大手
また普通の学生に戻る平日の五日間。
美香は土曜日の約束が気になって仕方なかった。
出来れば断りたいのだが、純に電話をかける勇気もない。
すぐに金曜日の朝が来てしまい、その日の夕食を朝のうちに整え ドレスや下着、東京に行く荷物を詰めると学校へ向かう。
そして業後にそのまま京都から東京へ発つのだ。
東京へ向かう新幹線の車内、流れる景色を見ながら純に渡されたメモを見つめていた。
どうしてもあまり気が進まない。すっぽかせるわけでもないので心を決めなくてはならない。
出勤までの数時間。きっと大丈夫…。自分を勇気付ける。
金曜は同伴もアフターもありくたくたに疲れた。
それなのに純との約束の件で神経が休まらずに深く眠れない。
午後4時。約束の時間通りに美香は純の指定した喫茶店の前にいた。
そのままお店に出勤できるようにピンクのスーツ姿で。
純は初めて飲みに来た時と同じような清潔感のあるセンスの良い出で立ち(いでたち)で現れた。
喫茶店に入り二人でお茶をする。
何気ない世間話をしながら美香の機嫌を伺い、次に面白おかしい話へと展開を進める。
それは予想通りに美香を笑わせ すっかり場が和んだ後は
車を止めてある駐車場まで一緒に歩き、そのまま予約を入れてあるフレンチレストランへと向かった。
可愛い花が飾られ、キャンドルの灯るロマンチックなテーブル。
美味しいシャンパンに運ばれてくる繊細なフランス料理。
美香の警戒心は明らかに和らいでいる。
「俺、本当は大学に行きたかったんだよね…。でも親父が入院しているから金が要るし それでこの世界に入ったわけ。これから先どうなるか分からないけど、お金を貯めて学校に行きたいし、母親をもっと楽にしてやりたいよ…」
純の言葉に美香の表情がみるみる悲しいものへと変化する。
「ごめん。こんな暗い話して…。同じ世界でバイトしてるから何か美香ちゃんだったら分かってくれるような気がしてさ…」
「気にせんどいて。うちも色んな人に助けられて大学に行かせてもらってるから…」
「そっか・・・ありがとう…美香ちゃんが話を聞いてくれたからもっと頑張れそうな気がしてきた」
純は偽りの優しい微笑を浮かべた。
疑うことを知らない聖女は微笑みを返す。
全部嘘なのだ。純の父親が入院、本当は大学に行きたかった。
父親も母親も健在で足立区の都営住宅に住んでいる。大学に行けなかったのは勉強をしなかったのと素行の悪さ。もともと大学に行こうなんて微塵も思ったことがない。
高校もろくに行っていないし、その頃からちょくちょくホストのバイトをするようになり今に至るのだ。
食事の後は美香をプルメリアの裏まで送り 純は囁いた。
「美香ちゃん…ごめん、本当に申し訳ないんだけど今日だけ俺の店に飲みに来てくれないかな?
今夜どうしても来れないお客がいて。それでも売り上げは絶対にある一定のレベルまで保たないと親父の入院費が払えなくなる。今年中に手術も受けさせてあげたいし。俺もなるべく美香ちゃんのお店に顔出すようにするから」
沈みきった純の顔を前に美香は思わずうなずいた。
うちには、今となっては親と呼んでいいのか分からない人が一人だけ…。助けられる親がいるならば助けてあげたいと思うのが当然よね…。親の話題はいつも決まって心が痛む。
「お店が終わったら俺の携帯に電話して。迎えに行くから」純はそういい残し美香を車から降ろした。
その夜は断れないアフターが入ってしまい、店の電話から純へ謝りの電話を入れた。
「大丈夫。アフターが終わったらまた電話してよ。迎えに行くから」騒がしい店内のトイレで純は出来るだけ優しい声でゆっくりとそう言った。
「分かった。また後で電話する…」
ハイヒールで疲れた脚を引きずりながら美香はお店の先輩二人と一緒にタクシーに乗り込みアフターへと出かける。
結局、純のお店に着いたのは午前3時過ぎ。
角の死角の多い小さな席へ通されブランデーを少し飲んだところで美香の体力は限界に近づいていた。
純は美香の手を握り優しく話しかける。そしてしだいにその手は腰に回された。
「美香ちゃん、もっと一緒に居たい。店が終わってからも一緒にいよう」
判断力が鈍っているのと、達也と別れて心がまだ完全に回復していないタイミング、忘れかけていた親の事とそれにまつわり蘇った遠い悲しい記憶。
様々な負の状況が美香を狂わせたのだ。
純は自分の思惑通りに美香の泊まるホテルの部屋の中までこぎつけると
ベッドの上、腕の中で弱っている獲物の唇を奪った。
「最後までしないで………」
小さな小さな声が聞こえたが無視した。
「お願い、最後までしないで…」美香の理性が彼女の口を動かす。
「どうして?俺は美香ちゃんが欲しい」ギュッと抱きしめながら純は気持ちを押す。
「お願い……ホンマにお願い」
ほどけない彼女の鉄の理性のせいで生殺しの刑に合ったがギリギリのところまでその身体を味わった。
夕方、―これは過ちなんかではない…― そう思わせるために純は魔法の言葉を何度も囁いた。
「ずっと一緒にいよう。一緒にがんばろう…俺のそばにいてな」
これは不安定な女の心に一番響くセリフなのだ。締めくくりに優しく抱きしめる。
これで次に会う時はその身も心も完全にこの手に入るはず。
気を抜けばにやけて緩み出す口元に力を入れながら純は車に乗り込み家路へとついた。