無音の連弾
一
ゆっくりと、静かに、鍵を弾く。
友人のつてで安く譲ってもらった、しかも普段申し訳程度にしか手入れをされていないアップライトピアノは、相応の安っぽくて聴くものが聴けば調子はずれだとわかる音でそれに応えた。
どうにも魅力を感じない音だった。われながらいやになる。
もっとも、弾いているのは、童話を題材にした連弾曲の第二奏者のパートだ。メインの第一奏者部分抜きなのだから、映えないのは無理もないが、それにしても。
――そろそろ調律をしなければ格好がつかないな――
エルヴィン・ボルツマンは寝起きのままとわかるボサボサの赤毛をかきあげながら、胸の内で呟いた。
ちらりと部屋の奥のドアに視線を送る。
ドアの向こうは地下へと続く階段となっており、そのさきの半地下室は、一介のピアノ教師には分不相応とも言える名のとおったメーカーのコンサートグランドピアノが鎮座しているはずだった。かつて同棲していた女性とふたり、借金をしてまで手に入れたものだ。
そのピアノなら少しはましな音を出せるかもしれない。そう思いつつもエルヴィンは相変わらず調子はずれのピアノの弾き続ける。
平日の昼下がり。近所の子供達はまだ学校だろうし、親たちは仕事で出かけている。家にいたとしてもわざわざどこからか聞こえるピアノの音に耳を傾けるものずきなど、このあたりにはいない。まして、都心の住宅密集地ではないから、隣家とは充分に距離がある。注意して聴かなければわからないくらいの微妙な音程のずれに気づくものなどいないだろう。
しかし。
エルヴィンはため息をつく。
たとえ相手が小さな子供達であったとしても、ピアノの先生には違いないのだ。調子はずれのピアノをそのままにしておくわけにもいくまい。どんな親だって音に無頓着なピアノ教師に子供を預けたいとは思わないだろう。
本来の重さを超えて指に抗う鍵盤に根負けし、エルヴィンは腰をあげた。
簡単な調律なら自分でもできるが、昨日の酒が残っていることもあり、気乗りがしなかった。このところ少し酒が過ぎるようだ。
風にあたろうと窓を開ける。
冷たい風が頬をなでて気持ちがいい。
まずはひげでも剃ろうかと、大きくのびをした瞬間だった。
庭の柵の向こうでこちらを見ている少女と目があった。
少女が待ちかねたかのように微笑みかけてくる。
細身で、緩いウェーブのかかった蜂蜜色の長い髪を無造作に背中に垂らしているきれいな娘だった。清潔そうな白いブラウスにワインレッドのタイ。黒のスカートがよく似合っていた。年頃の娘らしく、サファイアのような青さの瞳は怖いもの知らずの自信に満ちあふれている。いくらか大人びた表情を浮かべているが、おそらく歳は十代後半といったところだろう。
こちらが声をかけるよりはやく、少女は大きなキャリーケースを引っ張りながら門をまわり、庭へと足を踏み入れた。
「こんにちは、ミスター」
スカートをつまんで優雅に挨拶をしてみせたのは、昼を過ぎてもひげ面でいるだらしない男への皮肉だろうか。
「やあ、こんにちは、レディ。見ない顔だね。旅行かい?」
「ええ。そんなとこ」
「ふうん。で、なにか用かい?」
「いいえ、あなたがわたしに用があるんじゃないかと思って」
「ぼくが、君に? へえ。なんの用だろう」
内心訝しみながらも、顔には出さずに愛想よく答える。まさか旅費の足しにするために、娼婦まがいのことでもするというのだろうか。たしかに見目のよさは認めるが、感心はしない。それとも、掃除洗濯などで駄賃を稼ごうといったところか。それくらいなら頼んでもかまわないが。
しかし、少女はキャリーケースから音叉を一本取り出し、口にくわえてみせた。
「わたし、調律師なの」
そして、いたずらを成功させた子供のような目をしながら続ける。
