少年、現れる。 1
薄水色の空が凍りつき、ガラスのようにひび割れて落ちてくるのではないかと錯覚するほど寒い朝。私、つまり安居院つゆりは生まれて初めて天使を目撃した。
冬休みが明けてちょうど一週間経った今日は私が灯油当番だった。山と海に囲まれた田舎町の黄昏中学校でエアコンが設置されているのは校長室、職員室、保健室、それから特別教室のいくつかくらいで、ホームルームを始めとするそれ以外の教室には扇風機と灯油ファンヒーターがあるだけ。冬の間は灯油当番というものがあり、ヒーターの灯油が切れたら出席番号順で回ってくる灯油当番の生徒がわざわざ校舎の外まで出て、倉庫から灯油を教室まで運び、ヒーターに補充するとまた倉庫まで戻しに行くという作業を強いられる。
「おはよう」
私が教室に入るなり、クラスメイトの視線が一斉に集まった。
「あ、おはよう学級委員長。灯油切れてるよ」
「早く灯油持ってきて。凍え死ぬ」
彼らは口々に言ってきた。何人かは待ち切れないという様子でヒーターを取り囲み、カイロに両手を擦り合わせている人もいた。
そんなに待ち切れないのなら、自分達でさっさと灯油の補充をすればいいのに。そんなことを思うが、私自身も彼らと同様いくら寒くてたまらなくても、灯油当番が登校するのを待つだろうなと考え直す。
「わかった。すぐ行くよ」
また外に出なければいけないという憂鬱を感じながらも私はそう返した。外したマフラーと手袋、それから鞄を机の上に置くと急いで教室から出て、階段を駆け下りた。
一月の朝は、とても寒い。十二月よりも二月よりも、この黄昏町では一月が一年の中で最も気温が低くなる。だから教室を暖めるという重要な役割を担う灯油当番は、生徒達にとってなくてはならない存在だ。
一階の昇降口で靴を履き替える際親友とすれ違い、あちらは察した様子で私に微笑んで「おはよ。灯油当番、頑張れ」と言ってくれた。
校舎を出てすぐ西側に、ヒーター用の灯油が保管されている倉庫が存在する。火気厳禁のプレートが壁にあるコンクリート打ちっぱなしの灯油倉庫。中に入った私は『2‐2』と黒のマジックペンで大きく書かれたポリタンクを見つける。近づくと灯油独特の匂いがした。好きではないけれど、この匂いは冬の印だ。
「よっ、と」
ポリタンクを持ち上げると、ずしりとした液体の重さが伝わってくる。けれどもぎりぎり両腕が震えない程度だから問題ない。またここへ戻しに行くときは当然軽くなる。行きはよいよい、帰りは怖いならぬ――行きは辛いが帰りはよいよいという感じだ。ただこれを持って階段を上るときはどうしても時間がかかってしまう。
外に出て、一旦ポリタンクを地面に置いてから扉を閉める。ふと、主に教員や来賓客、たまに生徒の保護者が使う駐車場が偶然目に入った。それとほぼ同時に突然、黒い外車が駐車場に入ってきた。
え、何あれ。前に映画で見た内容が正しければ、車種はキャデラックかな。うん、多分そうだ。それにしても駐車する場所間違ってるんじゃないの? ああ、ひょっとしたら近くで用事があるから一時的にここに置いておきますってこと?
そう考えているうちに黒いキャデラックと思しき外車は停車した。周囲に停車してあった先生達が乗る日本産の車が、その一際目を引く堂々とした新参者――新参車に委縮しているようにも見えた。
私が呆然としていると、後部座席の右側から一人の少年が降りてきた。私は思わず眼鏡の位置を直し、およそ二十メートルは離れている相手をよく見ようとする。そのとき顔を上げた彼と、外車を真っ直ぐ見ていた私の視線は正面からぶつかり合った。
――――天使だ。
何よりも先に、私の思考はそう呟いていた。理由は至極単純なもので、あまりにも彼が美しかったからだ。
艶やかなシェルピンクの髪は耳を隠す長さで、前髪のすぐ下にある翡翠色の瞳はまるで宝石だ。白磁のような肌と紅薔薇の花弁を連想させる唇の色合いは、精巧なビスクドールでも見ているかのような気分になる。いや、ビスクドールなんてレベルじゃない。あれは最早天使としか思えない。ただ黄昏中学校の男子用制服である濃紺のブレザーと濃灰色のスラックスが、彼にとってはあまり着慣れていないようで、そのせいかわずかに少年の魅力は手加減されているようだった。それでも天使と見紛う少年の美貌は、凹レンズ越しに私の網膜を焼くのに十分な威力を持っていた。
実際に私と少年が視線を合わせていたのは十秒にも満たなかったはずだ。それでも私にとってはかなり長い時間見つめ合っていたような感覚があり、不思議だった。
少年より遅れて運転席から長身の男性が降りてきた。黒い帽子とマフラー、サングラスのせいであまり顔はわからない。その男性に何か声をかけられたらしい少年はすぐに私から視線を外した。途端に私は催眠術から解かれたかのごとく我に返ると、次の瞬間教室で灯油当番の私を待っているだろうクラスメイトのことが頭に浮かんだ。
私は慌ててポリタンクを持ち上げ、急ぎ足で教室に戻った。