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第一章:『亡霊は1と0の海を泳ぐ』

『第一節:虚飾の海、あるいはデジタルの泡』

 20XX年、シンガポール沖。漆黒の海面に突き刺さるようにそびえ立つ「ネオ・アクロポリス」は、それ自体が巨大な発光体のようだった。国家という枠組みを捨て、データの海に浮かぶ独立した神殿。その最上階にあるカジノ『バベル』の空気は、高濃度の酸素と、勝利を確信する富豪たちの傲慢な体温で満ちている。


 ルカはバーカウンターの端で、琥珀色のバーボンをゆっくりと回していた。氷がクリスタル・グラスに触れ、乾いた音を立てる。  彼の視界には、網膜に直接投影されたAR(拡張現実)のオーバーレイが重なっている。そこには、一般の客には見えない「真実」が映し出されていた。


「……ひどいもんだな。空気の成分から客の心拍数まで、クラインのAIに筒抜けだ」


 ルカが小声で呟くと、耳の奥に埋め込まれた超小型インカムから、サキの涼やかな声が返ってきた。


『文句を言わないで。その監視網グリッドのおかげで、この街の犯罪率は0%なんですって。……表向きはね』


 サキは今、VIPエリアのソファーで、ある政府高官と談笑している。彼女のドレスは、周囲の照明に合わせてリアルタイムで色調を変えるスマート・ファブリック製だ。その胸元に光るサファイアのブローチは、実は周囲の電磁波をスキャンし、暗号化された通信ログを盗み出す吸い出しスキマーでもあった。


「0%か。俺たちがその記録を汚してやるのが、一番のボランティアになりそうだな」


 ルカの視線が、会場の奥へと向けられる。そこには、金色の装飾が施された防弾ガラスの向こう側で、一人静かにワインを楽しむ男がいた。マクシミリアン・クライン。この都市の神であり、同時にこの巨大な「檻」の主だ。


『ルカ、あまり見つめすぎないで。彼の側近にいるヴォルフは、視線の熱量だけで敵意を検知するっていう噂よ』


「ああ、あのサイボーグの猟犬か。……ジロウ、そっちは見えてるか?」


 ルカの問いに、数秒の空白があった。やがて、重苦しい銃爪トリガーの感触を思わせる、硬い声が返ってくる。


『……風速3メートル。湿度は80を超えている。最悪のコンディションだ。だが、あの猟犬の首なら、いつでも飛ばせる。……あとの掃除は、あの「古風な男」に任せるとしよう』


 一キロ先、隣接するデータセンターの屋上。ジロウは熱光学迷彩のシートに身を隠し、愛銃の長い銃身を夜の闇に溶け込ませていた。


 ルカは再びグラスに口をつけた。バーボンが喉を焼く。  この『バベル』において、物理的な「ゴールド」や「紙幣」はもはや存在しない。すべてはサーバー内の1と0の羅列に変換され、神のアイ・オブ・ゴッドという名のAIがその所有権を管理している。


 だが、ルカの目的は目の前のチップではない。  彼の網膜ディスプレイの端で、小さなインジケーターが青く点滅した。


「……来たな」


 カジノのメインエントランスの重厚な扉が開く。  最新のスマート・スーツに身を包んだエリートたちを左右にかき分け、場違いなほど「重い」足取りの男が入ってきた。  ヨレたトレンチコート、不機嫌そうに歪んだ口元、そして何より、デジタルに頼り切ったこの街では絶滅したはずの、「執念」という名の獣の気配を漂わせた男。


 不破フワ警部。  ICPOが誇る、ルカにとって唯一の「想定外」が、今夜の舞台に姿を現した。


『第二節:アナログの逆襲、あるいはデジタルの刃』

 不破の足音は、カジノを支配する小気味よい電子音を、物理的な質量で踏み潰すように響いていた。彼は周囲の富豪たちが向ける怪訝な視線を一顧だにせず、真っ直ぐにバーカウンターへ向かう。その歩調は、AIが予測した「不審者の行動モデル」から常に数センチずつズレていた。


「……隣、いいか。ルカ」


 不破はルカの隣の椅子を荒々しく引き、腰を下ろした。彼はバーテンダーが差し出した高級なカクテルメニューを見ることなく、ただ一言「水だ。水道のやつでいい」と吐き捨てるように注文した。


 ルカはグラスを揺らし、氷が溶ける様子を眺めながら苦笑した。 「おっちゃん、ここには水道水なんて野蛮なものはないぜ。全部、AIがpH値を完璧に管理した『究極のミネラルウォーター』だ。一杯、あんたの年収の半分はするぜ?」


「余計なお世話だ。……デジタルで加工された水なんぞ、喉を通らん」  不破は懐から、使い込まれた電子タバコではない「紙巻きのタバコ」を取り出そうとして、ここが禁煙であることに気づき、忌々しそうにそれをポケットへ押し戻した。


「ルカ。お前の『ゴースト・ログ』は見事だった。入国管理AIは、お前をベルギーの慈善事業家だと信じ込んでいる。だがな、お前がバーボンを飲むとき、左の眉がわずかに上がる癖までは上書きできなかったようだな」


