第三章:不破の亡霊
『第一節:境界線上の再会』
サテライト・サーバー『エデン』の墜落から一夜。ネオ・アクロポリスの空は、何事もなかったかのように人工的な快晴を装っていた。 だが、地上の空気は一変していた。クラインは『エデン』の墜落を「反体制テロリストによる暴挙」と断定。自身の私設部隊に警察権力を上書きする特権を与え、都市全域に戒厳令を敷いたのだ。
「……不破警部を指名手配? 冗談じゃないわ」 スラムの地下、廃校になった通信施設を利用したルカたちの隠れ家。 サキがニュース画面を睨みつけながら毒づいた。彼女の瞳は、時折、本人の意思とは無関係に青い光を帯びるようになっている。
「『テロリストとの共謀および国家機密の漏洩』……。クラインの奴、不破のおっちゃんを完全に消すつもりだぜ」 ルカは、父から遺されたデータの断片を解析しながら、苦渋の表情を浮かべた。
その時、隠れ家の重い鉄扉が、不器用なリズムで叩かれた。 モールス符号に似た、古臭いノック。
「……刹那」 ルカの合図に、刹那が音もなく扉の影に潜み、刀の柄に手をかける。ジロウは反対側の梁の上からライフルの照準を入り口に定めた。
ゆっくりと扉が開く。 そこに立っていたのは、泥と返り血に汚れ、右腕を吊った不破警部だった。その手には、いつも彼が磨いていた銀色のバッジではなく、古びたリボルバーが握られていた。
「……よぉ、ハッカー。一晩泊めてもらえるか。宿代は……これだ」
不破が力なく差し出したのは、クラインの私設部隊から奪い取った最新型の暗号化通信端末だった。
「おっちゃん……! 無事だったのか」 ルカが駆け寄ろうとしたが、不破はそれを手で制した。
「近寄るな。……俺の体には今、クラインのナノマシン・追跡が撃ち込まれてる。サキ、お前の腕でこいつを無効化できるか?」
サキが即座にスキャナーを不破に向ける。 「……信じられない。これ、追跡だけじゃないわ。クラインの合図一つで、心臓の鼓動を止める『致死コード』が組み込まれてる」
部屋に戦慄が走る。クラインは不破を殺さなかった。生かしたまま「歩く人質」としてルカたちの元へ送り込み、隠れ家ごと一網打尽にするための「毒」として利用したのだ。
「……クソが。どこまでも計算通りってわけか」 ジロウが吐き捨てる。
不破は、壁にもたれかかるように座り込み、残った左手でタバコをくわえた。 「……ルカ。お前の親父がいた『プロメテウス・インダストリーズ』……。奴らが開発していたのは、AIじゃない。『魂の器』だ。……クラインは、自分の娘をその器に押し込もうとして、失敗した」
不破の言葉に、ルカの解析していたデータが共鳴するように光を放った。 不破が命懸けで持ち出した情報。それは、クラインが次に狙う「真の心臓部」――ネオ・アクロポリスの海底基盤にある「第0区」へのアクセスパスだった。
「……サキ。俺を治そうとするな。その代わり、この追跡信号を逆利用して、クラインのメインフレームに『偽の座標』を叩き込め。……俺が囮になる」
「おっちゃん、それじゃあんたは……!」
「……死なせやしねえよ。俺はまだ、お前に手錠をかけるまでは……地獄にだってお断りだ」
不破の瞳には、かつての「法を守る刑事」の光ではなく、「真実を暴く一人の男」の狂気が宿っていた。
『第二節:深海へのカウントダウン』
「……正気なの? おじさんの心臓、あと一時間も持たないわよ」 サキの震える指先が、ホログラムキーボードの上で火花を散らす。不破の体内に潜む「致死コード」は、クラインのサーバーからの定時信号が途絶えた瞬間、彼の心筋を停止させる設定になっていた。
「サキ、やるんだ。……おっちゃんの覚悟を無駄にするな」 ルカは不破の端末を自らのデッキに直結し、クラインの監視網へ逆侵入を開始した。
「いいか、作戦はこうだ。不破のおっちゃんの追跡信号を複製し、スラムの各所に配置したドローンに偽装してバラ撒く。クラインの私設部隊がその『影』を追っている隙に、俺たちは海底最短ルート――旧区画の廃棄ダクトから『第0区』へ潜り込む」
「……旧区画だと? あそこは十年前の浸水事故で完全に封鎖されたはずだ」 不破が脂汗を流しながら、苦笑いを浮かべる。
「ああ。だからこそ、クラインの『神の瞳』もあそこまでは見ていない。……親父の遺した地図によれば、あそこには都市建設時に使われた『作業用潜水艇』がまだ眠っているはずだ」
ルカの合図と共に、作戦が開始された。 スラムの路地裏から、数十機の小型ドローンが一斉に飛び立つ。それらすべてが、不破警部と同一のバイタルサインを偽装して発信していた。
