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少年、現れる。 11

 タクシーは港付近にある住宅街の一角で停車した。

「カンタレッラ。私お金持ってないよ」

「ぼくが払う」

 私の不安を一蹴して、カンタレッラは鞄から財布を取り出してみせた。中学生が持つには相応しくないその鰐革製の財布からちらりと見えた福沢諭吉の顔に私が唖然としていると、料金を払ったカンタレッラが「降りるよ」と促した。

 タクシーから降りると、磯の香りがする冷たい風が吹いてきて私達二人の髪を嬲った。風が吹いてきた方向に目を向けると港があり、そこから日本海の海岸線が見えていた。くすんだ水色が波を寄せては返してを繰り返し、白い飛沫が上がっている。

 カンタレッラの家は大きな白い二階建ての住宅だった。住宅のすぐ隣にはガレージもあり、敷地は周囲にある他の家よりも広い。どこか殺風景な家に見えたが、住宅とガレージを囲む背の低い生垣に咲いた山茶花は綺麗だと思った。ガレージの中にはきっと黒のキャデラックがあるのだろう。

「ただいま」

 鍵を開け、カンタレッラが玄関に入っていった。私は少しの間逡巡したが、ええいままよとばかりに彼の後ろに続いた。

「お邪魔します」

 煙草っぽい匂いが漂う広い廊下を進んでいくと、やがてリビングらしき広い部屋に出た。

「パパ、ただいま。友達を連れてきたよ」

「ああ。おかえり」

 ソファーに座る男性が、それまで吸っていた煙草を灰皿に押しつけて立ち上がった。カンタレッラと同じ髪と瞳の色をした美丈夫で、顔立ちは中学生の子供を持つとは思えないほどに若々しい。群青色のハイネックと黒のチノパンツを着た身体はやや細身だが、ほどよい筋肉質で貧弱そうには見えなかった。この人がカンタレッラの父親、あの日キャデラックの運転席から出てきた男性なのだろう。

「ロザーリオ・カンタレッラだ。よろしく、可愛いお嬢さん」

「初めまして、シニョーレ・カンタレッラ。安居院つゆりです」

 緊張してやや早口になってしまった。差し出された右手と握手を交わす。

「きみは少しならイタリア語が喋れるらしいね」

「ええ。……と言っても、本当に簡単な受け答えを少しだけですが」

「そうかい。それでも、初めて訪れた土地で母国語を理解してくれる人がいるってだけで親しみが沸きやすいものだ。いつもアザミが世話になってるようで、感謝してるよ。――お菓子と飲み物を出そう。そこに座っていてくれ」

 カンタレッラの父親は、自分が座っていたソファーとセンターテーブルを挟んで向き合っているもう一つのソファーを指差し、台所の方へ向かっていった。私は鞄を足元に置いて、柔らかいソファーに腰を下ろした。我が家にはソファーなんて置いてないけれど、これはかなりの高級品だと身を持って直感する。

「どう、ぼくのパパ」

 私の隣に座ってきたカンタレッラが小声で訊ねた。

「どうって?」

「どんな男に見える?」

「……あなたと似てる。それにしても随分若いんだね。何歳?」

「確か三十二。今年で三十三になる」

「へえ……。平日のこの時間に家にいるなんて珍しいけど、仕事は何してるの?」

「あまり詳しいことはぼくも知らないよ」

「もしかして、お母さんが働いてるとか?」

「は?」

 何故かカンタレッラが訝しげな顔をした。しかしすぐに得心したように微笑んだ。

「ああ、まだ言ってなかったね。ぼくの両親は二年前に離婚してるんだよ」

「えっ」

「離婚した後、どういうわけかマンマの生まれ故郷である日本のこの町に来た。奇妙な話だろ?」

「…………」

 どう答えていいのかわからず、私は無言になった。するとカンタレッラの父親が盆を持って戻ってきた。盆の上にはクッキーが入った皿と、三人分のグラスがある。

 てっきり温かい飲み物を出されると思っていたのだが、何故かグラスに注がれて運ばれてきたのは無色の炭酸水だった。このリビングに暖房が効いていなければ、とてもではないが飲む気が起きなかっただろう。

「つゆり。ちょっと僕の隣に座ってくれないか」

「え?」

 炭酸水を半分ほど飲み干したところで、向かい合って座っていたカンタレッラの父親が言った。

「座ってやれよ」

 カンタレッラが囁く。私はよくわからないまま、センターテーブルを迂回してカンタレッラの父親の隣に座った。

「いいブルネットだ」

 不意に大きな手で髪をくしゃくしゃとかき混ぜられた、かと思えば手櫛で整えられる。何がしたいのだろうか。私と向き合っているカンタレッラは薄い笑みを浮かべてこちらを見つめているだけだ。

「きみは男性と交際した経験があるかい?」

「いえ、まだありません」

「ああ。やっぱり日本人は奥ゆかしいんだな」

 どこか上機嫌な様子でカンタレッラの父親は笑った。ひょっとして、この人の炭酸水にだけアルコールが入っていたんじゃないだろうか。

「ところで、きみがイタリア語を勉強したきっかけとかはあるのか?」

「幼い頃から父がイタリアに赴任してるんです。だから挨拶とか、簡単な単語は英語よりも先に覚えました。そのうちイタリア語検定があるのを知って、本格的に勉強を始めたって感じです」

「へえ。素晴らしいね」

 そう言ってカンタレッラの父親は私の顎に左手を添えて、少し持ち上げた。

「つゆり。きみの唇は少し荒れている」

「……まあ、この季節ですから」

「でも、形は綺麗だ」

 カンタレッラの父親は自分のグラスに指先を浸し、その濡れた指で私の唇をなぞった。そこから雫が顎まで伝う。

「男と付き合った経験がないってことは、キスの仕方も知らないんだろう。僕が教えてあげようか」

「は、えっ……?」

 冗談なのか本気なのかわからない言葉に戸惑っていると、突然右肩をカンタレッラに掴まれた。首を動かすと、カンタレッラの軽く睨みを効かせた綺麗な顔があった。彼は左手をセンターテーブルに突き、身を乗り出すようにして私の肩を掴んでいる。

「な、何」

 私の問いには答えず、カンタレッラはそのまま身体をこちらに傾けてきた。段々顔が近づく。だがカンタレッラの父親が私の顎に添えていた手で彼の首を掴んだことにより、その動きは止まった。

「アザミ。お前この子のことが好きなのか?」

「まさか」

 カンタレッラが冷ややかな声で返すと、彼の父親は一瞬無表情になってソファーから立ち上がった。そして「あとは自由に寛いで」と言うと、リビングの奥にあった扉を開けて中に入っていった。

 なんだったんだ、一体。

 

イタリア語メモ


 シニョーレ(Signore) 「主人」「紳士」

 英語のミスターと同義。男性への敬称に使われる。

 

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