少年、現れる。 7
「お疲れ様、つゆり」
SHRが終わると密が声をかけてきた。
「大丈夫?」
「まあ、なんとかね」
私はマフラーを首に巻きながら答える。ちらりとカンタレッラの席を見たが、すでに彼はいなかった。
「そう言えばアザミ、部活には入らないつもりらしいよ。美術部とか吹奏楽部とか似合いそうなのにね」
「あんな人が入部したら美術部も吹奏楽部も可哀想じゃないかな」
かく言う私も帰宅部だ。正しくは文芸部だが、あれはどの部活にも所属したくない生徒が幽霊部員として名前を連ねているだけの部活だった。だから一年生の三学期に入った頃から私もあまり活動しなくなっている。そもそも活動場所の図書室に行ったところで部員が四人以上集まることは滅多になく、読書くらいしかすることがない。読書をすること自体は嫌いではないが、放課後はすぐ家に帰った方が有意義な時間を過ごせる。
「確かにそれも言えてるわ。じゃあやつがれは漫研行ってくるね」
「ん。行ってらっしゃい」
密は漫画研究部という彼女に言わせれば学校内に存在する唯一無二の聖地――実際は美術部が活動する美術室の隣にある空き教室――へ向かっていった。
私が校舎を出ると、ちょうど野球部の男子達がグラウンドを走り始めるところだった。強豪と言えるほどではないが、黄昏中学校の野球部はそこそこ強い。他にもバスケ部、バレー部、陸上部、テニス部があるけれど、運動部の中では野球部が一番強いため期待もされている。
「声出せよー。――ファイッ」
「オー!」
「ファイッ」
「オー!」
「ファイッ」
「オー!」
勇ましい野球部員のかけ声、それに四階の音楽室から流れてきた吹奏楽部の演奏が混ざるのを聞きながら校門のところまで来て、私は行く手を塞がれて足を止めた。そこに思いがけずカンタレッラが佇んでいたからだ。門柱に背を預けて、こちらを向いている。しかも煙草を吸いながら。
「…………」
周囲に目をやったが、私達二人以外に人はいない。ただ遠くの方で、ざっざっざっ、という野球部員の走る音とかけ声、吹奏楽部の演奏が混ざって聞こえるだけだ。
私は彼から四歩ほど離れたところまで進み、再び足を止めた。
「二十歳未満が煙草を吸ってはいけない。そんな常識も知らないの?」
「イタリアじゃ喫煙が許される年齢なんて法律で定められてはいなかったよ」
涼しげな顔で返したカンタレッラの口から白い煙が流れ、木枯らしに乗って消えていく。それと同時に、バニラの甘い香りが漂った。
イタリアで喫煙可能な年齢は定められていない。それが本当なのか嘘なのか、わからない。私の父さんは煙草を吸わないから、イタリアの煙草事情なんて聞いたことがなかった。
「アーク・ロイヤル」
彼はスラックスのポケットから煙草の箱を取り出した。この辺りにあるコンビニエンスストアや自動販売機では見かけたことがない、白い箱に薄水色の錨があしらわれたソフトパッケージ。日本語は一文字も書かれていないようだ。恐らく来日する際イタリアから持ち込んだのだろう。税関とか問題なかったのかな、と少し考える。
「ぼくはこれしか吸わないんだ。パパが持ってる煙草のうちの一つ」
「え……お父さんからもらってるの?」
何をしてるんだ、カンタレッラのお父さん。
「そうだよ。愛煙家のパパは色々種類をそろえてる。パパが一番吸ってるのはマールボロだから、ぼくはこれをよくもらえるんだ」
言いながらカンタレッラは箱を開けてこちらに向けてきた。彼の目が「吸う?」と訊ねてきたが、もちろん私は首を横に振った。
「でも、日本の法律では喫煙は飲酒と同じで二十歳からって決められているの」
「どうせそんなの誰も守りはしないよ。喫煙者は大抵、決められた年齢より早いうちから吸ってるんだろう。酒だって同じ」
否定はできない。しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。私自身、煙草の煙は嫌いだし未成年でありながら平然と喫煙する人を軽蔑している。それに学級委員長としてクラスメイトが校内で堂々と喫煙していることが許せない。そんな使命感のようなものが、私の身体を動かした。
カンタレッラが箱をポケットに戻している隙を狙い、素早く彼の吸っている煙草を奪い取った。
「あっ」
初めて手にした煙草の感触は、思っていたより柔らかかった。葉で作られているのだから当たり前か。
「とにかく校内や学校付近で吸うのだけは絶対にやめて。あと、なるべく人のいないところで吸うこと。いい?」
「…………」
カンタレッラはひどくびっくりしたような表情でこちらを見ていたが、すぐに私の手から煙草を奪い返した。また吸うのかと思ったが、彼はその吸いかけを地面に落とすと靴底で擦るようにして火を消した。
「喫煙者なら携帯用の灰皿でも持っていればいいのに」
私はそう言って横を通ろうとした。しかし突然カンタレッラがそれを遮り、私の左肩を掴んで門柱に押しつけた。がん、という音が肉の中にある骨にまで振動を伝える。
「今度ぼくの家へ遊びに来ないか」
「はっ……?」
「今からでもいいぜ」
「……っ。お断りするよ」
「あ、そう」
あっさりと手を離され、私は思わず目を瞬いた。
「それじゃあね。さよなら、つゆり」
彼が去り際に言った言葉はイタリア語だった。
私は鞄を肩にかけ直して歩き出した。さっき門柱にぶつけられた左肩がまだじんじんと痺れているが、それほど痛くは感じなかったから大丈夫だろう。