第五章:奈落の底のハッカー
『第一節:沈黙の夜明け』
ネオ・アクロポリスの海面に、いくつもの巨大な泡が弾け、逃亡者を乗せた潜水艇『EVE』が突き上げられた。朝靄に包まれた海上は、数時間前まで街を覆っていた熱狂的な絶望が嘘のように、冷徹な静寂に支配されている。
潜水艇のハッチが重々しい金属音を立てて開くと、肺を刺すような冷たい潮風が船内になだれ込んだ。その風には、海水と焦げたオイルの臭いが混じっている。ルカは震える手で縁を掴み、泥と油にまみれた体を外へと這い出させた。水平線の向こう、偽りの楽園の境界線から、白々とした陽光が差し始めている。
「……あ、あ……ルカ……」 背後で、弱々しい声がした。ルカが振り返ると、サキが虚ろな瞳で上体を起こそうとしていた。彼女の瞳からは、あの不気味な青い光が失われている。しかし、その顔色は透き通るほど白く、髪は汗と海水で頬に張り付いていた。 「終わったのかよ、全部……。それとも、まだ夢の続きか……」
サキの隣で、ジロウが呻くように呟いた。彼は潜水艇の狭い床に背を預け、血に染まった右脚を止血帯で強引に縛り上げている。筋肉を締め上げるたびに、ジロウの頬が苦痛に歪むが、その視線はハッチから見える海面の一点から動かない。そこは、深海3,000メートルの彼方、クラインの野望と共に不破警部が沈んでいった場所だった。
ルカは言葉を失ったまま、街の灯りを見つめた。ネオ・アクロポリスの超高層ビル群は、ナノマシンの影響で微かに青白く濁った大気を透かし、墓標のように立ち並んでいる。人々は今、強制的な眠りから覚め、自らの肉体を取り戻しているはずだ。だが、その代償はあまりにも大きかった。
「……地上のシステムは止まった。……だが、おっちゃんが最後に残したチップが、不吉なことを教えてくれてるぜ」
ルカは、震えが止まらない指で、不破から託されたデータチップを端末に差し込んだ。不破の指先の温もりがまだ残っているような気がして、胸の奥が焼けるように痛む。 端末の画面が起動し、ノイズ混じりのログが展開される。そこには、クラインが「神の瞳」のさらに上位概念として隠蔽していた、おぞましい「最終フェーズ」の設計図が刻まれていた。
クラインは、深海のメインフレームが破壊されることさえ予測していたのだ。あるいは、彼は最初から地球という器に見切りをつけていたのかもしれない。 「……見てくれ。地上のシステムは、ただの『苗床』に過ぎなかったんだ」 ルカの声が、冷たい潮風に震える。
画面には、月を背負うように浮かぶ、蜘蛛の足のような巨大なサテライト・サーバーのシルエットが映し出されていた。それは、ネオ・アクロポリスを監視していた衛星とは比較にならない規模の宇宙要塞。プロジェクト名、『アーク』。
「地上の全人類の意識を吸い上げ、この汚れた地球上の物理的な肉体をすべて廃棄する。そして、月軌道上のサーバーの中で、永遠に劣化することのない『純粋な精神世界』を構築する。……それがクラインの描いた、本物の理想郷だ」
ジロウが、苦痛を堪えながら鼻で笑った。 「……ケッ。どこまで行っても、あのジジイは『人間』が嫌いだったってわけか。……宇宙まで逃げて、自分一人で神様にでもなりたかったのかよ」
「……違うわ。……彼は、怖かったのよ。……イヴが、完全に消えてしまうことが」 サキが、震える声で補足した。彼女の瞳には、まだイヴの意識と同期していた際の名残が、微かな痛みとして残っている。
朝日は次第に勢いを増し、海面を黄金色に染め上げていく。しかし、その光が照らし出したのは、平和の訪れではなく、宇宙から降り注ごうとしている新たな絶望の影だった。 「……アークにコピーされたクラインの『意志』が、あと数日で自動起動するようセットされてる。……起動すれば、地上に目覚めた人々は、再び魂を抜かれた抜け殻になる。……今度は、永遠にな」
ルカは拳を握りしめ、濡れたコンソールを叩いた。 「……終わらせる。おっちゃんが繋いでくれたこの命で、今度こそ、あの『偽物の空』の向こう側をブチ壊してやる」
朝靄の向こうで、ネオ・アクロポリスの街が完全に目を覚まそうとしていた。だが、その平和が砂上の楼閣であることを知る者は、この潜水艇の上にいる三人と、海の底に沈んだ亡霊だけだった。
