少年、現れる。 8
帰宅すると玄関に母さんの靴があった。母さんは私と同じように朝は七時半に家を出て、黄昏町のすぐ隣にある薄暮町の公立高校で数学の教師をしている。普段帰る時刻は大抵六時と決まっているのだが、今はまだ四時過ぎだ。たまにこういう嬉しい例外がある。
「ただいま。今日は随分と早かったんだね」
「あ、おかえり」
リビングに入ると、桃色のエプロンをつけた母さんは台所で料理の最中だった。出ている材料から見て……今夜は肉じゃがかな。
「いつもはあなたに夕食任せちゃってるけど、今日は久々におふくろの味が食べられるのよ。嬉しいでしょ」
「わーい。嬉しいなー」
おふくろの味って言うけれど、私が作る料理の味つけは母さんと全く同じようにしてるから正直あまり違いはない。
「ところで、つゆり。あなたのクラスにイタリアからの転校生が来たって本当?」
棒読みした私のことなど気にせず話題を急転換させた母さんに、私は動きが止まった。
「え、誰から聞いたのその情報」
「母親の情報網を舐めないでちょうだい」
ふふん、と母さんは笑みを浮かべた。ソースが誰なのか言わなかったが、大方二年二組の保護者仲間から聞いたか、近所のお喋りなおばさんからの伝達とかだろう。教師という職業だからか生来の性格からか、母さんは結構顔が広くて友達が多い。
「で、本当なの? 一応名前聞いたんだけど忘れちゃった。でもなんか日本人みたいな名前じゃなかった?」
「アザミ・カンタレッラ」
「あ、そうそう。そういう名前だったわね確か。どんな子?」
「すっごい綺麗な男子だよ。母親が日本人だって」
「あら、ハーフの男の子なの? でも恥ずかしがらずに頑張って話しかけなさいよ。日本にいたら実践でイタリア語使う機会なんてそうそうないんだから」
「流暢に日本語喋ってるけど」
「いいから、イタリア語で話してみなさい。ね? 仲良くなったらうちに呼んでもいいから」
「はいはい」
この調子だと母さんは明日、勤め先の高校でさっそく私のことを話のネタにするかもしれない。そして次第に拡散していきそうな気がする。別にそのこと自体は嫌ではないのだが、事実に妙な尾ひれがつかないかが心配だ。
私は空の弁当箱を母さんに渡すと、二階に上がり自分の部屋に入った。ブレザーやスカートをハンガーにかけた後、セーターを脱ぐ。静電気がぱちぱちと鳴るのが嫌で、少しでも静電気を感じないようにと壁に手をつける。それでも多少ぱちぱちと音がして、髪の毛がふわりと浮いた。私にとって冬で嫌なことベストスリーを上げるとしたら、とにかく寒いこと、寝起きが悪くなること、静電気が起きやすくなることだ。
「なんか手伝おうか」
「いいわよ今日くらい。つゆりはゆっくりしてなさい」
「……うん」
着替え終わり、手伝う気満々でリビングに戻った私は台所へ向かう足を方向転換させて炬燵に入れた。何か面白い番組でもやっていないだろうかとテレビのチャンネルを適当に回した末、ニュースを見ることにした。
「………………」
小学二年生の息子を包丁で刺し殺した母親が、昨夜警察署に出頭した。出頭後、母親の供述で息子にはたびたび虐待をしていたことが発覚。父親はその事実を以前から知っていたが黙っていたらしい。
高校一年生の女の子が、とあるホテルで十歳年上の交際相手に激しい暴行を受けた。今朝病院に運ばれたが、昼に死亡が確認された。調べによると、以前から女の子の浮気を疑っていた交際相手の男は彼女をホテルに連れ込んで暴行した末、彼女が動かなくなると先にホテルを後にしたらしい。
中学三年生の女の子にセクハラをした男性教師が捕まった。無職の女が知人の家に火をつけた。いじめを苦にした高校二年生の男の子が自殺した。
テレビの液晶画面に映し出されるアナウンサーが読み上げるのは、そんな物騒な事件が多い。
「ほんと、嫌よねえ。こういうニュースばっかり」
母さんが不意に口を開いた。
私はチャンネルを教育番組に変えた。物騒という言葉すら知らないような純粋で明るい雰囲気の幼児向けアニメが流れる。
「子供って、弱いのかな」
「え?」
ぽつりと呟いた私の言葉を母さんは聞き逃さなかった。
「何が弱いって?」
「子供。ああいうニュース見てると、やっぱり子供が殺されてるのが最近目立つからそう思ったの」
「…………確かに、そうね。日本は世界的に見てもかなり平和な国だけど、実際には子供達が巻き込まれる凄惨な事件だってたくさんあるものね。紛争が日常になってる国の子供達は、どんなに辛くてもその日一日生き残ることを精一杯頑張ってる。生き残った子だけが、大人になれる。強くなれるか偉くなれるかは二の次で、まず大人になるため子供達は生き残らなきゃいけないの。でも日本みたいな恵まれた環境で育った子供達はそれをわかってないのよ」
「生き残らないといけない、ってことを?」
「そう。大人になるために生き残らないと」
「……でもなんかそれって、世の中を弱肉強食で考えてる人じゃないと無理かもしれないね」
アニメを見ながら、私は母さんの言った「生き残らなければいけない」という言葉をしばらく頭の中で反芻していた。