婚約破棄ですか?では、明日からご自分でどうぞ
王宮の大広間で、私は婚約者から婚約破棄を告げられた。
「ユノシェ・リュゼル。私はお前との婚約を破棄する」
第三王子レグナートは、集まった貴族たちを前に、堂々とそう宣言した。
隣には、彼の腕にそっと手を添える令嬢がいる。
淡い金髪に、宝石のような青い瞳。
名前は、ミュレア・ヴァンデル。
最近、王宮で彼と親しくしているという噂の令嬢だった。
「君は地味で、愛想もない。おまけに、いつも帳簿だの書類だのと、つまらない仕事ばかりしている。王族の妻としてふさわしくない」
「……そうですか」
「何だ、その反応は?」
「いえ。婚約を破棄なさるのでしたら、承知いたしました」
私があっさり答えると、レグナートは拍子抜けしたような顔をした。
もっと泣きわめくと思っていたのだろうか。
それとも、彼にすがりつくと思っていたのだろうか。
どちらにしても、期待に応えられず申し訳ない。
「それでは、失礼いたします」
「待て。お前、まさか本当にそれだけで済むと思っているのか?」
「はい?」
「お前はこれまで、王宮の仕事を任されてきたんだぞ。それを放り出して辞める
つもりか!」
私は首を傾げた。
「ですが、殿下。今、私との婚約を破棄なさったのですよね?」
「それがどうした!」
「私は王族の婚約者だからこそ、王宮の仕事をお手伝いしていたのです。婚約者
でなくなった以上、これまでどおりに働く理由はございません」
「なっ……!」
レグナートの顔が赤くなった。
私はにっこりと微笑んだ。
「今までお世話になりました」
そして、私は大広間を後にした。
背後から、レグナートの怒鳴り声が聞こえた。
「勝手にしろ! お前の代わりなど、いくらでもいる!」
そうですね。
ぜひ、そうであってほしいものです。
私だって、これ以上あの人の仕事を肩代わりしたくはなかったのだから。
***
翌朝。
私は久しぶりに、朝寝坊をした。
いつもなら日の出前に起きて、王宮へ向かう準備をしている時間だ。
王宮の予算管理、各部署への支払い、魔法結界の維持費の計算、地方領主から届く報告書の確認。
それに加えて、レグナートの個人的な支出の管理まで。
私は長年、それらの仕事を一手に引き受けてきた。
もちろん、正式な担当者は別にいる。
ただ、彼らが仕事をしないので、私が代わりに処理していただけだ。
レグナートは、私が帳簿を整理しても、予算の無駄を指摘しても、いつもこう言った。
『そんな細かいことはどうでもいい』
どうでもいいのなら、ご自分でなさればよろしい。
私は窓を開け、朝の空気を吸い込んだ。
「ああ、いい天気」
今日は何をしようか。
そう考えていると、玄関の扉が勢いよく叩かれた。
「ユノシェ様! いらっしゃいますか!」
聞き覚えのある声だった。
王宮の財務官、オルゼンである。
私はゆっくりと扉を開けた。
「おはようございます」
「お、おはようございます。それどころではありません!」
「何かございましたか?」
「第三王子殿下が、予算のことで大変お困りなのです!」
私は目を瞬かせた。
「そうですか」
「そうですか、ではありません! 王宮の支払いが止まっているのです!」
「それは大変ですね」
「ユノシェ様が担当していた書類が、どこにあるのかわからないのです!」
私は少し考えた。
「書類でしたら、すべて所定の場所に保管してありますよ」
「それが、誰も見つけられないのです!」
「……そうですか」
私は困ったように笑った。
「では、探していただくしかありませんね」
「ユノシェ様!」
「申し訳ありません。私、もう王宮の職員ではありませんので」
「しかし、殿下が……!」
「殿下は昨日、私の代わりはいくらでもいるとおっしゃいました」
オルゼンは黙り込んだ。
「ですから、きっと大丈夫ですよ」
私は丁寧に頭を下げ、扉を閉めた。
その日の午後、私は街へ出かけた。
久しぶりに買い物をし、喫茶店でお茶を飲み、読みたかった本を買った。
こんなに自由な一日は、何年ぶりだろう。
そう思っていたところ、街中で妙な噂を耳にした。
「第三王子殿下が、財務官を三人も怒鳴りつけたらしいぞ」
「予算の計算が合わないんだと」
「そりゃ大変だ」
「なんでも、来週には隣国の使節団が来るらしい。歓迎式典の費用も、まだ決ま
っていないそうだ」
私は紅茶を飲んだ。
なるほど。
それは困ったことでしょう。
ただし、歓迎式典の予算は先月すでに確定している。
必要な書類も、決裁済みのものと未決裁のものに分け、目録までつけて保管した。
誰でも見つけられるように、棚には大きな札もつけてある。
あれを見つけられないというのなら、もう私にできることはない。
***
それから一週間後。
私は、王宮からの招待状を受け取った。
差出人は、レグナートだった。
『至急、王宮に来るように。お前にしかできない仕事がある』
私は手紙を読み、笑った。
おやおや。
代わりはいくらでもいるのではなかったのですか?
