誕生日
通学時に薄手のトレンチコートを羽織るようになり10月。美香の誕生日だった。
19歳。十代最後の一年…。
今年こそもっと心の強い自分になりたくて、泣き虫を卒業したくて。
どんなことが起きても乗り越えられる人になりたい。
それはほぼ毎年誕生日を迎える度に、新年を迎える度に胸に抱く抱負だった。
大学のキャンパスの自由な環境にもだいぶ慣れ、高校までのような子供っぽい 外見に対する興味だけで人をじろじろと見られるような不快感からも解放されつつあった。
一方、週末の銀座で若い美香に求められるのはその容姿。
誰も小娘に会話のたしなみなど期待していない。艶やかな肌で、きらめく瞳で非日常を提供するのだ。仕事でのストレスも妻子の存在もしばし忘れて男としての本能を誰も邪魔されずに丸出しにできる空間と時間を切り売る。
たいていの男は女が好きなのだ。いい女がいれば当然色んな事を期待してしまう。そしてゴールはみな同じ。余力がある男は生き美品を囲う。悲しい事に 組み込まれている遺伝子は自分より一回りも大きい雌鳥の前で一生懸命に求愛ダンスをする雄鳥と本質的には変わらないのではないだろうか。
祐介は彼女の誕生日ティファニーの指輪を用意していた。
バブル期ピークとはいえ、この日の為にバイトを頑張り、学食をパンだけで済ませてせっせとお金を貯めた。
慎重に指輪を選ぶあまりに購入に至るまで3回もティファニーに足を運んでしまったし、渡す瞬間まで彼女が本当に喜んでくれるか心配と緊張でいてもたってもいられなかった。
ずっと美香を連れて行きたいと思ってた高級レストランに予約を入れる。
その日の為に自分の洋服も買いたかったが指輪と食事で予算がギリギリで買えなかった。せめて一番気にっているのを着ていこう…。
最初に一緒に出かけた時と同じように淳史のBMWをピカピカに磨き上げる。
そして日曜日、夕方6時半にホテルのロビーで待ち合わせをして、予約を入れたフレンチのレストランで食事をする流れ。その後の事は未定だった。たぶん、そのまま美香をホテルに送り届けて 僕は家に帰る。
6時きっかりにホテルの駐車場に着いてしまった祐介はレストランで食事をする。頼んだケーキと花が出てきたらプレゼントを渡す。たった3つの行動を何度も何度も頭の中で組み立てた。
ロビーに着いたのは6時20分。
座り心地が最高な椅子を味わう心の余裕もなく腰掛け、美香を待った。
数分後、美香が現れる。ピンク地のヴィクトリアン調の花柄の割とタイトなワンピースに黒いカーディガンを羽織り、おそらくシャネルであろう黒いエナメルの小ぶりなバッグ。
控えめに付けている香水がかすかに漂う。
「お腹すいてる?」
祐介は緊張していて運転中にそんな事くらいしか聞けなかった。
この日のためにフランス料理が分かる本を買って毎晩読んだし、美香が好きなシャンパンも聞き出した。たぶん準備はしすぎるほどにした。
だから後は自信をもって彼女が楽しい時間を過ごせるように、誕生日を一緒に過ごす人が僕で良かったと思ってもらえるように。
マーメイドのあらすじは……
きれいなんだけど悲しすぎるよ。
僕はハッピーエンドが欲しい。まだ一度も自分の人生に訪れた事のないハッピーエンドが欲しい。
祐介はこの夜ばかりはハッピーエンドにひどく執着した。
レストランで見る美香の笑顔は とてつもない幸せな気持ちを祐介に運んでくる。
生きてて良かったと心から思えそうな そんな瞬間だった。
彼女に会ってからシャンパンは特別な飲み物になった。
やがてケーキと花束が出てくるタイミングを迎え
近くのテーブルの人、数人の視線を浴びながら
緊張で心臓が飛び出しそうなまま用意していた指輪を渡した。
美香の目が潤んでいる。
緊張のあまり自分の目が涙目だから彼女の瞳が潤んで見えるのか?
「ホンマに幸せ…」
美香はつぶやいた。
僕の方が何万倍も幸せで声をあげて泣きたい気持ちだよ…。
口に出しては言えないけれど、本当においおいと声に出して泣きたいほどの忘れられない夜だった。
最終便の新幹線で大阪に帰る彼女を駅まで送り届け、祐介は車を発進させる。
好きな人を喜ばせる事がこんなに幸せなんて…
今まで想像した事もなかったし 想像がつかなった。
流行のラブソングの意味が本当に分かり過ぎるほど分かるような…
今夜の風は寒涼しくて秋も中盤に差し掛かってると祐介に意識させる。
大学の長い夏休みも終わり明日から後期が始まる。
またバイトだって頑張りたいし、授業だって真面目に出よう。
祐介は希望で溢れていた。
いつも帰宅する度に嫌悪感を抱かざるを得ない
ずっしりとした純和風の門や松の木、玄関に飾られている象牙や木彫りの像を見ても
今夜は気にならない。
この家が嫌いだ。嫌いでたまらない。
こんな家に、こんな悪党の息子として生まれた事が嫌でたまらない。
そんな思いからも一時解放されていた。
廊下を通って階段を上がり自分の部屋に行く途中、淳史にカギを返そうとしたがいなかった。
さっと風呂に入り、再び自分の部屋に戻った祐介はベッドの上に寝転びながら
カーテンを揺らす涼しい風を仰ぎながら奇跡的に自分に振り向いてくれたマーメイドの事を考えていた。
彼女は僕の全て。
僕はずっとずっと寂しかったのだ。
親父は自分の様にたくましく成長してゆく淳史の方を虎の子同然にうんと可愛がり 弱虫で何でも中途半端な僕の事は正直、失敗作だと思っているのを知っている。
絶えず施設に預けようと検討されていたし、酔っぱらった継母に大事なところを指で笑いながら思いっきり弾かれていたずらされた。声変わりが始まった時は「いっちょまえに男になってきやがったの(笑)あそこはまだ皮かぶりなわけ?アハハハハ」と甲高い声で笑いものにされた。
祐介は深く傷ついたとともに自尊心が大きく失われた。
誰にも好かれない存在で 自分がどうしてこの世に産み落とされてしまったのかと思えば思うほど辛くて仕方がなかった。
生きる意味が分からないし、生きている価値がない。
生まれてこない方がいい、存在しない方がいい命って絶対にある。
自分を産んで欲しくなかった…。兄さんだけで良かったのに…。
文字通りいつも絶望の思いに付きまとわれていた祐介は美香と付き合って本当に変わった。
自分がどう生きたいのかという事が少しずつ、確実に見えてきているのである。
大学生活の新しい風の中で抱いた淡い希望は明白なものへとなり
自分の気持ちがこんなにも前向きなのは初めてで そんな自分に驚いている。
目を閉じれば今夜見た美香の姿が脳裏に浮かぶ。
彼女は自分が最も巡り会いたかった優しい女の人。想像の中だけに存在していた人だった。もうこういう人には二度と会えないだろう…。




