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少年、現れる。 10

 散々悩んだ挙句夏目漱石の『こころ』だけを借りて教室に戻った私は、密に図書室でのことを伝言の内容は伏せて話してみた。

「えっ、何その少女漫画的展開。やつがれも図書室行ってればよかった。……そうなると普通は雛月がヒロインポジションになるね」

「普通は?」

「だって相手はアザミでしょ。これで普通のラブコメ展開になってくれたらいいんだけど……」

「……多分大丈夫だと思うよ。よくわからないけど彼、このクラス以外には猫被ってるし」

「確かにそうね。それでつゆり、その伝言はもうアザミに伝えたの?」

「いや、まだ」

 カンタレッラを見ると、相変わらず一人で洋楽を口ずさんでいた。

 なんだか私や他の皆ばかりカンタレッラのことを考えていて、本人はまるで他人のことなんて時々傷つけること以外気にしていないみたいだ。こちらは鎧を身に纏って完全防御しているつもりでも、彼は不意に鎧の細かな隙間から針を差し込んでは私達を傷つける。目立たないけれど、しばらくずきずきと痛むその攻撃に私達は警戒するしかない。

 五時間目の現代文、六時間目の体育、そして掃除とSHRが終わり、すぐに放課後を迎える。私は校門前で足を止めた。門柱に背を預けて佇むカンタレッラがいたからだ。しかし今日は以前と違って、煙草を吸っていない。

「一応守ってるんだね」

「何が?」

「煙草。校舎内と学校付近では吸わないでって言ったやつ」

「ああ」

 彼がスラックスのポケットから取り出したのは、あのアーク・ロイヤルの箱だった。こんなに堂々とポケットに常備しているだなんて、教師に見つかったときのことなんて全然考えていないのかもしれない。

「ねえ。そろそろぼくの家に来ないか?」

「前も言ったよ。遠慮するって」

 そのとき、後ろから何やら騒がしい声が聞こえてきた。気になって振り返ると、さっきまでいつものようにランニングをしていた野球部の男子が三人地面に倒れていた。重なっている様子から見て、どうやら一人が転んだ直後、彼の後ろを走っていた二人も将棋倒しのように巻き込まれたらしい。その三人を周囲が囃し立てているようだった。普通に心配してあげればいいのに。

 そんなことを考えていると、突如カンタレッラが私の腕を掴んで走り出した。野球部に気を取られていた私は抵抗する暇も声を出す暇もなく、転ばないように必死で足を動かした。無理に喋ろうとしていたら舌を噛んでいたかもしれないと思うほど、彼の引っ張る力は強かった。

 校門を出てしばらく走った。するといきなり通りがかりのタクシーを呼び止めたかと思うと、カンタレッラは私を押し込みながら乗り込んだ。運転手は客が男女の中学生二人であることを不審に思ったらしく、露骨に眉を寄せていた。もしこの運転手が学校に連絡を入れたりでもしたら厄介だ。

 気づけばカンタレッラが無言で一枚の小さな紙を運転手に手渡していた。それには行き先が書いてあったらしく、タクシーはすぐに走り出した。

 ああ、どうしよう。逃げるタイミングを失ってしまったかもしれない。

 今からでも運転手に「この男子に無理矢理連れ込まれたんです。私だけでも降ろしてください」などと言うべきだろうか。けれどもその後は一体どうなるというんだ。間違いなく怪しまれて学校側に連絡が回り、カンタレッラは先生達から叱られることだろう。下手したら私も巻き添えを食らう。

 運転手に助けを求めるのは早くも諦めた。車内に入って十秒経っていたかいないかの早さで。いや、多分まだそんなにひどい状況じゃない。だから助けなんて必要ないはずだ。そう前向きに考えることにする。

 暖房が十分に効いている車内は、緊張感がなければ眠ってしまいそうになるほど心地いい。タクシーはあっという間に学校から離れていった。

「ねえ、ちょっと――」

 何も言わないカンタレッラに理由を求めようとした。しかし落ち着き払った彼の顔は、ただ進行方向を見つめていて、ちらりとも私の方を見ようとしない。

 少しだけ唇を引き締め、微笑んでいるようにも見える。これがカンタレッラの素の表情なのかもしれない。潤んだように光る翡翠色の瞳に通りの街路樹が映るのを見ていると、彼を問い質そうとしていた言葉が何故か喉の奥に引っ込んでしまった。

 タクシーは商店街を迂回して、南へと向かった。まもなく丘陵の斜面を下り、両側に灌木や草が茂る更地の中へ入った。南東の方角へ進んでいる。丘陵地はやがて小高い丘となり、後方へ遠のいた。茂みも見えなくなる。このまま走って行けばいつしか黄昏町の港へ出るはずだ。

「どこへ行くのか教えようか」

 イタリア語が聞こえた。そう思ったときカンタレッラが肩を掴んできて、窓の外に気を取られていた私を自分の方へ向かせた。

「ぼくの家だよ。パパがそこで待っているんだ」

 手はさらに首へと伸びて、親指の先で頸動脈を押さえる。そして空いていた左手の人差し指を、私の鎖骨に沿ってゆっくりと動かした。制服の上からだというのに、彼の指は正確に鎖骨の位置を捉えていた。私は何の抵抗もできず、黙ってされるがままだ。

「これくらいのイタリア語、理解できてるんだろう。ぼくはちゃんと説明したからな」

「う、うん」

 私もイタリア語で返し、頷いた。

 ふと運転手のことを気にすると、嫌な中学生を乗せてしまったと若干後悔を感じている表情がミラーに映っていた。ごめんなさい、運転手さん。お願いだから学校に連絡を入れないでください。私はそう祈るしかなかった。

 

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