極上な女
『すげえ女』の続編。
今回も視点は男性です。
三十六年間生きてきて、この女ほどいい女に出会った事がない。
それは今現在も継続中で、きっと変わる事はないのだろう。
「社長、今日の予定です」
「ああ、わかった。資料に目を通したらすぐ向かう。車の手配を」
「わかりました」
手元にある資料をざっと目を通す。本当に目を通すだけだったのが、その一瞬の間でもアメリカ本社が何故この会社を買収したのかが引っかかった。
社が裏で買収工作をしていたと噂されていた時期の業績はそう悪くなかったのにはずなのに、本格的に買収し始めた頃に入って急に悪くなった。特に開発部門は業界最大手だったはずが一気に悪化し、その隙を食いつくすように第二位だった会社が急転、今や完全に買収先はその業界第二位だった会社にトップを譲り渡した。
一体何があったのか謎は深まるばかりだったのだが、その買収先の会社の内情は正直最悪と言っても良かった。
専務が横領で起訴、そればかりではなく暴行罪でも訴えられている。また、社の女子社員も名誉毀損と窃盗などの罪状で訴えられ、あろうことか企画課は全く仕事が回っていないらしい。
詳しい事はこの資料に書かれていなかったが、社に赴けば少しは詳しい事がわかるだろう。
今から問題の会社に行って、過剰な人員やなにやらを査定しなければいけない。無駄だと判断された者には容赦なく解雇を通知する。海外にある本社から依頼されたものだったが、正直憂鬱の一言に尽きる。これから人間の汚い部分を見なければいけないと思うと気が重い。とは言え、それが仕事なので気安いところは見せられない。
一つ息を吐き、腰を上げて掛けてあったスーツの上着を着て待たせてあった車に乗り込んだ。
買収元の会社からわざわざ日本支店の社長である俺が来るのは通知されていたはず。エントランスを一気に抜けようとすると、焦った受付が止めようとした。俺が来る事の連絡が行っていないのかと呆れると同時に、彼女達の浮ついた顔を一瞥しリストラ対象に組み込んだ。
使えなければ切るだけ。使えない人材は会社には必要ない。
秘書達が受付に一言二言言ったのを確認すると同時に、エレベーターに乗り込み社長室まで昇った。
買収されて真っ先に不要になったのはここの社長ではあったが、それでもまだ残って貰っているのには理由があるらしい。本社のCEOの決定だというので覆すことが出来ないが、まあ彼には彼なりの考えがあるのだろう。それに社長に聞かなければいけないことがある。何故こんなにも一気に業績が悪化したのか。その原因を知らなければならない。会社の運営そのものに影響するようなものが見つかったのなら、会社ごと売却し、その資金を回収しなければいけないからである。
資料を見た限りでは判断がつけ難いため、社長に聞こうと思って自ら赴いたのである。
社長室に向かうとその椅子には一人の疲れた男が座っていて、俺が来たことがわかると席を立った。
「やあ、来たか」
「お久しぶりです。早速ですが、私が直々に来た事の意味をわかっていらっしゃるとお思いですので、手短に。何があったんです」
「……一人の女性社員が退職したんだ。それが全てのきっかけだ…」
「女性社員?私の元に届いていた資料には書かれていませんでしたが」
「…ロバート・スタンフォードの娘…彼女がこの会社にいたんだ」
ここで聞くと思わなかった名前に思わず瞠目する。
彼女が発端。それを考えれば、なるほど、この会社に起きた事も当然と言えるのかも知れない。
そして、本社がこの会社を買収したのも頷ける。CEOが会社ごと欲しがっている彼女を買収したのだろう。ただ、その彼女は手が伸びる前にスルリと罠を潜り抜けてしまっていたが。
そして、CEOだけではなく、俺も彼女を欲してる。
佐藤衣里。
本名は衣里・スタンフォード・佐藤。
