第二章:『成層圏の城』
『第一節:高度一万メートルの密室』
ネオ・アクロポリスの空を、一機のステルス輸送機が音もなく切り裂いていた。目的地は、成層圏に滞留する超高度サテライト・サーバー『エデン』。 地上でのカジノ潜入でルカが掴んだ『神の瞳』の異常データ――それは、この「空の城」が単なる監視装置ではなく、都市全域に特殊なナノマシンを散布するための「散布拠点」として機能し始めているという驚愕の事実だった。
「気圧低下、マイナス10。酸素マスクを忘れるなよ」 操縦桿を握るジロウが、低く落ち着いた声で告げる。
「わかってるって。……それより、サキ。ジャミングの具合はどうだ?」 ルカは貨物室の片隅で、端末を膝に置きながら尋ねた。
「完璧よ。……と言いたいけど、相手は『神の瞳』の本体直結。私のプログラムを秒単位で解析してくる。持ってもあと五分ね。それを過ぎたら、空飛ぶ標的の出来上がりよ」 サキの指先がキーボードの上で踊る。彼女の瞳には、サーバーから逆流してくる膨大なログが青白く反射していた。
「五分か。上等だ。……刹那、準備はいいか?」
「……いつでも。電子の刃では届かぬ場所、拙者の鋼が道を切り拓こう」 抜刀の準備を整える刹那の静かな気迫が、狭い機内に満ちる。
ルカたちがこの無謀な強襲に踏み切ったのは、地上の不破警部からの「密告」があったからだ。 カジノの一件以来、不破は上層部から徹底的な監視下に置かれていた。しかし彼は、古い無線機を使い、ICPOの網を掻い潜ってルカに情報を流した。 『クラインが「種まき」を始めた。エデンが起動すれば、スラムの住人は文字通り家畜にされるぞ』……と。
「よし、ハッチ開放! ターゲットはエデンの外部物理ポート。……この空の城を、物理的に黙らせてやる!」
ルカの叫びと共に、輸送機の後部ハッチが開いた。 眼下には、ネオ・アクロポリスの偽りの夜景が広がり、前方には巨大な、白亜の塔のようなサテライト・サーバーが浮かんでいる。
三人は、凍てつく成層圏の闇へと身を投げた。 それは、クラインが築き上げた「完璧な空論」に、泥棒たちが物理的な鉄槌を下すための跳躍だった。
しかし、彼らはまだ知らなかった。 エデンの深部では、クラインが設計した「最初の希望」の断片が、侵入者を待ち構えるように脈動していることを。
『第二節:電子の処刑場』
成層圏の極低温を突き抜け、ルカたちは『エデン』の外壁へと取り付いた。 真空に近い沈黙の中、刹那が振るった高周波ブレードが、サーバーの重厚なハッチを音もなく切り裂く。内部へ滑り込んだ瞬間、彼らを迎えたのは、無機質なLEDの点滅と、耳を刺すような冷却ファンの駆動音だった。
「侵入成功。……だけど、静かすぎるわね」 サキが警戒を露わにする。彼女が操作する端末の画面には、本来あるはずの防衛プログラムの反応が一切なかった。
「……罠か、あるいは歓迎か」 ジロウがライフルのストックを肩に押し当て、通路の奥を睨む。
その時、通路中のモニターが一斉に起動した。 映し出されたのは、優雅にワイングラスを傾けるクラインの姿だ。地上から一万メートル離れたこの場所でも、彼の声はすぐ隣にいるかのように鮮明だった。
『ようこそ、ネオ・アクロポリスの亡霊諸君。……不破警部からの「贈り物」は届いたかな?』
「……不破を売ったのか、クライン!」 ルカがコンソールに指をかける。
『売る? 違うな。私は彼を「試した」のだ。彼が君たちに情報を流すことは、私の計算に含まれていた。……ルカ、君がここに来なければ、このサーバーの「最終調整」が完了しなかったのだよ』
モニターの中で、クラインが指を弾く。 突如、エデン全体の振動が変わり、高度が急速に下がり始めた。重力加速度がルカたちの体に重くのしかかる。
「高度低下……時速100キロ!? 何を考えてるのよ、この馬鹿!」 サキが叫ぶ。
『この『エデン』は、高度を維持するための燃料として、巨大な液体窒素タンクを搭載している。それを今、切り離した。……あと三十分で、この巨大な鉄の塊はアンダー・ドック――君たちの愛するスラム街の中央に墜落する』
「……っ、住民を人質にするつもりか!」