けれど、私は招待に応じることにした。
最後に、きちんとお話ししておこうと思ったのだ。
王宮に着くと、レグナートは執務室で待ち構えていた。
「遅いぞ!」
「招待状に記載された時刻どおりですが」
「そんなことはどうでもいい! とにかく、歓迎式典の予算を組み直せ!」
「なぜですか?」
「金が足りないのだ!」
「……予算は確定しているはずですが」
「だから、その計算をやり直せと言っている!」
私は机の上に置かれた書類を見た。
予算書。
支出一覧。
そして、何枚もの請求書。
私は一枚目をめくった。
なるほど。
二枚目をめくる。
なるほどなるほど。
三枚目をめくったところで、私は顔を上げた。
「殿下。こちらの馬車は、何に使われたのでしょうか?」
「私が買ったものだ」
「歓迎式典の予算から、ですか?」
「必要だったのだ!」
「こちらの宝石は?」
「ミュレアへの贈り物だ!」
「こちらの別荘の改修費は?」
「私の休養に必要だった!」
私は書類を机に置いた。
「……これらは、すべて王宮の予算から支出されていますね」
「それがどうした!」
「歓迎式典の予算が不足するのは当然です」
「なっ……!」
レグナートが立ち上がった。
「お前がきちんと管理していれば、こんなことにはならなかったのだ!」
「いいえ」
私は静かに答えた。
「私が管理していた間は、このような支出を認めておりませんでした」
「何だと?」
「殿下が私の承認を飛ばして、独断で支払いを命じたのです。記録も残っています」
私は鞄から、一冊の帳簿を取り出した。
そこには、レグナートが指示した支出と、その日時、金額、承認者がすべて記録されていた。
「こちらが控えです。必要であれば、監査官にも提出できます」
レグナートの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「お、お前……!」
「ご安心ください。私は、殿下を陥れるつもりなどございません」
私は微笑んだ。
「ただ、事実を記録しただけです」
そのとき、執務室の扉が開いた。
「殿下! 隣国の使節団が到着されました!」
レグナートが振り返る。
「な、何だと!? 歓迎式典の準備は!」
「それが……会場の手配が済んでおりません!」
「料理は!?」
「料理長が、支払いが確認できないため準備を止めております!」
「花はどうした!」
「発注書が見つかりません!」
私は思わず目を閉じた。
花の発注書なら、予算書の隣にあるはずだ。
料理長への支払いも、手続きをすれば今日中に間に合う。
会場だって、先月から予約してある。
全部、私が準備した。
ただし、私が準備したものは、すべて私の机を経由していた。
そして私は、もうそこにいない。
「ユノシェ! 何とかしろ!」
レグナートが叫んだ。
「お前ならできるだろう!」
「いいえ、殿下」
私は首を横に振った。
「私には、もう関係のない仕事です」
「ふざけるな! お前は私の婚約者だったんだぞ!」
「昨日、婚約を破棄なさいました」
「それは……!」
「それに、殿下はおっしゃいましたよね。私の代わりはいくらでもいると」
私は深々と頭を下げた。
「どうぞ、その方々にお任せくださいませ」
そして、私は執務室を出た。
廊下の向こうから、レグナートの怒鳴り声が聞こえてきた。
私は振り返らなかった。
***
その後、歓迎式典は予定より大幅に遅れて始まった。
会場には花がなく、料理も十分に用意できず、王族が使うはずだった馬車は、なぜか隣国の使節団の到着に間に合わなかった。
さらに、監査官による調査で、レグナートの私的な支出が次々と明らかになった。
彼は王族としての予算管理権限を一部停止され、私的支出の返還を命じられた。
ミュレア嬢もまた、彼から贈られた品々の出所を知り、静かに距離を置いたという。
そして私はというと。
王宮を辞めたあと、商業都市で小さな会計事務所を開いた。
私の仕事ぶりを知っていた商人たちが、次々と依頼を持ち込んでくれたおかげで、生活には困らなかった。
むしろ、王宮にいたころより収入が増えた。
ある日、店の扉が開いた。
「……ユノシェ」
そこに立っていたのは、レグナートだった。
以前よりもずいぶん疲れた顔をしている。
「頼む。王宮に戻ってきてくれないか」
「お断りいたします」
「まだ何も言っていないだろう!」
「戻ってきてほしい、というお話でしょう?」
「そうだ! お前がいれば、すべてうまくいくのだ!」
私は帳簿から顔を上げた。
「殿下」
「何だ?」
「私は、あなたの代わりはいくらでもいると聞かされました」
「……あれは、言いすぎた」
「そうですか」
「だから、もう一度やり直そう。婚約だって、考え直してもいい!」
私は少しだけ考えた。
そして、笑顔で答えた。
「殿下。私、今の生活がとても気に入っているんです」
「……何?」
「朝は好きな時間に起きられますし、仕事の成果はきちんと報酬になります。何より、自分の仕事をどうでもいいと言う方のために、夜遅くまで働かなくて済みます」
「ユノシェ……!」
「それでは、お帰りくださいませ。次のお客様がお待ちですので」
私は店の扉を開けた。
レグナートは何か言いたそうにしていたが、結局、何も言わずに出ていった。
その背中を見送り、私は扉を閉めた。
さて。
次のお客様は、どんな方だろう。
少なくとも、私の仕事を当然だと思わない方だといい。
私は新しい帳簿を開き、ペンを手に取った。
今日も、私の仕事が始まる。
今度は、私自身のために。