アメリカの不動産王、ロバート・スタンフォードの養子でありながら、彼女の亡き両親も十分有名人だった。父親は情熱的な演奏で聴衆を魅了してやまなかったバイオリニストだったし、母親は最年少でカンヌ主演女優賞を取った後、結婚し引退した今や伝説的女優。そんな彼等が衝撃的な事故死という悲劇的な結末を迎え、幼い娘一人を遺して逝ったというのは感傷的な話が好きな人々に取っては悲しい出来事であったのだろうが、結局は他人事。日々繰り返される毎日の日常の中、その悲劇的な話は埋没して行った。
俺が彼女に会ったのは、俺がまだアメリカの大学に在学していた時だった。
イエール大学に留学していた俺は、当時まだ若干十五歳という女の子、まあ俗に言う天才児と言われる子供と同じ年に入学する事になった。
彼女はいろいろと有名で、その中でも一番だったのはやはりロバート・スタンフォードの養子だという事に尽きる。不動産王でありながら、その血を引く子供がいないのが一番のネックだと思われていたスタンフォードが日本人の養子を取るだなんて事は驚くべき出来事であったし、その養子の子もまさか事故死したバイオリニスト達の一粒種だなんて思いもしなかった。
その時の彼女は今の無愛想な感じとは違って、年相応の可愛らしさを持った普通の女の子といった感じで、周りが自分より年上だという環境の中で物怖じせずの貪欲に知識を貪っていた。
俺と彼女が話始めたのは、俺が大学二年目、彼女は一年スキップした後。同じ年に入学した同級生が、まさか先輩になるなんて。まあ、それもアメリカか…と思いながらただ、同じ日本人同士と言うことで多少は気安く話しかけてきたと言う記憶がある。後に彼女に聞いてみたら「馬鹿っぽかったから大丈夫かと思って声をかけた」とのそっけない理由を聞かされたものだったのだが。
彼女と色々と話をして、まるで自分の妹のように付いて回るってくるのは純粋に可愛いと思ったし、日本に帰れない我が身を嘆くように、同じ日本人同士で話をした。彼女の頭の回転の速さに舌を巻く事も多々あり、年下の彼女と話すことは同級生に感じるような緊張感を孕みつつ、それでも普通に会話は出来た。
スタンフォードはなかなか勉強には厳しい人物のようで、語学やいろいろな経営理念や政治の世界の事など、要は自分が生きてきた道を養女である彼女にいろいろと教え込んだらしい。その難しい話も、知能指数の高い頭脳と持ち前のガッツでなんなくこなし、結局二年でイエールを卒業、その後はハーバード大に入学して行った。
そんな彼女を忘れ掛けていた時、再び彼女の名前が表舞台に立ったのは事件があったからで、その事件もまた彼女にとっては悲劇的な事故を呼んだ。
彼女がハーバードに入学して一年後、俺もまたハーバードのビジネススクールに通っている時に起きた彼女のレイプ事件。二人の若い学生が酔った勢いでそのまま彼女をレイプ、その後事件として立件されたのだが、犯人の男の母親という女に、証人として出廷していた最中の衣里が階段から突き落とされると言うセンセーショナルな事件が起きた。
当然スタンフォードの娘だと言うことでマスコミに執拗に追いかけられた彼女は、次第にその顔から笑顔を無くし、俺が再び再会した時には完全にその瞳からは人を信じるという感情が失われていた。
元々女優だった母親譲りの綺麗な顔に施された派手な化粧と、華奢な身体に似合わない露出の激しい服。
レイプ被害者の半数は男性恐怖症に陥り、その残りの半数が自分の身体を省みなくなる。彼女はまさにその後者だった。何人もの著名なカウンセラーに相談したらしいのだが、結局は二、三回通っただけで逆に頭の回転は早い彼女に食われたらしい。そんな荒れ果てていた時期に俺と衣里はあるクラブで会った。
「衣里、随分変わったな」
「そりゃあ変わるわよ。いろいろとあったからね」
自虐的に笑った顔には、憂いの色は無い。むしろ、そんな感情すらないのだ。
タバコを一本取り出して火を点けようとすると、彼女がじっとそれを見ていた。
「吸いたいのか?未成年は止めておけよ」
「あら、タカも随分と固い事言うのね。と言ってもここはアメリカだし、十八は過ぎてるんだからいいじゃないの。それに、ドラッグじゃないんだから問題はないんじゃない?ねぇ、タカ、吸わせてよ」