「ハッ、そいつは高くつきそうな指摘だ。次からはボトックス注射でも打っておくよ」  ルカは軽口を叩きながらも、視界の端のARディスプレイを操作していた。不破の背後、半径5メートル以内の監視ドローンの死角を計算し、サキへの合図を準備する。


「……何をしに来た? 今夜の俺は、ただの観光客だぜ」


「嘘をつけ。お前の視線は、さっきからクラインの頭上にある『データ・ポート』を這いずり回っている。……ルカ、忠告だ。今夜のクラインは『猟犬』を解き放っている。お前が手を出す前に、街全体が巨大な罠に変わるぞ」


 不破の言葉は、単なる脅しではなかった。彼の瞳には、最新の捜査官用デバイスが捉えた、カジノ内の異常な熱源反応――ヴォルフの私設軍隊が配置についているデータ――が映っていたのだ。


 その頃。  カジノ『バベル』の華やかさとは対極にある、天井裏の冷たいメンテナンス・通路。  そこには、呼吸の音さえ消した一人の男がいた。刹那である。


 彼はルカから支給されたARグラスを、通路の入り口で迷わず捨て去っていた。 「……目に見える光こそが、真実を曇らせる」


 刹那が腰に下げた鞘に手をかける。彼の前方には、目に見えない紫外線レーザーの網が、複雑な幾何学模様を描いて通路を封鎖していた。一度でも触れれば、即座にクラインの警備ドローンが殺到し、通路は摂氏2000度の高熱で焼却される。


 刹那はゆっくりと目を閉じた。  彼は「見る」のではない。「聴く」のだ。  レーザーを発振するデバイスが発する、超高周波の微細な振動。空気が電気を帯びるかすかな揺らぎ。


 精神を研ぎ澄まし、心拍数を1分間に40回まで落とす。  彼にとって、世界からデジタルのノイズが消え、静寂だけが残った。


「……そこか」


 刹那の右腕が動いた。  抜刀。  彼の持つ特殊振動刀は、超音波の微細な震えによって、物質の分子結合を直接断ち切る。  シュン、という短い風切り音。  物理的な接触を感知する前に、レーザーの基盤となる光ファイバーの根元が、一点の誤差もなく切断された。


 警報は鳴らない。  システム側からは「正常な信号の減衰」としか認識されない、神業。


「……第一関門、突破。ルカ、道は開いたぞ」


 インカム越しに届いた刹那の静かな報告を受け、ルカの口角が吊り上がった。  それを見た不破の顔が険しくなる。


「……笑ったな、ルカ。……来るか!」


 不破が腰の電磁警棒バトンに手をかけたその瞬間、カジノの巨大なシャンデリアが、不気味に青白く発光し始めた。


『第三節:神の瞳の瞬き、あるいは猟犬の覚醒』

 カジノ『バベル』の天井で、数万個のクリスタルをあしらった巨大なシャンデリアが、意志を持つ生物のように脈動し始めた。  本来、温かみのある琥珀色であるはずの照明が、刺すようなコバルトブルーへと変貌する。それはルカが仕掛けた「視覚攪乱ウイルス」が、都市管理AIの末端をジャックした合図だった。


「……お遊びはここまでだ、おっちゃん!」


 ルカがカウンターの下に仕込んでいた指先大のデバイスを起動させると、カジノ中に投影されていたホログラムが一斉にバグを起こした。優雅に泳いでいた魚たちはノイズの塊となり、客たちのドレスやスーツの「スマート・ファブリック」が、設定にない鮮烈な警告色を放ち始める。


「ルカッ! 止まれと言っている!」  不破が電磁警棒を振り下ろすが、ルカは座っていたスツールを蹴り飛ばし、背後へと鮮やかに跳躍した。


「悪いな不破のおっちゃん! 今夜の俺は、AI様が予測した通りの『最悪な客』にならなきゃいけないんだ!」


 混乱する群衆に紛れ、ルカはVIPエリアを目指して走る。  だが、その行く手を阻むように、一人の男が静かに、しかし圧倒的な圧迫感を持って立ちはだかった。


 クリストフ・ヴォルフ。  クラインの「右腕」であり、この都市最強の防壁。


 ヴォルフは微動だにせず、ただルカを見据えていた。彼の左目は、冷徹な機械の光を放つ義眼へと切り替わっている。 「……ターゲット、捕捉。生存確率は不要。物理的排除を開始する」


 ヴォルフの右腕が、人工筋肉の駆動音を鳴らしながら、コートの内側に隠されたサブマシンガンへと伸びる。  ルカは直感した。こいつは、不破のような「対話の通じる人間」ではない。


「ジロウ! 狙われてるぜ!」


 ルカの声がインカムに響くと同時に、一キロ先から「死神の指先」が届いた。  カジノの外壁、厚さ30センチの強化ガラスを貫通し、ヴォルフの側頭部を狙った一弾。ジロウが放った300マグナム弾だ。


