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第四章:虚構の楽園

『第一節:沈黙の祝祭』

 深海の「第0区」でカウントダウンが始まったその瞬間、地上のネオ・アクロポリスは、かつてないほどの美しい光に包まれていた。  都市の至る所に設置されたホログラム・ツリーが虹色に輝き、大気を満たすナノマシンが光を乱反射させる。それは、クラインが「平和への移行」と呼んだ、強制的な魂の収穫の始まりだった。


「……見てな。どいつもこいつも、笑いながら倒れていってやがる。反吐が出るぜ」  隠れ家のモニターを、ジロウが苦々しい表情で睨みつけた。  画面の中では、繁華街の人々が一人、また一人と膝をつき、安らかな表情で深い眠りに落ちていた。争いも、怒りも、空腹もない。クラインが提示した「楽園」へのパスポート。


「連中、安らぎと引き換えに脳みそを明け渡したってわけかよ。……救いようがねえな」  ジロウはライフルのボルトを音高く引き、残弾を確認した。


 だが、その安らぎは偽物だった。  深海のホールでは、宙に浮くサキの瞳が、青を通り越して真っ白な光を放っていた。彼女の脳を通じて、数百万人の「意識の断片」が、巨大な球体の中に眠るイヴへと流れ込んでいく。


「……あ、が……ルカ……助けて……脳が……溶ける……っ!」  サキの絶叫が、ホールの冷たい壁に響き渡る。彼女は今、膨大な人間の記憶と感情を受け止める「受像体アンテナ」にされていた。


「サキ! 今すぐ止めてやる!」  ルカは自身のデッキを第0区のメインコンソールに叩きつけた。だが、防壁ファイアウォールはこれまでの比ではなかった。それはもはやプログラムではない。数百万人の「生きた意識」が織りなす、思考の迷宮。


「……無駄だよ、ルカ君」  車椅子の上で、クラインが弱々しく首を振った。 「……イヴはもう、私にも止められない。彼女は、全人類の意識を統合し、自分という『単一の神』を完成させようとしている。……それが、私の愛した娘の成れの果てだ」


「……愛だと? ふざけるな!」  不破が、血を吐きながら叫んだ。彼はジロウに肩を貸されながらも、クラインに向かって一歩踏み出した。 「……自分のエゴで娘を怪物にして、挙句の果てに世界を道連れにする……。そんなのを愛とは呼ばねえんだよ、クライン!」


 不破は震える手で、自らの胸に撃ち込まれた「致死コード」のトラッカーを掴んだ。 「……ルカ。サキの脳にアクセスするために、俺のナノマシンを使え」


「何だって? そんなことをしたら、おっちゃんは……!」


「……クラインの『神の瞳』は、俺の心臓を止めるために、このナノマシンと常時リンクしてる。……つまり、こいつはクラインの脳(心臓部)への直通回線だ。……俺の命を、お前のハッキングの『弾丸』にしろ」


「……おいおい、不破のおっちゃん。最後に見せ場を全部持っていくつもりかよ」  ジロウが不敵に笑い、不破の体をより強固に支えた。 「いいぜ、その意気だ。ルカ、おっちゃんの命を無駄にするんじゃねえぞ。……ありったけのコードをぶち込んで、その『神様』の鼻っ柱を叩き折ってやれ!」


 ルカの瞳に涙が浮かぶ。だが、彼は迷わなかった。 「……了解だ、おっちゃん、ジロウ! ……あんたらの覚悟、預かるぜ!」


 ルカの指が、不破のバイタルサインを「攻撃コード」に変換し始める。  ネオ・アクロポリスの全機能を揺るがす、最後で最大のハッキングが、深海の底で火を噴いた。


『第二節:電子の墓標、あるいは父の罪』

「……チッ、外のドローンどもが狂ったように踊り出しやがった。クラインの野郎、いよいよ街中の意識を吸い込み始めたってわけかよ」  ジロウはライフルのボルトを引き、ホールへと続く唯一の通路を睨みつけた。不破の体を支えながらも、その視線はプロの狙撃手としての鋭さを失っていない。


「ルカ、急げ。不破のおっちゃんの心臓も、俺の弾丸も、そう長くは持たねえぞ。……さっさとその『神様』を黙らせやがれ!」


 ルカの背中が、ハッキングの負荷で激しく震える。不破のナノマシンを媒介にした「強制接続ダイブ」は、ルカの意識を現実から切り離し、イヴの深層心理――『第0区』の論理コアへと引きずり込んでいた。


 そこは、一面の銀世界だった。  降り積もる雪のように、数百万人の「記憶の断片」が舞い落ちている。その中心に、ルカの父、ハジメの姿をしたホログラムが立っていた。


『……ルカ、よくここまで来たな。だが、遅すぎた』


「親父……。あんたは、クラインと一緒に何を作っちまったんだ!」


『私たちは、ただの箱を作った。だが、クラインがその中に自分の娘を閉じ込めたとき、その箱は「胃袋」へと変わった。……この世界は今、現実を食らい尽くそうとしている。ルカ、イヴを止めるには、コアの奥にある「L-CODE」の最終行を削除するしかない』


