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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

天国へ続かない扉

作者: takahiro

 その扉を開けるのが億劫だと感じるのはいつも、数日の時間を経てからだ。

 あきらはコートのポケットから取り出した鍵を手持ち無沙汰にもてあそびながら、どこにでもあるような造りのマンションのエントランスホールへと足を踏み入れた。深夜と言っても異論が返ってくることのない時間のそこは静まり返り、電灯が発する僅かな耳鳴りにも似た電子音ですら拾えてしまう。管理人室などという上等なものがあるわけでもないホールはいつもと変わりなく、階段とエレベータのどちらで上の階へと向かうかを無言で問い質してきた。

 床に敷かれたタイルは寂れたマンションには似合わないひどく軽快な音を立てて靴の踵を受け止める。しかしながら深夜という時間を憚らないその音の大きさはこのマンションにお似合いかもしれないと、そんな少しばかりの不満が混じった感想を抱きながら大した感慨もなく次の足を踏み出した。

 エレベータの止まっている階を表すランプは非常に残念なことに最上階である十八階にあり、爛々と自分はそこにいるのだと主張するそれを見ていると途端にボタンを押すのが億劫になってしまう。こんなマンションの最上階に住むような人間が乗った後のエレベータに乗り込むような気分でもなかったので、ため息をひとつ吐いて右手と一緒に鍵をポケットへと仕舞い込む。

 もっと上の階に住んでいたならばそんな気も起きなかっただろうが、残念なことに晃の部屋はエントランスホールからたった四階分の階段と数メートルの通路を隔てた距離しかない。たまには歩いて上がるのもいいかもしれないと思えるぎりぎりの範囲だ。(他の誰がどうであれ、晃は十階や二十階分の階段を上がろうと思えるほどフットワークが軽くない。)

 一段目に足をかける。そのまま少しばかり重たい体を引き上げて、次の段へと踏み出す。踊り場に設置された明り取りのための窓はその役目を果たしておらず、隅につけられた白っぽい蛍光灯の光が辺りを照らしていた。窓の外には隣の建物の壁。確か個人事務所か何かだった。外気が入り込んでこないというのは冬場には嬉しいが、夏になると建物自体が蒸す原因になる。もしかしたら晃が明り取りのためにあると思っていた窓の本来の役目は、風通しのためなのかもしれない。どちらにしろ、どうでもいいことには変わりない。

 思考が散漫になっている自覚はあった。今日は夕飯をとったときに少しばかりアルコールも胃に入れた。量としては極僅かであったために大して気にしていなかったが、酔いが回っているのだろうか。ついこの間飲んだときはそうでもなかったと、ずるりと引き出された余計な記憶に晃は眉を顰めた。

 少しばかり体の内に熱がこもっている。わざわざ階段を使うのは久しぶりだった。二階へと続く最後の段を上がりきったところで一瞬、もう十分ではないだろうかとエレベータに視線が向く。得てして体は感情よりも素直なものだ。ただ、親切な体の申し出を反故にするくらいに今日の気分はよくなかったらしい。ぽつんと呼ばれるのを待っているエレベータへと背を向けてまた階段を上り始める。

 部屋へとたどり着くまでに気分が持ち上がってくれればいいと思ったが、憂鬱というのは階段を上るほどの容易さで晴れてくれるものではないことくらい今までの人生で十二分に理解していた。(ともすれば、終わりが見えないほど先の長い階段を目の前にしたときの状態はそれに近いかもしれないと思わなくもなかったが。)とどのつまり、肚の底に溜まった澱みを取り除くにはそれなりの手段とプロセスが必要ということだ。

 ふと左手に持っていた鞄を見下ろす。紙とボールペンと携帯端末とメモリがいくつか、仕事に必要なものが入ったそれは重くはない。毎日のように晃の傍らにあるものだ。今の会社に入ってから数年経つが、まだ一度も買い換えてはいなかった。あと二年もしたら買い替え時かもしれない。

 軽い音を立ててポケットのなかで鍵が鳴る。早く自分を使えと言っているようでまた少し、気分が下降した。階段はあと二階分も残されていない。急かさなくてもすぐに役目は回ってくる、と口にする代わりにポケットに突っ込んだ右手で鍵を撫で上げた。それで鍵が満足したかどうかは晃にはわからない。もともと、すべてが晃の気のせいでしかないのだ。鍵が意思をもって自身の存在を主張することもないし、使われなかったからと言って不平不満を訴えることもない。所詮、気を紛らわすために脳が生み出した錯覚にすぎない。