『人質ではない。これは「選別」だ。無能な者たちが死に、有能な君たちがここで死を回避するために私のコードに従うか……。さあ、選択したまえ。スラムの数万人を見捨てるか、それとも君たち自身がこのサーバーの一部となって墜落を止めるか』
同時に、通路の奥から防衛ドローンの群れが、死神の羽音を立てて迫り来る。 クラインの狙いは明白だった。ルカに墜落阻止のための複雑なコードを書かせ、その過程でルカの思考パターンを「神の瞳」に完璧にコピー・学習させること。ルカの「天才的なハッキング能力」を、システムの一部として取り込むための罠。
「……ルカ。墜落阻止のコードを書き始めろ。敵は、拙者が一歩も通さぬ」 刹那がドローンの前に立ち塞がる。
「ジロウ、サキ! 外壁の姿勢制御スラスターを物理的にハッキングしてくれ。……クライン、あんたの計算をゴミ箱に放り込んでやる!」
ルカの指が、かつてない速度でキーを叩き始める。 しかし、その画面の隅に、クラインさえも気づいていない「ノイズ」が走った。 一瞬だけ表示された、白いワンピースの少女のシルエット。
(……逃げて。……ここは、パパの「お墓」なの)
イヴの警告が、ルカの意識に直接響いた。 墜落までのカウントダウンが、死の拍動のようにエデンの回廊に響き渡る。
『第三節:不破の「足」とクラインの「計算」』
不破がクラインの私室にいたのは、単なる捜査の結果ではない。 数時間前、クラインはICPO上層部へ強力な圧力をかけ、不破を「公式な連絡官」として指名・召喚していたのだ。表向きは『ルカ捕縛に向けた官民一体の協力』。だが、その真の目的は、クラインにとって計算不能な不確定要素である不破を、自分の監視下に置き、あわよくばその「執念」を自分のAIの一部として取り込むための「勧誘」だった。
「……これを見たまえ。不破警部。君が追い続けている『答え』がここにある」
クラインが指先で空間をなぞると、豪華な執務室の空気が一変した。 三次元ホログラムによって、不破の自宅の居間が完璧に再現される。そしてそこには、五年前のあの日、不慮の事故で命を落としたはずの不破の妻が、穏やかな表情で紅茶を淹れていた。
「……っ」 不破の喉が鳴る。
『あなた、お帰りなさい。……今日も遅かったのね』
ホログラムの妻は、生前と全く同じ声、同じ角度で首をかしげ、不破に微笑みかけた。クラインが『神の瞳』に蓄積された膨大な個人ログ、医療データ、そして不破自身の記憶から逆算して作り上げた「完璧な死者の再構築」。
「……これは、悪趣味な人形遊びだ。クライン」 不破の声は怒りで掠れていた。だが、その瞳は画面の中の妻から離れることができない。
「人形ではないよ。彼女の意識パターン、感情の揺らぎ、そして君への愛。すべてをアルゴリズムとして復元した。……私が進める『L-CODE』が完成すれば、彼女は単なる映像ではなく、実体を持った存在として君の元へ帰る。デジタルは肉体の衰えも、不条理な死も克服するのだ」
クラインはワインを啜り、鏡のように磨かれたデスク越しに不破を見つめた。 「君ほどの男が、なぜ古臭い刑事の身分に固執する? 警察組織は、権力者が都合よく正義を書き換えるための道具に過ぎない。……だが、私の下へ来れば、君は『真の正義』を執行する神の右腕になれる。そして、最愛の妻と永遠に暮らすことができるのだ」
不破は、ゆっくりと歩み寄った。ホログラムの妻が、彼に触れようと手を伸ばす。 不破の手が、妻の頬に重なり――そして、虚空を通り抜けた。
「……確かに、お前の言う通りだ」 不破が低く呟く。
「ほう、理解してくれたか」
「警察ってのは、泥臭くて、不条理で、救いようのない組織だ。……俺の妻を殺した飲酒運転の犯人も、有力者の息子だって理由で罪を逃れた。俺はその時、自分のバッジを呪ったよ」
不破の拳が、震えながら握り込まれる。
「……だがな、クライン。お前が作ったこの女は、俺の妻じゃない」
「何だと? データの整合性は100%だ」
「俺の妻はな……俺が仕事に夢中になって、記念日を忘れるたびに、本気で怒って、三日は口をきいてくれなかった。……そんな『面倒な人間味』まで、お前の計算式には入ってるのか?」
不破は腰のホルスターから、最新の電磁銃ではなく、長年使い古したリボルバーを引き抜いた。