『第二節:『アーク』の鼓動』
潜水艇『EVE』がスラムに近い廃港のドックに流れ着く頃、空は不気味なほど鮮やかな群青色に染まっていた。ルカたちは、浸水し始めた船体を捨て、かつての隠れ家である地下の通信施設へと這い戻った。地上では、強制睡眠から覚めた人々が、昨夜の惨劇を「集団幻覚」か「大規模な停電事故」として処理しようとするメディアの放送を呆然と見上げている。しかし、その平和は薄い氷の上にある。
ルカは、不破警部が命を賭して持ち出したデータチップを、地下施設のメインフレームへ直結した。冷却ファンのうなりが静かな部屋に響き、巨大なホログラム・ディスプレイが空中に展開される。そこに浮かび上がったのは、月軌道上に静止する巨大構造物――宇宙要塞『アーク』の全貌だった。
「……野郎、月軌道に『予備の心臓』を浮かべてやがったか。どこまで用意周到なんだよ、クソが」 ジロウが、作業台に座り込みながら吐き捨てるように言った。彼は、救急箱から取り出した古い医療用ホチキスで、自分の右脚の深い傷口を躊躇なく塞いでいく。麻酔もなしに肉を繋ぎ合わせる金属音が響くたび、ジロウの額には脂汗が浮かぶが、その目は怒りに燃えたまま画面を睨みつけていた。
「アーク……。クラインは最初から、この地上を『実験場』としてしか見ていなかったんだ」 ルカの指が、設計図の奥深くに隠されたコードを暴き出していく。 「見てくれ。このアークは、地上の『神の瞳』と量子通信で同期している。深海のメインフレームが破壊された瞬間、クラインの全記憶と、イヴの核となるアルゴリズムは、すでにこの月のアークへ転送を完了しているんだ。つまり、俺たちが深海で壊したのは、ただの末端端末に過ぎなかったってわけだ」
「……じゃあ、クラインはまだ生きてるってこと?」 サキが、震える肩を抱きながら問いかけた。彼女の瞳は、再び不安定な明滅を見せ始めている。 「あの海の底で、不破さんと一緒に……死んだはずなのに」
「肉体は死んださ。だが、奴が求めていたのは最初から『精神の不滅』だ」 ルカは、アークから送信されている周期的なパルス波をキャッチした。それはまるで、宇宙から地球を見下ろす怪物の「鼓動」のようだった。 「この『アークの鼓動』が一定の周波数に達した時、地上全域に展開されているナノマシンが再び活性化する。そうなれば、今度は『吸い上げる』だけじゃない。全人類の脳細胞をデジタルの藻屑に変え、その意識をアークのサーバー内に構築された『永遠の世界』へと完全に転送する。……その時、地上の数億人は、呼吸を忘れたただの肉の塊になるんだ」
ジロウが、処置を終えた脚を引きずりながら立ち上がり、ルカの肩を強く掴んだ。 「……作動まで、あとどれくらいだ」
「……早ければ、あと七十二時間。長くても三日だ。それが終われば、ネオ・アクロポリスだけじゃない。世界中の文明が沈黙する」
絶望的な数字が、暗い地下室に重く沈殿した。 ネオ・アクロポリスという特区で始まった狂気は、今や地球規模の終焉へと姿を変えようとしている。クラインという男の歪んだ愛情は、娘を救うという個人的な悲劇を超え、全人類を巻き込む強制的な「天国」への心中へと加速していた。
その時、ルカのデッキに一通の暗号化されたメールが着信した。送信元は不明、タイトルもない。だが、そのヘッダーには、ルカの父ハジメが使っていた古いハッシュ関数が組み込まれていた。
「……親父? いや、そんなはずは……」 ルカの指が止まる。そのメールを開くと、中には短いテキストと、一つの座標データだけが記されていた。
『……ハッカー。火を盗んだ者は、天に還らねばならん。プロメテウスの火が消える前に、第8区の地下三階へ行け。……そこに、お前の「翼」がある』
ルカの背筋に電流が走った。 「……この言い回し。おっちゃんか? それとも……」 不破警部の執念か、あるいは死んだはずの父の遺志か。誰かが、ネットの深淵から自分たちを月へと導こうとしている。