「わたしに、用があるでしょ?」
やられたな、と思った。
耳のよさを売り込むには、最良のパフォーマンスといえるだろう。
エルヴィンは両手をあげて降参の意を示した。
二
「あら、エルナのコンサートチケットじゃない。やっぱりいくわよね」
テレーゼと名乗った少女は、部屋に入るなりテーブルの上におかれていたそれを目ざとく見つけ、しげしげと見入った。勝手に触れないところに、他人の家で仕事をすることに慣れていることが見てとれる。小遣い稼ぎの雑な仕事をするのだろうと予想していたテレーゼへの評価を幾分上方修正しながら、エルヴィンはチケットを見やった。
一週間後、今や世界的な評価を受ける若手女性ピアニスト、エルナ・アッヘンバッハがこの街でコンサートを開くのだ。
かつてこの街に存する音楽大学でピアノを学んだエルナにとっては凱旋コンサートということになるだろう。
最近スランプ気味だといわれているが、ダイナミックな演奏と金色のショートヘアが似合う美貌で人気が高く、普段はクラシック曲など聴かない人間もエルナのピアノには興味を示すことから、通常のコンサートでもチケットを手に入れるのが難しい。まして今度のコンサートは地元だ。いちぶでは相当のプレミアがついて取引されているという。
「なに、ピアノ教師なんかしてるとつきあいでチケットを捌かなきゃいけないのさ。一応自分用に一枚残しておいたけど、欲しければあげるよ。大学時代の恩師や同級生もいくらしいんだが、あまり顔をあわせたくないし。ああ、でも、旅行で来たってことは、この街にはそんなに長くいないのかな」
「一週間後ならまだいるけど、遠慮するわ。ちょうどその日に仕事が入ってるのよ。それにしても、もったいないこと言うわね。エルナのチケットは手に入れるのが難しいのよ。無理してでもいけばいいのに」
「そうだな。いけたらいくよ」
「ふふ、なんかいきそうもない感じだなあ。ま、いいけど。じゃ、さっそくだけど、ピアノさわってもいい?」
「もちろん。安物で申し訳ないけれどね」
テレーゼは肩をすくめた。
「一流メーカーのものじゃないけど、造りはしっかりしているみたいだし、安物というのは言い過ぎじゃない?」
「そうかい? 友達が楽器屋に勤めててさ。安いのを見繕ってもらったんだよ」
「いい友達ね。大切にしないと」
鍵盤蓋を開けながらこちらを見もせずにそう言ったテレーゼが、慣れた手つきで鍵をひとつ弾く。先ほど自分が弾いた音とはまるで違う、雲ひとつない空を思わせる、すみきった音が響き渡った。
エルヴィンは思わず声を漏らした。
ピアニストの音だった。
ピアノは音を出すだけなら赤ん坊でもできる。同じ鍵を押せば,子供だろうと大人だろうと同じ音が出るのが道理だ。しかし、ひとにぎりの人種は同じ鍵を押しても、根本的に違う音を響かせることだできる。それがピアニストだ。
「君は、演奏家でもあるのか?」
やっとのことで、声を絞り出す。
「まさか。演奏者なら手を大事にするでしょ? 調律師なんてやってるはずないわ」
「だが、君の音は……」
「目指したことはあったけど、やめたの」
「どうして? それだけの音を出せるのに」
「大勢の前で弾くのが苦手だから」
テレーゼは恥ずかしそうに笑った。
自分を売り込んでみせた時の大胆さとのギャップがあるせいだろう。その様子は、エルヴィンの目にはひどく初々しく映った。
「それこそもったいない話だな。それだけの音を出せるのに」
「並のピアニストなら出せる音よ」
「なら、ぼくは並のピアニスト以下ってことになるな。まあ、しがないピアノ教師に過ぎないからしかたないけどね」
「あなたなら出せるでしょう?」
「いや、無理だよ。ぼくの演奏を聴いただろ? あの安っぽい音がぼくの音さ」
「いいえ、出せるはずよ」