「…しゃーねぇ。バレてロブに叱られても知らねーからな」
「そうね。バレ無きゃいいのよ。ま、大学出たら日本に行くからそうそう何か言われると思って無いけどね」
そう言うと、俺の吸いかけを手から奪い取り徐に口をつけた。
煙を吸って、空気を肺に入れて。案の定、むせた。
「げほっ!ごほごほっ!」
「だから止めておけって言ったじゃないか。年長者の言う事は聞いておくもんだぜ」
「ごほっ!何が、ねんちょう、しゃよ!ごほっ!」
「衣里、無理すんな。ほら、ソーダでも飲むか?」
「い、らないわよっ!」
涙目になりながらも睨みつけている彼女がおかしくてしばらくからかっていると、帰る時間になったのか席を立ち上がった。
俺にとってはまだ早い時間なのだが、そんなところは流石にまだまだ子供。門限があるなんて、やはり衣里もガキだなと思ってやけに微笑ましく思った。
「お、帰るのか?」
「ううん、暇だから誰かとセックスしようかなと思って。ね、誰がいいと思う?妊娠しないから誰でもいいんだけど、さすがにHIVポジティブの人とか性病とか持ってる人は駄目なのよね。タカ、ゴム持ってる?」
「は?」
「何に対しての『は?』?」
くすくす笑っている衣里の顔が、年不相応の表情を作る。それは完全に女の顔だったが、絶対的に人間を拒絶した瞳をしているためにどこか虚ろに見えた。
目の前の二十歳にもならない子供から大人の女になりかけの、酷く不安定な時期にこうなる子がいないわけではない。しかしながら、昔から知っている彼女はそういう一夜限りの関係を結ぶような子ではなかった。
あの事件は彼女の中の『何か』を徹底的に壊してしまったらしい。
そう気付いたのは、俺がその一夜限りの男になってからだった。それから俺と衣里は定期的に会って、セックスするようになった。彼女にセックスを教え込んだのは俺。それを悪いとは思わなかったし、束縛もしなければ干渉もしない彼女との関係は酷く楽だった。妹だと思っていた衣里はいつの間にか女になっていた。
ただ気を付けたのは、やはりまだ子供だと言う事。いくら大人ぶったとしても実年齢はごまかせない。それに、あまり派手に遊んでいると養父母から色々言われるのではないかという危惧もあった。しかし、あの事件以降会話らしい会話が無くなったという話を彼女から聞いていたのだが、犯人をライカーズに送り込んだ辺りはやはり養女の事を大切に思っている証拠なのではないだろうか。
俺と衣里との関係は、彼女が日本に行くまで続いた。
派手に遊びまくっていてもさすがに勉強だけは疎かにしていなかったようで、イエールに続き、ハーバードもたった三年で卒業した彼女は取れるだけの学位を取っていたらしく、博士号や学士号を三つも四つも持っていた。そんな彼女を当然社会が放っておくはずも無く、古くからある格式高い大銀行や大手の証券会社、投資ファンド等々、はたまたFBIからも誘いがあったらしいが全て断って、一年アメリカで過ごし、それから前に言っていた通りにあっさりと日本へと渡った。
当時既に彼女が持っていた資産総額は1000万ドルを超えていて、その中には養父ロバートから譲られたマイアミとロサンゼルスのコンドミニアム、N.Yのマンハッタンにある高級アパートメントのペントハウスなどの物件と、高級車、更に不動産王ロバート・スタンフォードの推定相続財産60億ドルとも70億ドルとも言われる巨額の金が彼女に付きまとっていた。そんな事に振り回されるアメリカにいない事は彼女にとっては良かった事なのかも知れなかった。
アメリカの企業買収を主とする会社に就職して数年後年、出世頭になった俺は出張で日本に行く事になった。
その時、再び彼女…衣里と連絡を取った。
早いもので俺も三十の大台を超えたのだが、仕事で忙しく結婚はまだしていなかった。もっと上を目指すためには結婚して家庭を持っているのが条件だとわかっているので、早い所結婚でもしなければいけないと思ってはいたが、アメリカでもろくに女と続かない。まあ、それも俺の仕事がタイトすぎて一緒に過ごす時間が少なすぎると文句を言われて終わるのだが。