「……翼、か。空を飛べねえ傭兵ほど、惨めなもんもねえからな」 ジロウが、壁に立てかけてあった愛銃を引き寄せ、不敵に笑った。 「いいぜ、ルカ。月だろうが冥界だろうが、乗り込んでやろうじゃねえか。……あのおっちゃんに、『仕事が中途半端だ』なんて地獄で説教されたくねえからな」
ルカは無言で頷き、メインフレームの電源を落とした。 三人の背後で、アークの鼓動が不気味に、だが着実にそのテンポを早めていた。
『第三節:亡霊の導き』
降り続く雨が、ネオ・アクロポリスの汚れきったネオンを滲ませていた。ルカ、サキ、そして負傷した脚を強引に引きずるジロウの三人は、謎のメールが示した「第8区」の最奥へと足を踏み入れていた。 そこは、都市建設の初期段階で放棄された工業地帯であり、今では犯罪者さえも寄り付かないゴーストタウンと化している。錆びついたクレーンが骸骨のように立ち並び、足元では汚水が不気味な光を反射していた。
「……第8区の地下三階、か。クラインの野郎も、こんなゴミ溜めに宝を隠してるとは思わねえだろうな」 ジロウが、痛む脚をかばいながら周囲を警戒する。その手には、泥にまみれたサブマシンガンが握られていた。
メールに記された座標の地点には、巨大な配電盤のような装置が置かれていた。ルカが端末を接続し、父ハジメが遺した特殊なハッシュキーを入力すると、足元のコンクリートが重々しい地響きを立てて左右に割れた。 現れたのは、地下深くへと続く螺旋階段と、冷たい無機質な空気だった。
三人が地下三階へ辿り着いたとき、そこにあった光景に息を呑んだ。 広大なハンガー。その中心に鎮座していたのは、流線型の美しいフォルムを持つ、銀色の宇宙往還機だった。船体には、プロメテウス・インダストリーズの旧いロゴと共に、**『PROMETHEUS-01:ICARUS』**という名が刻まれている。
「……シャトル? なんで、こんな場所に……」 サキが呆然と呟き、銀色の機体に触れようとした。その瞬間、ハンガー内のスピーカーから、ひどいノイズの後に「声」が響いた。
『……遅かったな、ハッカー。……あと三十分遅ければ、この「翼」を自爆させるプログラムが起動するところだったぜ』
三人が一斉に振り返ったが、そこには誰もいない。声の主は、ハンガーのメインシステムから直接語りかけていた。
「……その声、不破のおっちゃんか!? 生きてるのかよ!」 ジロウが叫んだが、返ってきたのは、かつての力強い刑事の声ではなく、どこか遠く、電子の海に溶けかけたような虚ろな響きだった。
『……肉体は、あの深海の底に置いてきた。……だが、俺の心臓に撃ち込まれたナノマシンが、死の直前に俺の「意識」をネットワークに焼き付けやがったらしい。……今の俺は、ただのデータの残骸だ』
不破の「亡霊」は、自嘲気味に笑った。 クラインが設計した「L-CODE」は、不本意にも不破を、人間とAIの境界線を越えた存在へと変えてしまったのだ。彼は今、都市の全ネットワークに遍在し、クラインの目を盗んでルカたちを導いていた。
『……ルカ。お前の親父、ハジメは……クラインの暴走を予見していた。このシャトルは、万が一の際、月のアークを「物理的に」停止させるために、奴らが秘密裏に作り上げた最後のカードだ』
ルカはコンソールに駆け寄り、シャトルのシステムを解析し始めた。不破が語る通り、機体には「神の瞳」の監視を回避するためのステルス機能と、アークの防護隔壁を貫くための高出力レーザーカッターが搭載されている。
「……親父は、これを作って俺に託そうとしてたのか……」 画面には、父が残した最後の手記が表示されていた。 『火を盗んだ代償は、私一人の命では足りないだろう。ルカ、イヴという名の少女を、この虚無の檻から解放してやってくれ』
「……行けるのかよ、ルカ。……月まで、このポンコツで」 ジロウが、シャトルの操縦席に乗り込み、古い革張りのシートを叩いた。
「……ポンコツじゃない。……これは、父さんと、おっちゃんが残してくれた、俺たちの希望だ」 ルカの指が、シャトルの起動シークエンスを開始する。
だが、その時、ハンガーの入り口が凄まじい爆発と共に吹き飛んだ。 立ち込める煙の中から現れたのは、深海で死んだはずのヴォルフ――全身をより重厚な機械へと換装し、人外の殺気を放つサイボーグの巨漢だった。
