
「そんな人なら、必ず借りなんて嫌がるはず。ましてや、嫌ってる人からの借りなんて、すぐに返したいはずでござる」
「確かに……。でも、そんなことだけで簡単に婚姻同盟なんて了承するの?」
「そこで、拙者が手を打ったでござる」
立っているのが疲れたのか、縁側に座る秀吉。
不思議そうな顔の氏真に、1度視線を送ってから、種明かしを始める。
「実は、拙者に助けられる道などないでござるよ」
「はぁ!?嘘ついたの!?」
「賭けでござるよ。殿が拙者の知っているままなら、賭けは勝ちでござるよ」
「なるほどね。それなら、賭けは勝ちよ。兄上は、あの時から変わらないわ……。あんただって、知ってるくせに」
そう言って氏真が笑いかけると、秀吉も、可愛らしく足をばたつかせ、大声で笑い始める。
しばらくして二人とも落ち着くと、秀吉が立ち上がって、伸びをする。
「さて、ここからが本番でござるよ。稲葉山城は、本当の難攻不落の城。落とすのは苦労するでござるな~」
伸びをしながら、歩き出す秀吉。
その背中に1度微笑んでから、氏真も歩き出そうとする。
しかし、あることに気づいた氏真は、口を開けて思考が止まる。
しっかりと掴んでいたはずの縄が、途中から切れていたのだ。
氏真が気づいたのを気づいた秀吉が、可愛らしくウィンクしながら、氏真の腰にある刀を指しーー。
「自分の刀を取られたことくらい気づかないと、この先厳しいでござるよ~」
そんなことをいって、走り出す秀吉。
やっと思考が再開したのか、頬を膨らませて、氏真が追いかける。