「ばかな。初対面の君に、どうしてそんなことがわかるっていうんだ?」
「わたしは調律師だもの。ピアノをさわれば、持ち主がどんな音を出すのかわかるわ」
テレーゼの揺るぎない瞳に、言葉を失う。
「昔は出せたはずよ。きっと今は出し方を忘れているのね。それとも、出したい音が見つからないといったほうが正しいかしら」
たしかに、昔はましな音が出せていた。
一流のピアニストには遠く及ばないが、自分らしい、自分だけの音を持っていたはずだ。
その音を少しずつ失っていったきっかけは、同棲していた彼女がこの家を出ていったこと。いや、それよりも前、小さな喧嘩が続いて愛情のないキスをするようになったあたりに探すことができるのかもしれない。
原因は間違いなく自分にある。才能を開花させ、ピアニストとしての道を切り開いていく彼女に嫉妬したのだ。
「わたしがあなたの音を取り戻してあげる」
テレーゼが厳かに言い放った。
その声音は、期待を抱かせるような、不思議な響きを帯びていた。
「調律なんかで、そんなことが――」
「そのかわり、条件があるわ」
「条件?」
「ええ。下の半地下室に、コンサートグランドがあるわね。それも仕事させてほしいの」
庭にまわった時、採光のための高窓から見えたのだろう。しかし、なんのためにそんなことをするというのか。金を稼ぎたいという様子には見えないが。
「もちろん料金はいらないわ。こっちがお願いするんだから。わたしみたいな流しの調律師が一世紀以上前のベヒシュタインをさわれる機会なんて、ほかにないもの」
じっくり見たわけでもないのに、件のピアノの素性を見抜いたらしい。
「気持ちはわかるが、あのピアノは誰にもさわらせたくない。特殊な調律がしてあってね……それをかえたくないから。ほかの調律師にだってさわらせてないんだ。掃除だけは自分でしているけど」
「ずっとそのままにしておく気?」
「あのピアノは預かりものなんだ。だからぼくが勝手に調律師を頼んでいじらせるわけにはいかないよ」
実際、借金のほとんどは彼女が返したようなものだから、彼女のピアノと言っていい。
しかし、彼女はそのピアノをおいていってしまった。エルヴィンとの関わりすべてを断ち切る意志を表すかのように。
「預かりものなら、なおさら調律が必要でしょう? コンディションを維持する責任があるもの。きちんと調律をしないピアノの音は、どんどん狂っていくわ。いえ、ピアノ自体がだめになっていくのよ。わたしはそんなのいや。作り手が精魂こめてつくりあげて、弾き手がその性能を余すところなく生かして曲を奏でた、そんなピアノを朽ち果てさせたくない。ねえ、わたしならピアノにさわればピアノの主が求めていた音を感じることができる。あなたにこのピアノを預けた人にあわせて調律できるの。約束するわ。必ず今と同じ調律をするから、お願い」
テレーゼの、真摯な思いをのせた視線が、建前という鎧を貫いてエルヴィンの胸を鋭くえぐる。所詮偽物の言葉は、本物の気持ちがこめられた言葉にはかなわないのだ。
エルヴィンは鎧に穿たれた穴からほとばしる感情の奔流に、それを思い知る。自分が調律師を頼まなかったのは、あれが彼女のピアノだからではない。
あれが彼女と自分のピアノだからだ。
調律を施すことで、ふたりのピアノが自分ひとりのピアノになってしまうのが怖かった。
彼女と自分の痕跡が刻みつけられたままにしておくことで、彼女との糸がまだつながっていると信じていたかった。
いつか彼女が帰ってくるという未練の重みを負わせることで、ピアノの命を削っているという罪から目を背けつつ。
そんな哀れなピアノを、テレーゼは救ってくれるというのか。
「本当に――」
自分でも呆れるほどに弱々しい声だった。
――やれるのか?