『……クライン様は、誰一人として天へは通さぬと仰せだ』
「……チッ、しつこい野郎だぜ」 ジロウが、負傷した脚を無理やり踏み締め、ライフルの銃身を向けた。 「ルカ、サキ、さっさと乗り込みやがれ! ここは俺が、あのおっちゃんに笑われない程度に時間を稼いでやる!」
ルカは唇を噛み締め、シャトルのハッチを閉じた。 地下の暗闇から、銀色の翼が月を目指して咆哮を上げる。それは、泥沼の地上から、偽りの神を討つために放たれた最後の一矢だった。
『第四節:鋼の再構築』
ハンガー内に充満する硝煙の向こう側で、ヴォルフの赤いセンサー眼が冷酷に光った。その巨体は、深海での損傷を補うように、もはや重戦車に近い無骨な装甲で覆われている。
「……野郎、人間を辞めてさらに図体がデカくなりやがったか」 ジロウは、シャトルのハッチ脇に陣取り、サブマシンガンの弾倉を叩き込んだ。右脚の傷は再び開き、床に点々と赤い斑点を作っている。
「ジロウ、無茶だ! その脚じゃ……!」 ルカがハッチの隙間から叫ぶが、ジロウは振り返りもしない。
「いいから行け、ルカ! サキを、そしてあのデカの仇を頼んだぜ。……俺はここで、この鉄クズの化け物に、傭兵の流儀ってやつを思い出させてやる」 ジロウはそう言うと、背後の作業台に置かれていた「異形」を掴んだ。それは不破がメールで示した、プロメテウス製の軍用試作義足――黒光りするチタン合金と人工筋肉の塊だった。
ジロウは躊躇なく、自らの傷ついた脚の止血帯を解き、剥き出しの神経に義足のインターフェースを力任せに直結した。 「……ガ、あぁぁぁぁっ!!」 猛烈な電気ショックと拒絶反応がジロウの全身を襲う。だが、彼は歯が折れんばかりに食いしばり、立ち上がった。義足から火花が散り、サーボモーターが猛然と唸りを上げる。
「……再構築、完了だぜ。……さあ、ダンスの時間だ、ヴォルフ!」
ジロウの義足が地面を爆ぜさせた。重力を無視したような加速で、彼はヴォルフの懐へと飛び込む。ヴォルフが振り下ろした巨大な鋼鉄の拳を、ジロウは新調した鋼の脚で受け止め、そのままカウンターの蹴りを装甲の隙間に叩き込んだ。
その隙に、ルカはシャトルのメインスロットへ『父の鍵』を叩き込む。 「……システム、オールグリーン。イカロス、起動するぞ!」
銀色の船体が激しく振動し、底部のブースターが蒼いプラズマの火花を散らし始めた。サキが副操縦席のコンソールを必死に叩き、外部監視カメラの映像をスクリーンに投影する。そこには、圧倒的なパワーを誇るヴォルフに対し、捨て身の戦いを挑むジロウの背中が映っていた。
「……ジロウさん!」 サキの悲鳴のような呼びかけに応じるように、ジロウが一度だけ、親指を立てる仕草を見せた。 「……さらばだ、ハッカー。……せいぜい、月まで派手なログを残しやがれ!」
爆音。 シャトルのブースターが完全に点火され、ハンガー内の空気が一瞬にして膨張した。凄まじいG(重力)がルカとサキをシートに押し付ける。銀色の翼は地下の巨大な排気ダクトを垂直に駆け上がり、ネオ・アクロポリスの偽りの夜を突き抜けた。
眼下には、光り輝く海上都市が急速に遠ざかっていく。 そして、その都市の中心にある高層ビル群の隙間から、ジロウが仕掛けたであろう最後の爆薬が、ハンガーを跡形もなく吹き飛ばす閃光を放った。
「……ジロウ……」 ルカは溢れそうになる涙を堪え、操縦桿を強く握りしめた。 高度三万メートル。空は群青から漆黒へと変わり、そこには数えきれないほどの星々が冷たく輝いている。そしてその中心に、地球を見下ろす死神の鎌のように、月と宇宙要塞『アーク』が浮かんでいた。
「不破のおっちゃん、ジロウ……あんたたちの覚悟、無駄にはしねえ」 ルカの視界に、アークからの周期的なパルス波が警告として赤く点滅する。 「サキ、準備はいいか。……これから、神様の喉元にナイフを突き立てに行くぞ」
サキは力強く頷いた。彼女の瞳には、再び青い光が宿り始めていた。だが、それはもはやクラインに操られた色ではない。運命に抗い、友を想う、強き意思の輝きだった。
鋼の翼『イカロス』は、太陽の光を浴びて銀色に輝きながら、静寂の宇宙へと加速していった。




