少年、現れる。 3
「なんだ。日本語、ぺらぺらじゃない」
後ろで密が身を乗り出し、私だけに聞こえるよう喋り出す。
「でも、すっごい美人ね。いや美少年か。ハーフって皆ああなのかな?」
しかし途中から私は密の言葉が耳に入らなくなった。急に、下腹に鋭い痛みを感じたからだ。自分の腹部を抱くように腕を回して、ゆっくり深呼吸する。それでも治まらず、強くなってくる痛みに下唇を軽く噛んだ。
「あれ? ちょっとつゆり、どうかした?」
痛い。痛過ぎる。そう言えば今朝、痛み止めの薬飲んだっけ? いや記憶にないってことは、忘れたんだ。私の場合一日目と二日目だけひどい腹痛が起きるからいつも朝痛み止めを飲まなければいけないのに、今日は忘れてしまった。痛い。どうしよう、波が引かない……。薬さえ飲んでいれば。私の馬鹿。
たちまち私の思考から、天使のような美貌を持つ転校生のことなど吹き飛んでしまった。このまま一時間目の授業を受けるなんて、無理だ。この後保健室に行くしかない。そう決心して私は顔を上げた。いつの間にか転校生は廊下側の最後尾にあった席に腰を落ち着けている。
「安居院さん? 号令かけてください」
「あ、はい。起立」
トーキョー先生に促された私は慌てて席を立ち、声を張り上げた。これは私の、学級委員長としての仕事だ。
「礼、ありがとうございました」
下げた頭を元の位置に戻した直後、クラスメイトのほとんどは大きな波の如く、転校生のもとへ向かっていく。当然私だけだった。教室を小走りで飛び出し、保健室へ向かったのは。
保健室は十分に暖房が利いていて、とても暖かい。結局ヒーターはどう頑張ったところでエアコンには勝てないんだなとしみじみ思った。
「じゃあ一時間、ベッドで楽にしてなさい。それでもまだひどい生理痛が続くようだったら、早退してもいいからね」
ここ黄昏中学校の保健室には観音菩薩様がいる、と私は思う。若くて美人で、そのうえ生徒に対しては鞭なんてなく飴十割で接するような養護教諭、羽橋先生がその人だ。生理痛がひどくて苦しいんです、と言っただけで不治の病に侵された友人を見るような顔で心配してくれた。
「生理痛って個人差もあるけれど、安居院さんみたいにひどい場合は陣痛の痛みと大して変わらないくらいなんだって」
「そうなんですか?」
私はブレザーを脱ぎ、ベッドの近くにあるハンガーにかけた。眼鏡を外し、ブレザーのポケットに入れる。セーターはどうしようかと迷ったが、これ以上脱ぐとさすがに少し冷えると思い、結局そのままベッドにもぐり込んだ。
「じゃあ、おやすみなさい」
羽橋先生はそう言ってカーテンを閉めてくれた。しかし先ほどから一向に引く気配のない生理痛と格闘する私はのんびり眠れるはずもなく、目を閉じたまま別のことを考えて少しでも気を紛らわせることにした。
もう一月中旬か。冬休みもあっと言う間だったな。進学はやっぱり最寄りの黄昏高校にしよう。父さん、今向こうでどうしてるのかな。私が幼い頃からイタリアに単身赴任している父さんは優しくて、帰国するたび私と母さんに現地のお土産をくれた。実用的でないものが半分以上占めるのをどうにかしてほしいけれど。あ、そうだ。今度帰ってきたときには私のクラスにイタリアからの転校生が来たことを報告しよう。次イタリア語検定三級に合格できるように教えてもらいたいこともたくさんある。四級まで合格できたのは父さんのおかげなんだから。
それにしても。
「綺麗だった……」
「え? 安居院さん、何か言った?」
カーテンの向こう側で、ノートパソコンと向き合っているだろう羽橋先生が言った。
「あ、いや。なんでもないです」
「そう。本当に苦しくなったら、すぐ声をかけてね」
「はい」
私は教卓の前に立った、アザミ・カンタレッラの姿を思い出す。それだけで、ほうと溜め息が出た。
あまりにも美しくて、整った顔だった。私がたった十四年間生きてきた中で見た誰よりも。多分クラスメイト達だって同じことを思っているに違いない。恐らくあっと言う間に黄昏中学校のアイドルみたいな扱いをされて、女子が放っておかないだろう。
やけに長く感じる五十分が過ぎ、一時間目終了のチャイムが鳴った。
全く痛みが引かないどころかますますひどくなっていく生理痛に、とうとう私は負けた。ベッドに敷かれた白い清潔なシーツは、元々皺がない綺麗な状態だったというのに、今ではぐしゃぐしゃになってしまった。私が痛みに耐えるため何度も引っ掻くようにしたからだ。
「本当に一人で大丈夫? お母さんに連絡入れた方がいいんだったら――」
「いや、今頃は薄暮町の高校で仕事中なので、多分電話には出ません。家の鍵はちゃんと持ってますから大丈夫です」
羽橋先生に心配されながらも、トーキョー先生が持ってきてくれた鞄を持って頭を下げ、私は二時間目の授業が始まる校舎から出ていった。
校門を出る際、駐車場に目をやったがそこにはもうあの黒い外車はなかった。
「今度から薬、忘れないようにしないと」
呟いた私は踵を返して、寒い風が吹く中今までで一番早い帰り道を歩き出した。