少女、付き添う。 4
「きみはこんなぼくのことが嫌いにならないのか」
先に立って歩くカンタレッラが、唐突に訊ねてきた。独り言のようでもあった。私は黙ったまま次の言葉を待つ。
「ぼくのことを可哀想だと思って同情して付き合うことで、自己陶酔に浸っているだけなのか。どうなんだよ」
「…………」
何も言わない私に痺れを切らしたのか、カンタレッラは自分の方へ向き直らせた。モッズコートの襟を掴み、身体ごと近くにあった木の幹へ押しつける。すぐに唇を乗せてきた。動作は強引でも、無理矢理に従わせようとするのではない。カンタレッラはいつもそんなふうだ。放埓に振る舞う一方で、どこか潜在的に迷っている。自覚はないらしいその躊躇いや憂慮を感じてしまうから、私は彼を拒むことができない。唇は一旦離れ、今度は目を合わせてきた。わざと不機嫌であろうとする表情に反して、眼差しは切なさや不安を隠さない。その落差が、私を惑わせる。
「名前を呼べよ」
「……カンタレッラ」
「違う」
「…………」
声を出す前に、また唇を塞がれた。
やがてカンタレッラが唇を離した――刹那、いきなり左頬に衝撃を感じた。拳で殴られたのだと理解したのは、衝撃で外れた眼鏡が宙を舞った瞬間を見てからだった。地面の上に落ちた眼鏡は開いたままの状態で、幸い壊れてはいないようだ。
「ポルカミゼーリア。嫌なら拒めばいいのに、どうしてそんなふうに澄ましてるんだよ」
今頃になって、頬がじくじくと痛み出す。カンタレッラがパロラッチャを交えて悪態をついたが、気にしていられないほどに痛い。
殴打された弾みで頬の内側を噛んでしまったらしい。歯は折れていないようだからまだましかもしれないが、痛いものは痛い。みるみるうちに口の中から溢れた血が、覆っている左掌に広がった。唾液と一緒になり、私自身が感じている実際の痛み以上に、生温かい血が滴り落ちる。あまりの痛さに視界がぼやけたが、涙を流すと自分がひどく軟弱な人間になってしまいそうな気がした私は急いで目元を拭った。
「……ここで待ってて」
さすがにカンタレッラも慌てた様子で私を地面に座らせるとハンカチを貸してくれた。真っ白で柔らかなそれはどう見ても高級品で、汚すのには抵抗があったが口にあてがう。その直後に自分のハンカチを使えばよかったのだと後悔した。彼はそのままどこかへ走っていった。しばらく痛みに耐える。
やがて管理事務所へ行ったらしいカンタレッラが薬缶と湯呑み、救急箱を持って戻ってきた。口を漱ぐよう促され、湯呑みを受け取る。しかし口の外側も腫れてきていたため、微温湯を含むことすら手間取った。当然傷口に沁みて、刺すような痛みを感じた。金臭さはなかなか消えない。
不意に、学校の保健室で血にまみれたカンタレッラの指を無理矢理口に突っ込まれたことを思い出した。今はあのときと比べ物にならないほど、口の中が血液で侵されている。口を漱ぎ終わった私に、カンタレッラは救急箱の中から止血用の脱脂綿を取り出して袋ごと持たせた。
「血が止まるまで、口の中へ入れてるんだ。……これを返してくるから、じっとしていろよ」
そう言うとカンタレッラは再び管理事務所へ向かった。しばらくして戻ってくると、冷たいタオルを渡してきた。袋詰めの氷も抱えている。それを別のビニール袋に詰めて氷嚢を作った。カンタレッラの手は冷たいものを握って痛々しいほど赤くなっていた。
「自分で具合のいいように押さえて。綿は取り換えた?」
私は口に含んでいた綿を取り出し、手元のガーゼにくるんだ。
「見せて」
カンタレッラは私が拒もうとするのを遮って口を開かせた。じわりと新しい血が溢れてきたのがわかる。彼はそれをガーゼで拭き取り、もう一度綿を含ませた。
「殴られるときは歯を食いしばれって、誰にも教わらなかったのか」
ここまでバイオレンスな経験、生まれてこの方一度もなかったからね。そう言おうとしたが、喋れない。とりあえず私は頷き、布に包まれた氷嚢を頬にあてがった。ちょうどいい冷たさに痛みが和らぐ。
しゃがんでいたカンタレッラが突然立ち上がり、離れたところで落ちたままだった私の眼鏡を拾い上げた。
「ほら……」
彼は慣れない手つきで私に眼鏡をかけさせた。
「立って。事務所で近くの病院を訊いてきた。通りへ出てすぐらしい。行こう」
必要ない、と答えようと私は首を横に振った。しかし有無を言わせない力で腕を引っ張られ、無理矢理立たされた。
「治療費はぼくが負担するから」
そういう問題ではないのだと答える間も与えられず、私はカンタレッラに引っ立てられる形で植物園の外へ出た。じろじろと私達を見てくる人々の視線が居た堪れなかった。
病院に到着すると、まだ口を利けない私の代わりにカンタレッラが受付で説明した。こんなときは妙に正直になる性質なのか、事情を訊かれるより先に自分が殴ったのだと話し、治療を急かした。しかし慌てていた彼は最初イタリア語で捲し立て、おろおろと焦る受付嬢の表情に気づくと舌打ちし、苛立った表情を浮かべ日本語で全部言い直した。
私はその様子を見ながら、まるで自分が夢の中にでもいるような気分だった。自分以外の誰かが怪我をして、自分以外の誰かがカンタレッラと病院を訪れている。何故かそんなふうに感じていた。しかし左頬のずきずきとした痛みと、タートルネックの胸辺りについた赤い血の跡が、これは現実だと私の思考に強く訴えかけていた。
イタリア語メモ
ポルカミゼーリア(Porca miseria) 「雌豚」「売女」