「お前が求めているのは『平和』じゃない。誰も逆らわない、死んだように静かな『管理』だ。……俺は、刑事だ。お前の言う『神の正義』なんて興味はない。……俺は、この不条理な現実で、足掻きながら生きてる人間たちのために、この汚れたバッジをぶら下げてるんだよ!」
不破が銃口を向けたのは、クラインではなく、部屋の隅にある巨大なデータ・サーバーだった。
「不破、よせ! そのサーバーを撃てば、エデンの姿勢制御に干渉できなくなるぞ! スラムが全滅してもいいのか!」
「……ルカを信じろと言ったのは、俺の方だ」
不破の引き金が引かれた。 爆音。 サーバーから激しい火花が散り、部屋を彩っていた幸せな家庭のホログラムが、ノイズと共に掻き消える。最後に一瞬だけ、妻の顔が悲しげに歪み、光の粒子となって霧散した。
「……あばよ、クライン。俺は俺のやり方で、お前の完璧な世界をぶち壊してやる」
暗転した部屋の中、不破は隠し持っていた通信機を叩いた。
「……ルカ。聞こえるか。……お前の『親父さん』のデータの一部を、今、お前の端末に投げた。……クラインが一番隠したがっていた、都市の『心臓』の場所だ。……後は、任せたぞ」
通信の向こうで、高度一万メートルを落下中のルカが、不敵に笑う気配がした。
『第四節:墜落の秒読み(カウントダウン)』
『エデン』の高度はすでに五千メートルを切っていた。摩擦熱で外壁が悲鳴を上げ、船内には警告音が狂ったように鳴り響く。
「ルカ、急いで! 姿勢制御スラスターのロックが外れない! クラインが強制書き換え(オーバーライド)をかけてる!」 サキの叫びは、防衛ドローンの爆発音にかき消されそうだった。
通路では、ジロウがライフルの銃身を熱くさせながら、次々と現れる自動機械兵を正確に撃ち抜いていた。 「弾が持たねえぞ! 刹那、そっちはどうだ!」 「……案ずるな。この一歩、死神にさえ譲るつもりはない」 刹那の周囲には、一刀両断されたドローンの残骸が積み上がっている。しかし、その背後の壁を突き破り、クラインの懐刀――全身サイボーグの巨漢、ヴォルフがその姿を現した。
一方、メインコンソールに直結したルカの視界は、もはや現実を離れ、純粋な情報の激流の中にあった。
「……これか、クラインの『鍵』は……!」
ルカの脳内に直接、不破から送られた「親父のデータ」が流れ込む。それは、ネオ・アクロポリスの全機能を一時的にバイパスする特権だった。 だが、そのデータに触れた瞬間、システムが激しく拒絶反応を起こした。
「が……ぁぁぁぁっ!」 ルカの神経を逆流する電気信号が襲う。その時、隣で同じくシステムに干渉していたサキの様子が一変した。
「……あ、あ、あああああ!」
サキの瞳が、これまでの電子的な輝きを凌駕するほど鮮烈な「青」に染まった。彼女の指先が、人間には不可能な速度でキーボードを叩き始める。
「サキ!? やめろ、脳が焼き切れるぞ!」 「……ダメ……届かない……あと少しで……『彼女』が……」
サキの意識は、サーバーの深層に眠る「イヴ」の残滓に触れていた。 クラインが隠し、不破が暴き、父が遺した場所。そこには、ネオ・アクロポリスという都市そのものを「心臓」として鼓動する、未完成の神がいた。
「サキ、戻ってこい! 姿勢制御だけをやればいいんだ!」 ルカがサキの手を掴もうとした瞬間、サキの口から、彼女のものではない「幼い少女の声」が漏れた。
『……パパを、止めて。……この星が、壊れちゃう』
その直後、サキの瞳から青い閃光が放たれ、エデン全域のシステムが再起動した。 姿勢制御スラスターが猛然と火を噴き、落下の衝撃に備える。
「……っ、姿勢制御、復旧! 座標修正、海域へ!」 ルカは意識を失いかけたサキを抱き寄せ、最後のコマンドを叩き込んだ。
『エデン』はスラム街のわずか数百メートル上空をかすめ、大気を引き裂く轟音と共に、ネオ・アクロポリス近海へと着水した。巨大な水柱が上がり、衝撃波がスラムの家々を揺らしたが、死者はゼロ。ルカたちの完全な勝利に見えた。
だが、救出されたサキが目を覚ましたとき、その瞳の奥には、消えることのない微かな「青い光」が灯ったままだった。