その言葉を続けることすらできない。
即座に、答えがきた。
「本当よ」
それは、エルヴィンに心を決めさせるほどの、力ある言葉だった。
三
翌日、昼から夕刻へと時が移ろいつつある頃、生徒へのピアノのレッスンを終て帰宅したエルヴィンは自宅のドアノッカーを叩いた。
久しくしていなかったことだ。
自宅に入るのを誰かに知らせるなど、中で待っているものがいなければする必要はないのだから。つまり、彼女が出ていって以来ということになる。
懐かしさと寂しさを同時に感じながら、ドアノッカーから手をはなした。
もう片方の手にはパティスリーで買ったクグロフを携えている。自分は白ワインとあわせようかと思っているが、テレーゼはコーヒーか紅茶だろう。
結局、二台のピアノとじっくり向きあいたいというテレーゼの意を酌んで、今日一日を使って調律をしてもらうことになったのだ。ちょうど午前と午後一件ずつレッスンが入っていたから、留守番を頼みがてらということになる。知りあったばかりの人間を留守宅にあげることにためらいはあったが、テレーゼのピアノへの情熱が本物だという確信もあったし、仮にテレーゼが自分を騙している泥棒かなにかだったとしても、盗まれて困るようなものはとくにない。価値あるものはピアノだけだ。
ほどなく、はーい、というよそいきの声とともに、足音が近づいてきた。
テレーゼだ。
どうやら信用したことは間違いではなかったようだ。
と、ドアが開けて顔を出したテレーゼに、思わず息をのんだ。
一瞬、出ていった彼女と錯覚したのだ。
テレーゼは長い髪を三つ編みにして、さらにそれを折りたたんで頭の後ろで固定していた。それでぱっと見にはショートヘアに見えたのが原因だろう。調律をする際に邪魔にならないための配慮に違いない。
服装はやはり動きやすそうなデニムのサロペットスカートに、ボーダーの長袖シャツをあわせ、袖をまくっている。
「あら、おかえりなさい。ちょうどよかった。今片付けが終わったトコよ」
「ただいま。二台とも終わったのかい?」
「もちろん。アップライトはあなたが自分の音を取り戻すための調律を、コンサートグランドは今までどおりの調律を、間違いなくしておいたわ。手を抜いたりなんかしてないから心配しないで」
「それは信じてるよ。でも、だからびっくりしてるんだろ? まさか休みなしでずっとやってたのか」
「ええ。気分が乗ってる時は一気に済ませたほうがいいのよ。でも、朝からなにも食べてないから、ちょっとおなかぺこぺこ。なにか食べるもの恵んでくれると嬉しいかな」
言いながら、テレーゼは恥ずかしそうに腹をさすった。休憩もとらずに調律に集中している様子を想像すると、ギャップが面白い。
それを微笑ましく思いながら、クグロフの入った包みを掲げて見せる。
「甘いものでいい?」
「大歓迎よ」
「じゃあお茶を入れるよ。その間にシャワーでも浴びてきたら?」
「……ごめん、汗臭い?」
テレーゼは自分のにおいを確かめている。
「ああ、いや、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。ずいぶん頑張ってくれたみたいだから、もしよかったらと思ってね」
「うん、ありがとう。でも、あとでホテルに帰ってからにする。そのかわり、お茶とお菓子はたっぷりごちそうになるわね」
たしかに、よく考えれば昨日あったばかりの男の家でシャワーを浴びるはずなどあるまい。自分でもよくそんなセリフを吐いたものだと、内心赤面した。出ていった彼女との錯覚がまだ続いているのかもしれない。
「じゃあさっそくお茶にしよう」
エルヴィンは照れを誤魔化すようにクグロフをテレーゼに手渡し、上着を脱ぎながらキッチンに向かった。
鍵盤の蓋を開け、ひとつ深呼吸をする。
テレーゼの言を信じるならば、このピアノを弾くことで自分の音を取り戻すことができるらしい。果たしてどんな調律を施したのか。少なくとも、単に音の響きをよくしたということではないと思うが。
エルヴィンは、背後で立ったままお茶をすすっているテレーゼをちらりと見やった。
当の本人は、ピアノのことを忘れてしまったかのように、ニコニコと笑っているだけだ。さっき食べたクグロフのことでも思いだしているのだろうか。
まあ、悩んでも仕方がない。弾いてみればわかることだ。
「じゃあ、弾くよ」