日本に来る前、衣里を襲った男がライカーズ刑務所で死亡したという新聞記事を読んだ。なんでも、囚人同士の諍いが暴動に発展した際に、同じ房の囚人に刺されて死亡したらしい。ついでに彼女を階段から付き落とした母親もドラッグの過剰摂取で亡くなったようだ。
衣里を取り囲むものの一掃。ゾッとしたのも束の間、さすがあいつだと思った。直接的に手を下してはいないだろうが、それでもここまで綺麗に片付けるのもあいつの運の成せる業。結婚するならあいつがいいかもしれない。
結婚すれば無条件で付いてくる財産、それにあの身体。最後に抱いたのが大分前だと考えれば、高ぶる気持ちと身体の反応も当然だと思える。
待ち合わせは某高級ホテルのラウンジ。都内の夜景が一望出来る見事な席だ。昔の事を考えつつバーボンを飲む俺は、入り口から現れた黒のドレスを身にまとった艶やかな女に目を奪われた。
衣里。
記憶にあるより更に美しくなった。どこか少女のような無邪気な雰囲気を持ちながらも、真逆であるはずのとてつもない色香を漂わせている妖艶な女になった。ラウンジにいた男からの好色な視線と、女達からの羨望と嫉妬の目線を真っ向から浴びて凛とこちらに歩いて来る彼女は確かに美しい。衣里の年はまだ二十代なはず、よくぞここまで色気を身につけたと嘆息する。
俺に気付いて赤い唇を上げると、さすが女優の娘だと関心するよりなかった。
「タカ」
「衣里、久しぶりだな」
「ええそうね。タカも随分といい男になったじゃない。男は三十超えると途端に色気が増すから羨ましいわ」
「衣里嬢に誉めてもらえるとは嬉しいね。元気そうだな、何飲む?」
「ドライマティーニを」
「シャンパンじゃなくていいのか?」
「なんでシャンパン?」
「俺と衣里の何年ぶりかの再会の祝い」
くすくす笑っている衣里の腰を抱いて席に案内すると、図ったようにカウンターに並んだマティーニとバーボン。それを持って乾杯して、一口ゴクリと飲んだ。
「随分と色っぽくなった」
「ふふっ、女はね、変わるのよ。知ってるくせに今更何を言うのかと思えば…」
「最後に会ったときよりも更に綺麗になったな、衣里」
「タカ、貴方もね」
他愛もない会話なんて本当にそんなもんで。取ってあった部屋に真っ直ぐ向かうにしても、エレベーターの中で我慢の限界なんて超えていた。
貪る様に、奪いつくすようなキスをして、部屋に着くなり彼女を抱いた。
やはり彼女の身体は極上で、それでいて淫らで。この女を抱いてからは他の女を抱けない。そんな錯覚すら受けるような、そんないい女。
夜半にまで及んだコトで、さすがに疲れ切った俺と衣里は二人で湯船にゆっくりと浸かっていた。前はセックス後にゆったりする事なんて無かったのだが、流石に俺も年を取り、こんな事もいいかもしれない。
湯気が立ち昇る中、衣里の甘い身体を抱き締め、それでいて彼女の身体を洗っていた。
「くすぐったい」
「綺麗にしなきゃな」
若いカップルのように戯れているのもいいかもしれない。年甲斐も無いが。
「衣里」
「なに?」
「結婚しないか」
「…タカにしては冗談が下手ね」
「本気だ。考えてみてくれ」
「タカ、私結婚する気ないの。それにね、子供が出来ない身体なのは貴方も知ってるでしょ?」
階段から付き落とされた直後、彼女が妊娠していた事がわかった。その胎児もろとも子宮が彼女から失われた。だから彼女が妊娠出来ない事も知っていたし、彼女の傷もよく目にしていた。だからこそ服を脱いでセックスしていたし、その傷跡も慈しむように指でなぞった。くすぐったかったのか、身を捩って後ろ向きだった身体を自分の方へと向けてきた。正面で見る衣里はやはり美しい。
「それでもいいって言ったら?」
「ふふっ、タカたら嘘が下手ね。ちゃんと言えばいいのに」
ロブの財産が欲しいって。
そう言って艶美に笑った彼女は、酷く淫らなキスをした。
結局、俺の結婚の話はなかったことにされ、そのまま何の約束も無いまま別れた。