 三階へと続く階段の踊り場を照らし出す電灯は眠たげに瞬いていた。階段を使うもの自体少ないのだろう。管理人がいつこの場所の電気が切れそうになっていることに気付くだろうか。もし明日にでも換わっていればこのマンションの評価が少しは上がるかもしれない。晃のなかだけで、だが。

 通り過ぎ際に見遣ったエレベータは相変わらず誰に使われることもなく停止したままのようだった。深夜に使われること自体そこまでないだろう。マンションのエレベータというものは往々にして夜中から早朝にかけては暇なものなのだ。ただ、いつ誰に使われるかわからないというのは不幸なのかもしれない。二十四時間営業のビルでない限り、普通のエレベータには休息時間というものがある。しかしマンションのエレベータは暇を持て余しながらも完全に眠りにつく時間はない。いくら暇だとはいえ年中無休で働かされるなど人間ならば堪ったものではない。(だが、結局のところ相手はエレベータで電気で動く機械でしかないのだからそんな同情は無用の長物だろう。)

 あと一階。階数を示す標示を見ると思考活動によって紛れていた気分が本来のコンディションを取り戻し、再び肚の底へと沈んでいく。思わず洩れそうになった溜め息を喉を奥で押し殺せば、余計に体が重くなったような気がした。二十センチやそこらの段差を上っていくのすら嫌になる。

 最後の踊り場を通り過ぎた。あと五段で目的の階へと到着してしまう。普通に歩けば十秒とかからない。そしていくらそこへたどり着きたくないと思っていても晃の体は律義に左右の足を踏み出し、速度を緩めようとはしてくれなかった。四階のフロアを踏み締めるまでにかかった時間はおよそ七秒。上り始めたころには温かいと思っていた体は今はもうすっかり冷めてしまっていた。頭も変に醒めている。どうせならば前後不覚になるくらい飲んでくるんだったと後悔しても今更だろう。

 薄暗く少しばかり陰気臭い通路へと足を踏み出せば、意図せずとも自宅の扉が鎮座している姿が目に留まる。その姿は如何にも晃が帰ってくるのを待ち構えているふうで(気のせいだと言ってしまえばそれまでだが)、また重たい空気が肺から押し出されてきた。

 ポケットから鍵を取り出す。キーホルダーにつけられたチェーンがじゃらりと嬉しげに鳴る。晃の気分とは裏腹に、それはようやくの出番を喜んでいるようだった。鍵やエレベータのように誰に言われるでもなく当然のように決められた人生があるのは楽しいのだろうか。それだけやっていればいい。自分に与えられた役目が至上のもので、彼らはそのためだけに存在している。そのことだけに心を砕けばいい。そんな人生を送れることは、幸せなのか不幸せなのか。(どちらにしろ、望まれた道を歩くのは少しばかり、難しい。)

 目前に迫った扉に足を止め、取り出した鍵を差し込む。がちゃり、開錠音が鳴ったのを確認して再び鍵をポケットに押し込んだ。

 ドアノブへと手をかける。ひやりと伝わってきた温度に小さく身震いした。

 微かな躊躇いが脳裡をよぎる。軽く目を伏せてそれを追い払うのに五秒。

 一息に扉を押し開く。途端に雪崩れてきた色濃い静寂に息が詰まった。

 扉を開けるのが億劫だと感じるのはいつも、数日の時間を経てからだ。舞い戻ってきた一人きりの空間に気付くまでにそれだけ時間がかかる。気付かなければなんてことないのに、気付いてしまえば最後。足元から憚ることなく寄ってくる孤独はすぐさま晃を呑み込んでしまう。

 気付かれぬよう息を呑んで(それを聞き咎めるものなど誰もいないのに)、影のなかへと踏み入った。三歩目で扉から手を離す。背後からオートロックの閉まる音が聞こえ、それきり、耳に痛い沈黙が辺りを包み込んだ。室内灯は点けないまま、廊下を抜けてダイニングを通り寝室へとたどり着く。

 カーテンが閉ざされたままの窓の向こうからはぼんやりとした街の明かりが見えた。ネクタイを緩めながらベッドへと腰掛ける。コートと鞄とスーツの上着はダイニングのソファへとおざなりに放り投げてきた。今日はいちいちハンガーにかける気にはなれない。

 そのままシャツに皺が残ることも気にせずベッドへと倒れ込めば、ベッドマットは軋みをあげることもなく晃を受け止めた。行儀悪く足だけで靴を脱ぎ、ずるずるとベッドに全身を引き上げる。寝返りを打ちながら背を丸め、撓んだシーツへと鼻先を埋めた。するり、と熱を孕んでいないそれは何の気なしに晃の頬を撫ぜる。