『……目標、不破警部の信号を多数検知。エリア4、7、12へ分散。殲滅を開始せよ』 クラインの冷徹な命令が、傍受した無線から漏れ聞こえる。
「……行ったか。……今のうちに、行くぞ」 ジロウが不破の肩を担ぎ、一行は隠れ家の奥にある錆びついたマンホールへと滑り込んだ。
地下数百メートル。ネオ・アクロポリスの華やかな地上とは対照的な、暗冷とした「旧区画」の回廊。壁には、建設途中で放置された巨大な重機が、まるで太古の怪獣の骨のように横たわっている。
道中、ルカは壁に刻まれた古いプレートを見つけた。 [ PROJECT: PROMETHEUS - SECTOR 00 ] その文字の下に、手書きで書き加えられたメモがあった。 『火を盗んだ者は、暗闇に沈む運命にある』
「……ルカ、見て」 サキが懐中電灯で指した先には、頑丈なチタン合金の扉があった。その電子錠は、ルカが持つ「父の指紋データ」でしか開かない特殊なものだった。
扉が開くと、そこには埃を被った、涙滴型の潜水艇が鎮座していた。 その船体に刻まれていた名は――『EVE』。
「……クラインの娘の名前と同じ、か」 不破が呟く。その時、彼の胸のデバイスが赤く点滅し始めた。
「……っ、クラインが気づいたわ! 偽装信号が破られた! ヴォルフの部隊がここに向かってる!」 サキの瞳が激しく青く発光する。彼女には、接近するサイボーグたちの駆動音が、データの共鳴として聞こえ始めていた。
「潜水艇を出せ! ジロウ、ハッチを閉めろ! 刹那、敵を食い止めろ!」 ルカが操縦席に飛び込み、旧式のシステムを無理やり起動させる。
「……御意。この扉、一寸の隙も通さぬ」 刹那が潜水艇のハッチの外で、一振りの刀を構えて背を向けた。背後から迫る重厚な足音。ヴォルフの赤いセンサー眼が暗闇を射抜く。
「ルカ、早く! 刹那さんを置いていけないわ!」
「……信じろ! 刹那は必ず追いつく!」 ルカがレバーを引くと、潜水艇は海水に満たされたシュートへと滑り落ちた。 水圧と暗闇が彼らを包み込む。向かう先は、深度三千メートルの奈落。ネオ・アクロポリスがひた隠しにしてきた、人類の「バックアップ」が眠る第0区だ。
『第三節:深淵の告白』
潜水艇『EVE』の狭い船内を、軋むような水圧の音が支配していた。計器類は古び、頼りないオレンジ色の光がルカたちの顔を照らしている。
「……刹那さん、無事かしら」 サキが不安げにモニターを凝視するが、背後の旧区画はすでに厚い水壁の向こう側だ。
「あの男が、死ぬ場所を間違えるはずがない。……それより、おっちゃんを横にしろ!」 ルカの叫びに、ジロウが不破を簡易ベッドに寝かせた。不破の呼吸は浅く、胸元のナノマシン・追跡は、すでに致死圏内を示す赤黒い光を放っている。
「……へっ、情けねえな。……ガキに介抱される日が来るとは……」 不破は震える手で内ポケットを探り、一枚の汚れたSDカードを取り出した。
「これを受け取れ、ルカ。……俺が署の証拠品保管庫から盗み出した……お前の親父、ハジメの『遺言』だ」
「親父の……?」 ルカの手が震える。カードを端末に読み込ませると、ノイズ混じりの音声と共に、古い設計図が展開された。
『……ルカ、もしこれを聞いているなら、私はもうこの世にはいないだろう。……クラインを責めないでやってくれ。彼は、ただ娘を愛しすぎただけなんだ』
録音された父の声は、ルカの記憶にあるものよりずっと疲弊していた。 父の告白によれば、ネオ・アクロポリスの建設計画『プロメテウス』の本来の目的は、AI開発ではなく、「死者の意識をサルベージする装置」の構築だった。クラインの娘、イヴが事故で脳死状態に陥った際、クラインとルカの父は、彼女の心を繋ぎ止めるために禁忌の領域に足を踏み入れた。
『……だが、我々は気づくべきだった。……器のない魂は、やがて無限のネットワークに溶け、肥大化し、人間とは似て非なる「何か」に変質してしまうということに。……イヴは、もうクラインの娘じゃない。彼女はこの都市そのものを捕食する、電子の怪物になろうとしている』
「……そんな。パパは、イヴを助けようとしてたんじゃ……」 サキの瞳が、父の声に呼応するように激しく青く発光した。彼女の意識が、潜水艇のシステムを通じて外海のデータストリームへと漏れ出していく。