アメリカに帰る直前に衣里から電話があった。もしかしたらと淡い期待を抱いて出たものの、内容は予想を裏切るものだった。
「貴方の会社のCOO、ジャックにもよろしく言っておいてね。それに、彼とも結婚する気はないとも言っておいてくれたら助かるわ」
現在ではCEOに就任しているが、当時まだCOOだったジャック・ラングストンは四十歳と若いながらもCOOという重役に付いていて、しかも妻子持ちだった。そんな彼が、衣里に結婚話を持ちかけていたというのが信じられない。まさか重婚罪を犯すつもりはないだろうし、もしかしたら離婚を考えているのだろうか。家庭を持っているというのが重役に上がる為の絶対条件、そう易々と離婚するはずがない。
絶句した俺にくすっと笑った衣里は切り際、またねと言ってそのまま電話が切られた。
アメリカに帰り、そのままジャックのオフィスに向かった。彼女の言葉を伝えるために、そしてその言葉の真意を糺すために。
ジャックのオフィスに通され、衣里からの言葉を伝えると彼は一瞬言葉に詰まったが、それから苦笑して椅子に深く腰掛けた。
それから彼から衣里との関係を聞かされた。
ジャックと衣里は、彼が結婚する前から関係を持っていたらしい。つまり衣里と関係していた俺との時期が被っていたわけだ。気まずいと言ったらない。だがそれは俺が知っているだけで、彼に何も言わなければジャックは何も知らないままでいられる。
結婚する直前まで彼は衣里に結婚してくれと何回もアプローチしたらしいが、彼女は本気に取らなかった。それに、ジャック自身もロバート・スタンフォードの財産狙いだという事も本音としてはあったらしい。言葉には出さなかったらしいが、結局の所勘のいい衣里に気付かれていたようだ。
最終的にはCOO就任の四年前に結婚し二児の子供の父親となったのが、最近になって衣里を思い出し連絡を取ってみたらしい。日本にいるために出張と銘打って来日し、俺と同じようにホテルで密会、そして衣里の魅力に再び囚われた。
「妻と別れてもいい。俺と結婚してくれと頼んだよ。エリは笑っていたけれど、そのつもりはないだろうな」
「………」
「しかしまさか君と知り合いだったなんてな。こんな偶然もあるんだな…」
「彼女の事、どうするつもりですか?」
「社会的に手に入れられないなら、現実的に手にいれるさ」
それが彼女が勤めていた会社ごと手に入れるというのに気付いたのは、今。
買収された社長の言葉を聞いてからだ。
しかし彼女は逃げた。しかも、置き土産を残して。
「その社員が何をしたんですか」
「課全体の総仕事量の半分以上を一人でこなしていたために、彼女が抜けたら仕事が立ち行かないんだ。中には『残飯処理』だとあだ名する者もいて、残業全てを彼女に押し付けていたらしい。それに、彼女が辞める際一悶着あってね…」
「それで女性社員が訴えられたり、専務が逮捕されたりですか。なかなかやりますね」
「君も知っているかも知れないが、ロバート・スタンフォードの娘はやり手すぎてね。本来の顔を隠して、ひたすら地味に誰にもその才を気付かれること無く会社では過ごしていたが…それが結局アダになった」
「…そうですか…。彼女の資料や、こなしていた仕事なんか全部を見せていただけますか」
「彼女が使っていたパソコンが残っている。と言っても、まだ課にあるんだが…」
「?どう言うことですか」
「彼女のパソコンの中身、多数の言語入り混じっているから内容が複雑でどうなっているのかわからんのだ。下手に破棄すればその書いてある中身が大事なものだと思うとそれも出来ん」
なるほど。こうして仕事を押し付けていた意趣返しをしていたというわけだ。
社長室を後にし、秘書を引き連れて企画課へと向かう。そこに彼女がしていた仕事があるらしいから。
課に入ると一様に驚いた顔をされたが、それを無視した。課長だという無能そうに見える男に彼女のパソコンの在り処を聞くと、何人もが一斉に顔を上げた。恐る恐ると言った感じでそのパソコンの前へと案内され、秘書には彼女のしていた仕事を全部集めろと指示し、そして俺は彼女の起動させたあったパソコンを調べる事に専念した。