 だが、ヴォルフは首をわずかに傾けただけで、その弾丸を回避した。  弾丸は彼の背後の柱に着弾し、火花を散らす。


『……チッ。あの野郎、俺の指の動きを読んでやがるのか?』  インカム越しに、ジロウの忌々しそうな舌打ちが聞こえる。


「いや、違うぜジロウ! こいつ、街中の監視カメラを自分の『目』に同期させてやがるんだ! 弾道を計算される前に、カメラを潰さなきゃ話にならない!」


 ヴォルフは無表情のまま、右腕の銃口をルカへと向けた。  火薬の爆発音ではない、電磁加速による乾いた発射音が響く。放たれたスマート弾は、ルカの回避運動を追尾し、その肩口の服をかすめた。


「ぐっ……!」  ルカが壁際に転がり込む。


『ルカ、伏せて!』  サキの声。  彼女は混乱に乗じ、会場のメインブレーカーへと小型のEMP(電磁パルス)ボムを投げつけていた。


 瞬間、カジノのすべての電力が喪失した。  完全なる闇。  AIによる予測も、監視カメラの同期も、すべてが遮断された一瞬の空白。


 だが、その闇の中で、二つの光だけが輝いていた。  一つは、ヴォルフの義眼が放つ赤色。  そしてもう一つは、闇の底から立ち上がった、冷たく澄んだ銀色の光。


「……機械の眼に、私の『呼吸』は映らぬぞ」


 闇の中から、刹那が現れた。  彼は天井のメンテナンス通路から、重力を無視したような静かな着地を決めていた。  彼の手に握られた振動刀が、闇の中でかすかに唸りを上げる。


 最新テクノロジーの塊であるヴォルフと、極限までアナログを研ぎ澄ませた刹那。  暗闇のカジノで、現代と過去、二つの「最強」が火花を散らそうとしていた。


『第四節:星への跳躍、あるいはゼロへの回帰』

 非常用電源が起動するまでのわずかな数秒。カジノを支配する「光」が死に、ヴォルフの赤い義眼だけが暗闇を切り裂く中、刹那の振動刀が銀色の軌跡を描いた。


 キィィィィン――。  金属が擦れ合う高音ではなく、空気が悲鳴を上げるような不可視の衝突。ヴォルフが咄嗟に掲げたサイバー義手の前腕部と、刹那の刀が激突したのだ。超音波の振動が、ヴォルフの装甲表面をミクロン単位で削り取り、火花が闇を照らす。


「……抜刀術か。骨董品の極みだな」  ヴォルフの声は、感情を排したスピーカーの音に近い。彼は刀を押し戻しながら、内蔵された小型スラスターで間合いを強引に引き離した。


「骨董品か。だが、貴殿のその体、意志と電気を繋ぐ回路には、わずかな『淀み』がある」  刹那は再び闇に溶けるように構えを解かない。


 その間に、ルカは床を転がりながらサキのもとへ辿り着いていた。サキは混乱の中で、クラインのプライベート・デスクから小型のハードドライブを抜き取っていた。


「ルカ、これよ! 衛星へのアクセスキー。でも、都市全体のロックダウンが始まるわ!」


「上等だ! 派手な出口は用意してある!」  ルカがスマートウォッチを叩くと、カジノの巨大な展望ガラスのすぐ外側に、無数の光点が出現した。それはジロウが外部から誘導した、中層階の広告用ドローン群だった。


「おっちゃん、またな! 次に会う時は、もうちょっといい酒を奢るぜ!」 「待て、ルカぁぁぁ!」  暗闇の中から、不破が勘を頼りに手錠を投げつけるが、ルカはその瞬間にサキを抱え、粉砕されたガラスの向こう側へとダイブした。


 空中。  ネオ・アクロポリスの夜風が吹き荒れる中、ルカたちの体はドローン群が形成した臨時の「ネット」へと着地する。ドローンはそのまま加速し、都市の監視網を縫うように下層階へと急降下していく。


『……ったく、心臓に悪いぜ。ルカ、サキ、回収成功だ』  インカムからジロウの安堵した声が聞こえる。一キロ先で彼がライフルを片付け、バイクに跨る音が響いた。


 カジノの縁に立ち、遠ざかるドローンを眺めていたヴォルフは、追撃しようと足をかけたが、クラインの冷徹な声が通信に割り込んだ。 『追うな、ヴォルフ。……データは盗ませてやれ。あのキーには、私の「神の瞳」が逃げられないよう、最新の追跡ポインタを仕込んである。彼らが衛星にアクセスした瞬間、そこが彼らの墓場になる』


 一方、下層階の隠れ家に到着したルカたちは、息を切らしながらも笑い合っていた。  サキが手に入れたドライブを、ルカがハブに接続する。モニターに映し出されたのは、遥か上空、高度1万メートルを孤独に回る「サテライト・サーバー」のライブ映像だった。


「……さて、本番はこれからだ」  ルカが不敵に笑い、エンターキーを叩く。 「空の上にある『神様の目玉』、こいつを盗み出して、世界中にバラ撒いてやろうぜ」


 ネオ・アクロポリスの夜はまだ終わらない。彼らの本当の戦いは、この巨大な電子の檻を抜け出した先にあるのだ。


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