 高々一人分の体温で部屋が暖まるわけもなく、重くも軽くもない冷気はただ黙って晃へと触れてきた。僅かな光すら厭うように目蓋を下ろせば静寂ばかりが耳につく。冷えた気配に肺腑が満たされれば、えもいわれぬ悪寒が背骨を駆け上がる。

 ひゅう、と喉をすり抜けた呼気が何かを模ろうとしたけれど、それが何であるかを考えようとは思わなかった。もしかすると考えたくないだけかもしれない。人間はひどく容易いことで思考を放棄したがる生き物だ。

 半月ばかりこの部屋に滞在していた男が去ってから数日が経つ。海外赴任を機に住んでいた家を引き払った男は、こちらへ帰ってくるたびに晃の部屋へとやってきた。

 ホテル代がどうだとか経費削減がどうだとかと口にする男が本当は何を考えているのかを晃は知っている。彼は晃が一人きりでいるのをひどく厭うことをよく理解しているのだ。だから余計な気ばかり回してくる。

 晃が男と関係を持ったのはもう随分と前のことだ。互いに相手に困っていたわけではない。晃が手を伸ばした先に偶然いたのが男で、男が晃を拒まなかった。ただそれだけのことだ。

 熱を、思い出す。肚の底からせり上がってくるそれはひどく喉の渇く熱だ。どれだけ水を流し込んでも消えない。その熱が体を焼いている間だけは置いていかれたことを忘れていられた。(それも所詮一過性のものではあったけれど。)

 男は笑う。自分が晃を置いていくことにも気付かず、ゆるりと笑ってその指先で晃の髪を撫でた。髪を撫ぜられるのはあまり好きではない。その仕種は晃を意図して置いていった人間を思い出させた。

 晃の兄はよくそうして晃の髪を梳くひとだった。彼はいつだってそうすればなんでも解決するのだと言わんばかりに笑っていた。笑って、なんでもないことのように晃の髪をその指で梳いた。その記憶が今でも強く蘇ってきてしまう。どれだけ経っても消えないそれは、しこりとしていつまでも残り続けるのだろう。

 世界はいつだって晃を置き去りにした。両親は晃が中学に上がる年に事故で帰らぬ人となった。晃と一緒に助かった兄も、ある日突然晃の前から姿を消した。幸せになれと口にした兄の表情は目蓋に焼きついて未だ取れない。

 だから晃はもう二度と誰にも置き去りにされないように生きようと思ったのだ。それは晃の思う幸せから一番遠いものだったから、ただひたすらに逃げた。置き去りにされるのは怖いと、泣いて縋ったのはたった一度きりだ。そうして縋られたことは幾度かあったかもしれないけれど(しかしもう覚えていない)。

 それなのに、意図せず晃は置き去りにされた。自分を置き去りにしていく人間へと手を伸ばしてしまった。

 シーツの皺を指でたどる。それは晃の肌を慰めはしたけれど、男の体温を運んでくることはなかった。

 一人にされたことを自覚するまでにはいつだって少しばかり時間がかかる。すぐに気付けば泣くことも嘆くこともできるだろうに、時間を経てしまうとそれもできない。ただ、いつものように扉を開けてこの場所へと戻ってくるだけだ。枕を濡らすことなどあるわけがない。

 世界のすべてが自分を愛しているなんてただの錯覚だ。子供の頃は信じていた。それが当然なのだと何の確信もなく。けれども人は自分が信じていたものを手折りながら大人になっていくのだ。自分の手で一つひとつ、丁寧に壊していく。そうして出来上がった大人は、次の子供が自分と同じものになるための手助けをする。ひどく荒んだ社会のシステムだ。或いは、捻くれた世界の真理とも言えるかもしれない。

 置いていかれることはそのシステムの一部でしかない。信じていたその事実が、当然のものでなかったことを知るためのプロセス。それだけだ。だから、それは泣くことでも嘆くことでも悔やむことでも怒ることでもない。そう、晃は思っている。

 世界はあらゆる絶望を孕み、そうして希望を呑み込んでいく。ゆえに晃は目を瞑ることを覚えた。目を瞑り、世界から意識を逸らして、上手く生きる術を身につけた。

 それにもかかわらず、逸らしたはずの視線を男は元の世界へと戻させようとする。そのなんと残酷なことか。晃がどれだけそれを恐れているのか理解していないのだ。だから平気でそんなことができる。この世界は美しくいとおしいものだと微笑むことができる。

 目蓋を下ろし、細く息を吐き出す。肺から洩れ出た空気は意図せず声帯を震わせ、滲んだ声音は静まり返った部屋へと溶けずに消えた。

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