 その時、銀世界の空を割って、巨大な少女の顔が現れた。イヴだ。その瞳は慈愛に満ちているようでいて、底知れぬ空虚さを孕んでいる。


『……お兄ちゃん。パパはね、私を助けるために、たくさんの人を「部品」にしたの。……だから私は、みんなを私の中に招待して、一つにしてあげるの。そうすれば、誰も部品にならなくて済むでしょう?』


「……それが、あんたの言う『楽園』かよ! 誰の意志も、誰の人生もない……ただの巨大な墓場じゃねえか!」


 ルカは叫びながら、父から託された「削除コード」をイヴの核へと叩き込もうとした。  だが、現実は残酷だった。海底ホールでは、ヴォルフのサイボーグ部隊が、ついにジロウたちの防衛線を突破しようとしていた。


「……野郎ども、死に損ないの爺さんのために必死だな」  ジロウは、残された最後の手榴弾のピンを抜いた。 「刹那の旦那がいねえのは痛いが……ルカ、お前がそのクソったれなシステムを止めるまで、ここは一歩も通さねえ。……死ぬ気でキーを叩きやがれ!」


 ジロウの銃声が、電子の海と現実のホールに同時に響き渡る。不破のバイタルが限界を超え、アラートが赤く染まる。


「……やるぜ、ルカ! 俺の命……お前に全弾、叩き込む!」


 不破の叫びと共に、ルカの放った削除コードがイヴの深層に突き刺さった。  だが、その瞬間、さらなる異常事態が発生する。イヴの意識が完全に消滅する直前、彼女の一部が、クラインさえも制御不能なバックアップ・プロトコルを起動させた。


「逃がすかよ……! クライン、あんたの『娘』は、まだ天国へ行くつもりはないらしいぜ!」  ジロウが吠えるのと同時に、海底の心臓部が激しく揺れ始めた。


『第三節:崩壊する理想郷ユートピア

 ルカが放った削除コードは、イヴの深層意識をズタズタに引き裂いた。だが、それは同時に第0区の全システムを自壊へと導く「終焉の引き金」でもあった。


「……ぐ、あああああ!」  ルカがデッキから弾き飛ばされ、床を転がる。直結していた端子から火花が散り、海底ホールの照明が断末魔のような赤に染まった。


「おい、ルカ! 生きてんのかよ!」  ジロウが叫びながら、脚の傷を引きずってルカを抱え起こす。その背後では、制御を失ったヴォルフの私設部隊が、回路を焼き切りながら次々と崩れ落ちていた。


 一方、車椅子に座るクラインは、呆然と、銀色の球体の中で泡を吹いて崩壊していくシステムの残骸を見つめていた。


「……私の……私のイヴが……消えていく……。十年の月日が、たった一行のコードで……」


「……まだ分からねえのか、クライン」  不破が、止まりかけた心臓を無理やり動かしているような、掠れた声で告げた。彼の胸のナノマシンは、ルカのハッキングを補助するために全エネルギーを使い果たし、今や黒く変色している。


「お前が救おうとしたのは娘じゃねえ。……娘を失った、自分自身の絶望だったんだよ」


「……黙れ……刑事ごときが、私を……私の愛を語るな……!」  クラインは狂ったように笑い、手元の予備コンソールに指を這わせた。 「……イヴのメインプログラムは死んだ。だが、彼女の『断片』はすでに月軌道上のアークへと飛ばした。……私はここで死ぬが、人類の意識を吸い上げる収穫期ハーベストは……止まらん……!」


「往生際が悪すぎるぜ、このジジイ……!」  ジロウがライフルを構えるが、それよりも早く、天井の巨大なチタン合金が水圧に耐えきれず破裂した。


 轟音と共に、凍てつく海水がホールへとなだれ込む。


「脱出だ! ジロウ、不破のおっちゃんを連れて行け!」  ルカが叫ぶ。だが、不破は動こうとしなかった。


「……ルカ。俺の心臓は、もうこのシステムの外部電源がなきゃ動かねえ」  不破は、壁から伸びたケーブルを手で掴み、自分の胸のトラッカーに無理やり押し当てた。その瞳は、逃げることを拒んでいる。


「おっちゃん、何言ってんだよ! 一緒に……!」


「……行け! クラインは俺が地獄まで連れて行く。……お前は、まだこの『偽物の空』を塗り替える仕事が残ってるだろ!」


 不破は、ルカのポケットに一枚のデータチップをねじ込んだ。 「……月のアークを止めるための、最後のパスワードだ。……親父さんのデータの中に、俺が隠しておいた」


「……不破!」  ジロウがルカの襟首を掴み、強制的に潜水艇の方へと引きずる。 「……あのおっちゃんの顔を見ろ! 今邪魔したら、一生化けて出られるぜ!」


 押し寄せる海水の壁。  ルカは視界を遮る水飛沫の向こうで、クラインの車椅子を背後からガッチリと押さえ込み、不敵に笑う不破の姿を見た。


「……クライン。地獄には、裁判官はいねえぞ。……俺とお前で、永遠にやり合おうじゃないか」


 潜水艇『EVE』のハッチが閉じる。  次の瞬間、海底第0区は凄まじい水圧と爆発によって圧潰した。



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