「……は…」
「社長?」
「ジャックの秘書に今すぐ連絡を取ってくれ」
「はい」
「今すぐに連絡を、と俺が言っていたと言えばいい」
「わかりました」
今ジャックがどこにいるかわからないが、それでも連絡を取らなければならない。これは俺の範疇を超える。
直ぐに折り返された秘書からの電話は、直接俺が取った。今ちょうどインドにいるらしい。
パソコンの前から離れらないために英語で、と思ったが英語ではここの社員に内容がわかる可能性が高い。その為ジャック自身も堪能なスペイン語で話しかけた。
『どうした』
「衣里がここにいるという事を知っててこの会社を買収したのか」
『そうだ。手に入れると言っただろう?まあ、彼女はもういなかったが。君がそこの処遇を判断するといい。エリがいないんだ、俺はもうその会社に用は無い』
「…彼女、全部わかってたみたいだぞ。それに、彼女がここでしていた仕事の内容。呆れる」
『というと?』
「とても一社で手がけられるような内容じゃないぞ。しかもうまく行けば契約が取れるものまである」
世界的に有名になるであろう建造物のデザイン、ヨーロッパにある古城を利用したホテル開発、新興国向けのレジャー…世界各国多岐に渡る内容で、一番契約漕ぎ着ける可能性が高いのが国内のエネルギー開発における国からの受注。それを彼女一人でここまで漕ぎ着けたというのか。
余りの事に唖然としていると、明朗に笑うジャックの声が電話口から聞こえてきた。
『だから彼女が、エリが欲しいんだ。本音を言えば彼女の全てが欲しいが、エリがそれにイエスと言わない限りはどうしようもない』
「…衣里はイタリア、フランス、イギリス各国の大企業家からオファーが着てるぞ。メールボックスに彼等からのラブメールがわんさかある」
『ほう、流石だな。まあ、彼女も彼等の愛人になるような女ではないし、自分の会社も持っているからな。仕事には事欠かないだろう』
「会社?」
『知らないのか?マイアミにある海洋レジャー専門の会社だ。最近伸びてきているから知っているかと思ったんだがな』
どうやら衣里は随分とワーカホリックになったらしい。それでいてあの魅力的な女を振りまいている。見当違いだと言われようと嫉妬する。
そのままジャックとの電話を切り、秘書に指示していた彼女の仕事内容を知る事になった。
秘書が調べるに従い、渋い顔をしていた理由はすぐにわかった。
衣里は課の残業だけでなく、自らが発案していた企画をそのまま他の社員に奪われていたのだ。それは一回や二回などという生易しいものではない。この課で企画され実現していったものの六割近くが衣里が考えたものだった。その企画で出世していった社員は、彼女がいなくなるなり一件の企画も通らなくなった。
道理で彼女がいなくなったというだけで仕事が回らなくなるわけだ。腹立たしさを抱えていると、彼女の社員証に使われていた写真が目に飛び込んできた。
「誰だ、これ」
「佐藤衣里ですが」
「…これ、本人か?」
「はい、総務にも確認して来ました。佐藤衣里本人の社員証の写真です」
思わず聞いたのには訳がある。
これは誰だと聞くほど、写真に写った女があの妖艶な衣里とは似ても似つかない地味な女だったからだ。確かに社長も地味にしていたと言っていたが、まさかこういう風に地味にしていたとは。
あれほど妖艶な美しい顔は、特殊メイクでも施したのでないかと疑う余地も無いほど隠されて、見るからに野暮ったい。最後に会った時は綺麗に巻かれていた髪も一本結いで纏められている。なるほど、これでは彼女だというのはわからない。
衣里に会おう。
幸いにして携帯電話の番号は変わっていなかった。仕事中かと思ったが、それでも彼女に連絡をつけたかった。
何年ぶりで聴く彼女の声は、電話口からでもやはり日常を通り越したような艶かしさを帯びていた。
『タカ。まさか貴方から電話が来るとは思ってもみなかったわ』
「久しぶりだな衣里、今夜会えないか」
『いいわよ。前に会ったホテルのラウンジでいいかしら?』