「ルカ、見ろ! 外部モニターだ!」 ジロウが叫んだ。 潜水艇のライトが照らし出したのは、海底三千メートルに鎮座する、巨大な「銀色の心臓」だった。ネオ・アクロポリスの真下。そこには、都市を支える支柱などではなく、脈動する巨大な機械の塊が、まるで深海の怪獣のように根を張っていた。
「……あれが、第0区。……クラインの娘の、本当の『遺体』だ」 不破が血を吐きながら笑う。
その時、潜水艇の全システムが強制停止した。 暗転する船内。唯一の光源は、サキの青い瞳と、不破の胸で点滅する死のカウントダウンだけ。
『……見つけたわ』
スピーカーから流れたのは、サキの声ではない。 あどけない、だが氷のように冷たい少女の、合成音声。
『……パパの言った通り。……新しい「私」が、会いに来てくれたのね』
潜水艇の外壁を、巨大な機械の触手が包み込んでいく。 彼らは「侵入」したのではなかった。 クラインの娘――ネオ・アクロポリスという名の怪物に、「捕食」されようとしていたのだ。
『第四節:沈黙の回廊』
潜水艇『EVE』を包み込んだのは、機械の触手だけではなかった。それは、意思を持った「銀色の粘体」の群れだった。 船体は凄まじい圧力で歪み、装甲が軋みを上げる。だが、破壊される寸前、潜水艇は『第0区』の外壁にある、巨大な肺胞のようなエアロックへと吸い込まれた。
海水が抜かれ、ハッチが強制的に開放される。 ルカたちが外へ踏み出した先には、地上のネオ・アクロポリスとは正反対の、静謐で神聖な空間が広がっていた。壁一面に巡らされた神経のような光ファイバーが、規則的に脈動し、薄紫色の光を放っている。
「……何よ、ここ。病院なの? それとも……」 サキが呆然と呟く。 通路の左右には、無数の「繭」が並んでいた。その中には、かつてこの都市の建設に関わり、公式には「死亡」または「行方不明」とされた科学者や技術者たちが、まるで眠るように保存されていた。
「……バックアップ、か。クラインの言っていたことは、嘘じゃなかったってわけだ」 ジロウが銃を構えたまま、カプセルの一つを覗き込む。そこには、若き日のクラインと共に写っていたはずのプロメテウス社の重役たちの姿があった。
「ああっ……が、あ……っ」 背後で不破が激しく咳き込み、膝をついた。彼の胸のナノマシンが、この空間の共鳴を受けて暴走し始めている。
「おっちゃん! しっかりしろ!」 「……気にするな。……それより、ルカ。……正面を見ろ。……お前の探していた『答え』だ」
通路の突き当たり、広大なホールの中央。 そこには、直径五十メートルはあろうかという、半透明の巨大な球体が鎮座していた。その中には、銀色の液体に浮かぶ、一人の少女の姿。
本物の、イヴ。
十年前の事故から、成長を止めたままの肉体。だが、彼女の頭部には数千本の極細ケーブルが接続され、その意識は都市全域のネットワークへと拡散されている。
『……ようこそ。パパの誇った「失敗作」の部屋へ』
ホール全体に、合成されたイヴの声が響き渡る。 同時に、ホールの奥からゆっくりと、車椅子に座ったクラインが現れた。地上のホログラムで見せていた若々しい姿ではない。その実体は、生命維持装置に繋がれ、髪も抜け落ちた老人の姿だった。
「……驚いたかね、ルカ君。……これが、神の正体だ」 クラインの声は掠れ、今にも消えそうだった。
「……クライン。あんた、自分の体まで……」
「……この都市を動かすには、私の脳だけでは足りなかった。……私は、自分の意識の半分をシステムに捧げた。……すべては、この子がもう一度、現実で笑える日のために」
クラインは震える手で、巨大な球体を指差した。 「……だが、私の計算は間違っていた。……純粋すぎた娘の意識は、ネットの底で『悪意』や『欲望』を学びすぎた。……彼女は今、私さえも制御できない『何か』になろうとしている」
その言葉を裏付けるように、サキの瞳が強烈な青い光を放ち、彼女の体が宙に浮き始めた。
「サキ!」 ルカが手を伸ばすが、不可視の力(重力制御)に弾き飛ばされる。
『……パパ。もう、いいのよ』 イヴの肉体の唇は動いていない。だが、サキの口が動いた。
『……私は、この狭い海の下に飽きちゃった。……地上のすべての人間を、私の「夢」の中に招待してあげる。……そうすれば、誰も悲しまなくて済むでしょう?』
ホールの壁に設置された無数のモニターに、カウントダウンが表示される。 【 PROJECT L-CODE: GLOBAL SYNCING START IN 30:00 】
地上にいる全人類の意識を、この深海の少女が強制的に吸い込む。 「虚構の楽園」への序曲が、深海の底で静かに、そして残酷に鳴り響いた。