「ええ。納得してもらえるといいけど」
うなずいて目を瞑り、右手を鍵におく。
いったいどんな音を聞かせてくれるのか、期待に胸を膨らませながら、人差し指で、鍵をひとつ弾いた。
ことん――。
鳴ったのは、短い、くぐもった打音。
なにが起こったか理解できず、ふたたび同じ鍵を弾く。
ことん――。
鍵が下のフェルトにあたった音だ。
間違いなく、ハンマーは弦を叩いていない。
確認のため、両手の指で簡単だが音域の広い練習曲を弾じる。
こととんことととん――。
どの鍵も、ピアノが奏でるべき本来の音を響かせることはなかった。
ゆっくりと振り返り、テレーゼを見る。
笑っていた。
しかし、さっきまでのニコニコといった感じではない。魔女のごとき、妖艶な微笑みだった。誤魔化している様子はない。
音が出ないのは手違いだとかそんなことではなく、意図的と言うことだろう。
真意を尋ねる。
「これは?」
「イメージなさい。あなたの弾きたい音を」
「ピアノが出す音を頭に浮かべて弾くトレーニングをしろっていうのかい?」
「違うわ」
テレーゼが歩み寄り、エルヴィンの左側に立つ。
「ピアノが出す音じゃなく、あなたが出したい音を頭に浮かべるのよ。今のあなたには出したい音がない。だからあなたの音が出せないの」
エルヴィンは、気圧されるようにイスから立ちあがり、右にずれてテレーゼを見つめる。
テレーゼはそれを待っていたかのように、立ったまま鍵を弾いた。しなやかで、躍動感のある指の動きだ。思わずみとれてしまうほどの優雅さだった。
刹那、衝撃がエルヴィンの体を走り抜ける。
会ったばかりのテレーゼが聞かせてみせた、雲ひとつない空を思わせる、すみきった音がエルヴィンの心の中に響き渡ったのだ。
曲目は、モーリス・ラヴェルのピアノ連弾組曲『マ・メール・ロワ』。昨日、弾いていたところをテレーゼに聴かれた曲だ。その、エルヴィンが弾いていたパートを、テレーゼが弾いている。シンプルだが美しい旋律が、歌わぬピアノから確実に紡がれていく。
「さあ、あなたのパートが始まるわ。あなたの求める音を表現なさい、エルヴィン!」
なにかが、胸の内で弾けた。
自分の元を去っていった彼女、エルナ・アッヘンバッハとよく弾いて遊んだ曲。それがこの曲だ。互いに競うように、理想の音を響かせた。それぞれが目指す、自分の音を。
我知らず、エルヴィンの指は鍵盤の上で踊っていた。あの頃と同じ音が、テレーゼの音と重なり、ひとつの曲を織り上げていく。
「ああ……」
エルヴィンは声を漏らした。
なくしたと思っていたジグソーパズルのピースがひょっこり出てきて、なん年ぶりかで完成させたような充足感。
頬を熱いものが伝う。
しかし、それを拭うことすら忘れて、エルヴィンはテレーゼと共に無音の和音を奏でるピアノに挑み続けた。
四
恐る恐る、鍵盤に指を走らせる。
懐かしい、透明感のある音が半地下室の中に満ちあふれた。もちろん実音だ。
エルナとふたりで弾いていた頃と寸分も違わぬ音だった。ベヒシュタインは完全によみがえっていた。
あのあと、エルヴィンはテレーゼに促されて、コンサートグランドピアノに施した調律を確認するために半地下室に移動したのだ。
さすがに今度は音を出なくする調律ではなかった。
「いい音だ」
余計なことを省いて、ただひと言、テレーゼの仕事への評価を伝える。
先ほどのけれんみたっぷりの仕掛けから比べると些か拍子抜けするが、本命のピアノには余計な演出は不要ということかもしれない。
「地下室だから湿気を心配したけど、この部屋は大丈夫みたいね。ピアノの状態、そんなに悪くはなかったから調律も楽だったわ」
「ああ。地下といっても半分くらいは地上に出ているし、窓の前にスペースを設けているから採光も通風も充分なんだ。結露しそうな日は換気扇も回してたしね」
「でもねえ。いくら預かりものだとしても、時々は弾いてあげないと。ピアノだって歌い方を忘れちゃうでしょ?」
うまい言い方をするものだ。たしかに、自分の未練を埋めるためにピアノから歌声を奪うのは、ただの身勝手というものだろう。
「面目ない」
「せっかくだからもう少し名器の音を聞きたいわね。そうだ、ふたりでさっきの『マ・メール・ロワ』を弾きましょうよ。今度はパートを入れかえて」
「ふーん。いいね、それ」
「じゃ、イスをとってくるわ」