「ああ。二十一時に、ラウンジで」
『楽しみにしてるわ』
そう言って切られた電話を見ていると、一人の社員がこちらを見ているのに気が付いた。社員証には『井上直哉』とある。確か開発課の課長だったか。
じっとこちらを見ているので、何か?と声をかけた。
「あの…、佐藤さんと知り合いなんですか」
「そうだと言っても、君には関係が無いと思うが」
「…俺、彼女に謝りたくて。俺が彼女をこの会社から追い出したようなものだから」
話を聞くと、この男も衣里と関係を持った男のうちの一人らしい。と言っても、この男の身勝手な行動によって彼女がこの会社の女性社員達から嫌がらせを受け、それで彼女は辞めたらしい。
バカな男だ。
衣里がこの程度の男なんかに釣り合うはずがない。しかも、体のいい女扱いしようとしたのがあっさりと乗り捨てられたらしい。哀れだと思うが、同情はしない。衣里を手に入れたければ、それ相応の努力をしなければならないし、そう簡単に手に入るのならばこんなに俺もジャックも執着しない。
そんな事もわからない男に衣里が満足するはずもなく。そして、彼女の事を平凡だと暗に貶していたこの男の事を内心ひっそりとリストラ対象の最有力に上げた。
彼女と会う予定があったので、早々に仕事は切り上げた。
前にも利用したホテルのラウンジ。あの頃は部屋も予約していたのを覚えている。あれから数年経ち、俺と彼女を取り巻く環境が変わったとしても、俺が衣里を忘れる事は無い。
だから、紫のドレスを着てきた彼女が昔と同じくラウンジの入り口に立った瞬間、全身が粟立だった。あの写真とは全く違い、やはり記憶の中にあるまま、いや、更に成熟を増したいい女である衣里。
あの頃の様に俺に気付いた彼女は、やはり朱で彩られた唇を上げて微笑んだ。
「衣里」
「タカ、元気そうね。相変わらずいい男だわ。惚れてしまいそう」
「惚れてもいいぞ。お前だったら大歓迎だ」
「ふふっ、そんな貴方も懐かしいわ。それで?今回はシャンパンにする?」
冷えたシャンパンを頼み、グラスを合わせた。
一口飲んだ彼女の喉元をじっと見つめ、身体が熱くなるのがわかったが、それに気付いた衣里に釘をさされた。
「タカ、そんなもの欲しそうな目しないでよ」
「お前相手だとどうしてもそうなる。ずっと逢いたかったんだ、衣里」
「私も会いたかったわよ、同じ日本にいたのに会わないなんて凄い確立じゃない?まぁ貴方は日本支店の社長だし、私は一社員にしか過ぎなかったのを考えればそれも当たり前ね」
「なんで平社員で、しかもあの風貌はなんだ?折角のお前の顔が、あれじゃ誰が誰だかわからないじゃないか」
その問いにくすくすと笑った衣里は、やはり記憶の中にあるのと同じでデジャヴしてしまう。
「出る杭は打たれるって言うでしょう?知ってると思うけど私はマイアミに会社持ってるし、ロブの事もある。下手に目立つと面倒なのよ。それに事件の事もあるしね。目立つのは得策ではないと判断したのは間違ってなかったと思っているわ」
「しかし、あれは驚いた。あれじゃあ街で会ってもわからないわけだ」
「あの顔の方が良かった?なんだったら用意してくるけど」
「いや、残念だがそのままでいい。俺はそのままの衣里に会いたかったから」
「上手い事言っても何も出ないわよ」
「何も?」
「そう、何も」
とっくにグラスの中身は空になっている。あの頃のように我慢の限界を感じていた俺は、彼女の柔らかで細い腰を抱いてラウンジを後にし、やはり記憶の上塗りのように部屋へと向かうエレベーターの中で夢中でキスを繰り返した。
「衣里」
「ふふっ、余裕がないのね」
「ああ」
彼女の身体を弄る手は止まらず、結局は部屋に入るなり服も脱がずにコトに及んだ。相変わらず彼女の身体は自分と相性が良く、男の事をよくわかっているタイミングの締め付け具合は最高で、やはりこの女は極上。
ベッドになだれ込んでもその欲望は尽きる事無く、最後に二人で絶頂を向かえた頃には夜が明けていたように思えた。
