別れ
次の日もバイトがあり、とてもじゃないけれど仕事ができるような心情ではない。
それでも出勤するしかなかった。
おまけに恭子も伴う同伴があり、美容院にも早めに行かなければならなかった。
食事中、お店に行く前に元気な姿を繕うだけでも精一杯なのに出勤後はどうしたらいいのだろうか?
こともあろうに達也と則芳、則芳のバンドのメンバーと音楽会社の部長が来店した。
達也の指名は美香のままで 美香の心はもう粉々だった。
もうええわ、もうえねん…。そう心の中でつぶやく。
美香は達也の顔見るのが辛いので、この人は達也でなくてとあるバンドマンと思い込むことにした。数十分だけ個人的な感情は捨てる。それくらいうちにも出来る…。
達也はどことなくいつもと違う美香の様子に気が付いていた。
なんとなくそれが気になって帰りがけに
「今日、後で行くわ」と、ぼそっと美香に告げた。
「今日はあかんねん」美香が1秒と経たないうちに返事を返す。
何を断るにも必ず「ホンマにごめんない」と謝る彼女なのに今夜はまるで別人のようだった。
達也はそれが無性に気になって深夜にホテルを訪ねる。
部屋の前で何度呼び鈴を押してもノックをしても応答がない。
携帯電話を取り出し、フロント経由で電話をつないでもらおうとしたが肝心の本人と電話がつながらない。
部屋にいないのだろうか…?
達也は仕方なく諦めて帰っていった。
貴方を解放するから、もう私の前に現れないでよ…。
美香はそんなズタズタな気持ちで居留守を使う。
翌朝、新幹線で大阪に帰り 洗濯と掃除、明日の講義の為の教科書を用意してと変わらない日曜日の雑用をこなした。
夜になっても気持ちが晴れなくてうんと長めにお風呂につかる。
軽いめまいを覚えながらお風呂から上がると 受話器を持った優が
「達也さん」と声をかけた。
どうしてこのタイミングなのだろう…。
あと1分、身体を長く洗っていたら、もう1分洗面所の鏡を見ていたら…
話さずに済んだのに……。
自分の運命を呪った。
さっさと部屋に戻っていく優を確認して恐る恐る受話器を耳にあてる。
「おう!なんで昨日、ホテルにおらんかったねん?アフターやったん?」
いつもと変わらない のん気な口調に激しい嫌悪感を覚え
「もううちと別れて下さい」
美香は静かにそう言い放った。
「ああん?何やねんそれ?意味が分からへんわ…」
「奈津美さんと付き合いたいの知ってる…だからうちとはもう終わり」
「誰がそんなこと言うたねん?」
「奈津美さんと朝まで一緒に居たのも もう知ってんねんから」
「確かに朝まで一緒やったけど何もなかってん。全部説明するから来週、会って話そうや」
全部説明する………。
でももう彼を解放してあげてよ。達也さんだって自由になりたいんだよ。でも美香ちゃんが可哀想でなかなか言い出せないの。
奈津美の言葉が脳裏をかすめ、説明とはいいミュージシャンで居続ける為に自由でいたい。そうなることが必要なんだというきれいごとでは ないだろうか…?
奈津美とは何もなかったことを説明しようとしている達也を完全に誤解したまま美香は更に自らを彼から遠ざけた。
「うちに説明の必要はない。達也さん変わってしまったわ。だからもう終わり…」
「そんなに簡単に終わるんか?」
達也の声が怒りに満ちているのが分かる。
「もう今日でホンマに終わり。終わりにしてよ」
「もうええわ!」
ガチャンと思いっきり電話をきられた。
でもこれで良かった…これで良かったのよ…。
美香が必死で自分に言い聞かせた。
肩の力が抜けた瞬間、また勢いよく電話が鳴り響く。
美香は受話器を取れずに電話の前で立ちすくんだ。
異変に気が付いた優がふすまを開けて声をかける。
「美香ちゃん……」
美香は振り返り数歩進み努めて明るく報告をする。
「優くん、うちたった今達也さんと別れた」
「ああ?」
「達也さんと別れた。でもこれでええの。別に結婚する相手でもないし」
そうか…。結婚する相手でもない。
口を突いて出た言葉が妙に美香を納得させた。
結婚しないならば遅かれ早かれいつかは別れる。その時が今、訪れたのだ。
初めて付き合った人と結婚する人なんて そんなにいないはず。誰もが一度は別れたりする。だからショックを受ける必要もない。恵ちゃんだってウッチーと別れてしまったではないか。でも元気だ。
加代子ちゃんは好きな人の子供を堕ろした。それでも今は…元気に見える。
うちだってきっと大丈夫。
優は別れた理由も聞かずに再び自分の部屋のふすまを閉めた。
その後も電話は数回鳴り響いた。
達也は今までにない喪失感を覚えていた。
揺らぐことがないはずの関係が一瞬で揺らぎ崩れ去ってしまったのだ。
あの日、事務所側の主催する接待でコンパニオンとしてプルメリアの女の子数人を社長が呼んだこと。
達也はかなり飲まされて、奈津美が達也をマンションまで送りそのまま一夜を過ごしてしまった。
でも達也には奈津美を抱いた覚えはなかった。
しかしながら美香の信頼を失ってしまったことだけは現実で、そのことが悔やまれてならなかった。
何度か話そうと大阪のアパートに電話をかけても彼女は決して電話口に出ようとせず優が達也に同情するほどだった。
プルメリアに行っても形式上 美香が席につくものの彼女は一環としてその態度を変えないしその心が達也の元へ帰ってくる事はなかった。
若葉が芽吹くいい季節なのに何もやる気になれず、夏のツアーに向けて体力作りに打ち込む時期なのにどこか心ここにあらずだった。
目を閉じて浮かぶのは大阪の景色と美香ばかりで苦しかった。あんなにずっと一緒にいてこれからもずっと一緒にいるものだと思っていた。それが当たり前だったのに。フリーになった美香を手に入れたい男がうようよと寄って集る(たかる)のだろうか?自分しか知らない彼女が誰か他の奴のものになってしまうのだろうか?らしくない変な想像ばかりしてしまう。
その頃から週末にプルメリアへぱったりと行かなくなり、しつこくかかってくる奈津美からの電話も取らなかった。
「ずっと会ってくれないならファンに色々ばらしちゃうぞ(笑)なんてね…」
携帯の留守番電話に吹き込まれた小さな脅し。奈津美は銀座の女…。どこまでもスマートで強かなのだ。
達也はチクチクと絶えず痛む胸と何をしていても切なくてやり切れない思い。それから逃れるかのように奈津美とついに関係を持ってしまった。
奈津美は密かに満足げに微笑む。
そう…一度でも私を抱けば、きっと貴方は私から離れられないわ…。
初めから愛して下さいなんて言わない。でも私なしでは生きてゆけない、そういう貴方が欲しい。
よく伸びる歌声と背が高くて細いシルエット、タバコにライターをつけるしぐさ、無邪気な笑顔に関西弁まで…達也の全てが、存在が、愛しかった。
同時にその達也しか知らない美香が憎らしくてたまらない。