テレーゼは階段を駆けのぼっていった。
アップライト用のイスを持ってくるつもりのだろう。階段下の収納スペースに予備のイスがあるのだが、言う暇がなかった。戻ってくるまで、なにか弾いていてもいいのだろうが、なんとなく、指を鍵盤からおろした。
思わぬおあずけをくってしまったが、それくらい我慢しなければなるまい。自分は、もうなん年もピアノを待たせてしまったのだから。
「ねえ、ただ弾くんじゃ面白くないわ。目を瞑って弾きましょう。そのほうがピアノの音を純粋に楽しめるもの」
テレーゼは戻ってきてイスをおくなりそう言い放った。
そういう遊びはあまり好きではないが――。
「仰せのとおりにするよ。ぼくの音を取り戻してくれた天才調律師さんの提案だし」
言われたとおり、手を鍵盤においてから目を瞑る。
「瞑った?」
「ああ。ちゃんと瞑ったよ」
「わたしも用意するからちょっと待って」
少し間をおいて、となりのイスがぎしりとなった。
「じゃ、いくわよ。頑張ってね」
テレーゼが耳元で囁いた。
応援はありがたいが、もう自分の音をイメージできる。心配には及ばない。エルヴィンは自分の音で、自分のパート、第二奏者のパートを奏で始める。
そして。テレーゼの第一奏者のパート。
皓月に照らされた湖水のごとき底知れぬ深さを持った音が、エルヴィンの音に重なる。
――これは――
エルヴィンの手が震える。
――この音は、この音を出せるのは――
目を見開き、となりに視線を送った。
そこにいたのは。
「どう? 久しぶりに効いたエルナの音は」 背後から、テレーゼの声がかかる。
「……世界の音だな。だけど、少し濁りがあった。で、どういうことかな、これは」
「わたしが頼んだのよ、エルヴィン」
答えは、となりで懐かしむように鍵盤に触れているエルナの口から帰ってきた。
「そうか。スランプだと聞いたけど、このピアノなら昔の音を出せると思ったわけか。もちろん持っていってかまわないよ。これは君のピアノだ」
エルナは寂しげに目を伏せた。
「エルナはそんなつもりで来たわけじゃないのよ、エルヴィン」
「じゃあなんのために来たっていうんだ?」
「あなたに会うために決まってるでしょ?」
即答だった。エルヴィンは答えに詰まる。
そこに、静かな声が割って入った。
「あなたに謝りたかったの。エルヴィン」
つくったような笑顔で、エルナが続ける。
「ずっとずっと、謝りたかった。わたしの身勝手さが、あなたを深く傷つけたことを。この、ふたりのピアノを大切にしていてくれてありがとう。でも、これはもうあなたのものよ。これからも大切にしてあげて」
そこまでが精一杯だったのだろう。エルナはなにかをぐっと呑み込み、無言でイスから立ちあがると、ふり返ることなく部屋をあとにした。
「それでいいの、エルヴィン?」
テレーゼが静かに問うてくる。
「……君はいったいエルナのなんなんだ?」
「調律を頼まれたのよ」
「仕事を逸脱してないか?」
「いいえ。いくらピアノを調律しても、それだけでは最高の音を出してはくれない。弾き手のコンディションを整えないと、ピアノは応えてくれないの。そこまでするのがわたしの調律師としての仕事よ」
やはり調律師の分を越えている。
「それで、ぼくにどうしろと」
「それはあなた次第ね」
「ぼくに押しつけるのか? 無責任だな」
「そうかしら。このピアノを誰にも触れさせなかったのはなぜ?」
「それは……預かりものだから」
「うそね。このピアノ、高音部はエルナ向けの、低音部はあなた向けの調律が施されてた。それをかえられたくなかったんでしょ?」
答えるかわりに、エルヴィンはテレーゼから視線をはずした。
「このピアノが最高の音を奏でるには、あなたとエルナ、ふたりがそろわなきゃいけない。わたしにそんな調律をさせた責任をとってよ」
テレーゼは一枚の紙片を差し出した。ホテルの名前と部屋番号が書かれていた。
「ここにエルナが……けど、今さらやりなおせるとは……」
「人と人との関係なんて、連弾と同じみたいなもんじゃない? 音を重ねるのと同じように、あなたとエルナの心を重ねればいいのよ。イメージなさい。ふたりの心が重なるところを」
傲慢な調律師がいたものだ。
最高の音を求めるがゆえに、別れた男女に復縁を迫るとは。
それでも、エルヴィンは重い腰をあげた。
〈了〉