少年、現れる。 9
翌日も、翌々日も、さらにその翌日もカンタレッラはクラスで浮いていた。クラスメイトは全員、彼から話しかけられないよう目を逸らし、休憩時間はカンタレッラの近くに十秒以上留まろうとしなかった。
けれども一人で席に座っているカンタレッラは、決して惨めではなかった。美しい顔は常に何かを面白がっているような微笑を浮かべていて、時々何か洋楽らしきものを口ずさんだり、足をぶらぶらさせたりしているカンタレッラは、見た目だけで言えばやっぱり天使に見える。無邪気な天使が私達人間の中に紛れ込んで、人間の行動を面白がって観察しているかのようだった。天使と人間は全く違う生き物だから慣れ合うことはできないと考えると、カンタレッラが天使だというのは容姿のことを除いても納得できるたとえに思えた。
ただ、カンタレッラは二年二組以外の人間には何故か別の顔を見せていた。屈託のない笑顔で女子を口説き、男子とくだらない話で盛り上がる――そんなイタリアから転校してきた害なき美少年アザミ・カンタレッラを演じていた。どうしてかはわからないけれど、残酷で意地悪な彼の素性を知っているのは私達二年二組だけで、他の生徒はそれを知らない。私達はいつの間にか生まれていた暗黙の了解で、他クラス(と言っても黄昏中学校は全学年二クラスしかない)や他学年の生徒にカンタレッラの素性を話さないことにした。
しかしそうなると当たり前のことなのかもしれないが、多くの女子生徒がカンタレッラに接近し始めた。遠慮がちに距離を縮めようとする健気な一年生もいれば、受験の季節だというのにわざわざ教室に入ってきて遊びに誘う肉食系な三年生もいた。クラスや学年が違う彼女達がさりげなく、ときにはあからさまに精一杯のアプローチをするところを私はよく目撃した。私が彼の面倒を見ている学級委員長という立場で、自然とカンタレッラの近くにいるから当然と言えば当然だ。
目撃するたびにその女子達が可哀想になった。あなた達は彼の天使のような美しさに騙されているだけで、いつか悪魔のような本性を目の当たりにして泣く羽目になるかもしれないよ。そんな言葉が何度か喉まで出かかった。
「ねえ、つゆり。ちょっといい?」
昼休みの図書室。借りていた児童書を返却して今度は何を借りようかと文学の棚をうろうろしていると、後ろから声をかけられた。相手は二年一組の学級委員長、南里雛月だった。彼女も私と同様かなりの近眼だが、つい最近眼鏡からコンタクトレンズに変えたらしい。以前は腰の上まで伸ばしっぱなしだったストレートの髪も、今はツインテールに結ばれている。
「いいよ。それにしても雛月、髪型変えたんだね」
「あ、うん。変じゃない?」
「似合ってるよ」
「ありがと」
私がそう答えると、雛月は右側の結んだ髪を指に巻きつけながら嬉しそうに微笑んだ。
「それで、どうかした?」
「……あの、ね」
「うん?」
一年生のときは同じクラスで、二年生になってクラスが別れても学級委員長同士として密と同じくらい仲がいい雛月が、今は何故か遠慮がちな声を出していた。
「つゆりって、ほら、あの人と仲いいでしょ?」
「あの人って?」
「決まってるじゃん」
私は密のことを言っているのかと思った。一年生のとき、私達三人は同じクラスだった。けれどもアイドルグループが好きな雛月と漫画やアニメが好きな密は、それぞれ趣味が合わないせいであまり会話をすることはなく、私に伝言を頼むこともたまにあった。仲が悪かったりお互いを避けたりしているわけではないのだが、趣味の相性は今一つと言ったところらしい。ちなみに私自身はアイドルや漫画のどちらにも彼女達ほど興味が持てず、それなのにどういうわけか二人別々から話し相手として選ばれる――謂わば聞き役だった。
「密のことね」
「え?」
「え?」
私達はほんの数秒間見つめ合った。
「いや、違うよ。アザミくんだって」
「あ、ああ……」
勘違いだったらしい。雛月は困ったような笑みを浮かべている。
「え……仲がいいって、私とカンタレッラが?」
そこで私は周囲を素早く見回した。カンタレッラがいないこと、図書委員の三年生が「声が大きい」という目を向けていないことを確認してから、視線を雛月に戻す。
「そんな馬鹿な」
「嘘、仲悪いの? でも移動教室とか掃除の時間とか、しょっちゅう一緒にいるよね」
「それは私が学級委員長だからだよ。クラスの皆や先生に頼まれてね」
「ふうん……。あ、そっか。そう言えばつゆりって、イタリア語検定四級に合格したんだっけ。それにお父さんはイタリアに赴任してるんだよね」
「うん」
「それでかぁ」
雛月は二回頷いて、何かに安堵したような表情を見せた。
「とりあえず仲が悪いわけじゃないし、話す機会も多いってことだよね?」
「んん……。まあ、そうかな」
好きな相手とは決して言えないけれども。
「じゃあ、ちょっとアザミくん充ての伝言頼まれてくれない?」
「いいよ。何?」
内緒話をするように両手で口元を隠し、身を寄せてきた雛月は私より五センチほど背が低い。私はほんの少し彼女に顔を傾け、耳を澄ませた。するとほんのわずかにフローラルな香りが漂ってきた。香水なんてつける子じゃなかったのに。そう意外に思っていると、雛月のぼそぼそとした声が聞こえてきた。
「次の日曜日、暇だったら一緒に町外れのショッピングモールに行かない? よかったら十時半に駅前で待ち合わせで。って伝えてきて」
見ると雛月の頬はほんのりと赤く染まっていて、可愛いと思った。カンタレッラと一緒に買い物に行きたい――そう彼女は思っている。もしかして眼鏡からコンタクトレンズにしたことや、髪型を変えたことや、前までつけていなかった香水も全てカンタレッラを意識したからという理由があるのかもしれない。
カンタレッラのことは不安だけれど、二年二組の生徒以外には猫を被っているらしいから問題ないだろう。私は頷いた。
「わかった。明日までに訊いておくよ」
「うん。お願いね、つゆり」
雛月は嬉しさと恥ずかしさが混ざった表情で図書室を出ていった。
容姿が綺麗な人物の近くにいるとこういう役割を任せられることもあるということを、この日になって私はようやく気づいた。