目が覚めたのはタバコの匂い。自分が吸っているのとは違うもので、それでぼんやりと目を開けると窓際でローブ姿の彼女がタバコを吸っていた。
昔は涙目になって咳き込んでいたのが懐かしい。目を細めてその光景を見ていると、起きた俺に気付いた衣里が俺を見て笑った。
「起きた?もうとっくに朝よ。ルームサービスでも頼む?」
「…ああ、頼む。しかし衣里、タバコ吸えるようになったのか」
「そうよ。もう咳き込んで貴方に呆れられたりしないようになったわ。最近じゃ禁煙禁煙って随分と嫌煙家が増えたし、タクシーでも吸えなくなったりしてるけど。それでもタバコをやめる気にはならないわ。貴方は?やめないの?」
「やめたいとは思うけど、やめる気はない」
「日本支店長がそんな意思が弱くていいの?ジャックに小言をネチネチ言われるわよ」
そう言った衣里はタバコの火を消して、ベッドに戻って来た。ローブの裾を肌蹴て、その柔らかい太ももを撫で上げる。首筋を露わにして舌を這わせていると、くすぐったいのか彼女はくすくすと笑った。
「衣里、俺と結婚しないか」
「まだ言ってるの?懲りないわね」
「何度でも言ってやる。俺と結婚してくれ」
「タカ、何度でも言うわ。結婚はしないの」
結局そのままコトを致して、シャワーを二人で浴びてルームサービスの朝食を取っていると、衣里が仕事へ行くといい、部屋を後にしようとした。
「じゃあね」
「また今みたいに会えるか?」
「そうね…貴方が綺麗な奥さんと、可愛い子供の事を忘れられたら。そうしたら逢いましょうか」
ね?
笑った彼女は唖然としている俺に舌を絡めてキスをし、そして部屋を出て行った。彼女のつけている香水の香りだけが残る部屋に俺は一人残された。
衣里が知っているとは思わなかった。俺が既に結婚し、子供もいることに。
そしてその生活に満足していることも。
指輪も外していたし、その雰囲気も微塵も感じさせなったはずだ。そう、俺は結婚していない風を装って彼女に会った。それが妻と子供に対する裏切りだとかは微塵も感じずに。
呆然としている時に、ジャックが昔言っていた事を思い出した。
『妻と別れてもいい。俺と結婚してくれと頼んだよ。エリは笑っていたけれど、そのつもりはないだろうな』
初めて彼の気持ちがわかった気がした。あの当時はわからなかった気持ちが今になって。
離婚しても、子供と会えなくなっても彼女…衣里が欲しい。確かに財産だとか美しさや身体だとかはある。しかし、本当に欲しいのは彼女の気持ち。
手に入らないものほど欲しくなる。
彼女が男達を手玉に取って、自分がレイプされた事への復讐をしているのかもしれないが、それでもいいと思っている自分がいるし、多分他の男達も同じ考えだろう。
衣里はとんでもなくいい女で、極上で。
麻薬のような女だ。
そう一人ごちた俺は、今度はいつ彼女に逢えるのだろうかと年甲斐も無く心をときめかせ、そして離婚届を近いうちに取りに行こうと思った。
サインはいつでも出来るし、その覚悟もある。ただ、その気が無いだけで。
そう、タバコと同じだ。
あれを止めると同時に結婚生活もやめよう。
衣里
ますますいい女になっていくお前は、誰のものにもならないでいてくれる保証はどこにもないかもしれない。
それでも―――
「タカ」
そう呼ばれるだけで、俺の身体は熱くなる。
前作よりも佐藤衣里に対する印象が変わったと思います。本来の彼女はこっちです。あくまでも『すげぇ女』で書かれていた佐藤衣里は彼女が隠していたもので、本当の彼女は男を手玉に取る悪女と言った感じです。
本来ならば不倫モノは好きではないのですが、衣里はそういう関係を望んではいないですし、タカとの未来も奥さんを忘れられたらと言及しているので、自らそう行った不倫への道は歩みません。
ただ、衣里と関係のあった男達は妻子がありながらもそれを捨ててもいいと思えるほど彼女にのめりこみ、それを知りつつも妻子と離婚出来ないジレンマを抱えている、要は優柔不断な男達です。
少しだけ前作の井上課長が出て来ましたが、彼がリストラされたかどうかは未定です。