第5話:風の裁き
ロルカ村の朝は、いつもと変わらぬ静寂に包まれていた。だが、その平穏は、村長エルドリックのうめき声によって破られる。彼が頭を抱えて唸っていたのは、村の倉庫の扉が大きく開いているのを発見したからだ。教団へ売るために閉じ込めたはずの青年、海里の姿は、そこにはなかった。
「まさか、あの青年が縄を解き、この頑丈な扉を破って逃げ出すとは……」
エルドリックは、自らの見込みの甘さを深く悔やんだ。この大陸はおろか、自分が暮らすリグリア王国についても知識がないはずの異邦人だと、海里を見くびっていた。その驕りが、この事態を招いたのだ。
バルドは既に王都へ向かい、教団の幹部を連れて遠からず村に戻ってくるだろう。しかし、その幹部の前で、肝心の転生者である海里の行方が分からないとなれば、どう申し開きをすればよいのか、エルドリックには全く見当がつかなかった。彼の禿げ上がった頭皮を、焦燥感がじりじりと焼き付けていく。得られるはずだった金銭的利益が遠のき、それどころか教団の怒りに触れる恐怖が、村全体を覆い始めた。
そして、エルドリックが恐れたその時は、予想よりも早く訪れた。
「よぉ、エルドリック爺さん。王都から戻ってきたぜ。それから……連れてきたぜ、輪廻教団の幹部様をな!」
馬に乗ったまま、バルドは上機嫌を隠しもしなかった。転生者を教団に売り渡すことで、村の生活を向上させるだけの莫大な利益を得られると、確信しているかのようだった。
彼の背後には、別の黒い駿馬に跨る人影があった。深くフードを被った外套に身を包み、その顔は全く見えない。この人物こそが、バルドが語っていた王都に来ている輪廻教団の幹部なのだろうとエルドリックは理解した。
頭から深くフードを被ったその姿は、顔の全てを濃い暗い影の中に沈ませており、その表情を一切読み取ることはできない。
身を包むのは、フード付きの濃い茶色の分厚いマント。風になびくその裾は、周囲の土埃や村の貧しさとは無縁の、底知れぬ威厳を漂わせていた。マントの隙間からは、純白の制服とも呼べるような、清廉な装いが覗いている。白い上着とズボン、そして膝丈の革ブーツは、汚れ一つなく清潔感に満ちており、その縁には精緻な金色の刺繍が施されていた。
その服装は、ロルカ村のくたびれた風景とはあまりにもかけ離れており、まるで異世界の存在のようであった。その全身から放たれる冷たく、研ぎ澄まされた刃のような雰囲気は、事の次第を知らない村人たちにさえ、形容しがたい不安な沈黙を広げていった。
エルドリックは、その教団幹部の異様な威圧感に気圧されながらも、なんとかバルドに話しかける。バルド自身は、利益に目が眩み、教団の幹部の異様さなど気にも留めていないようだった。
「早かったな、バルド。王都まで行ったからには、もう少し時間がかかるものだと思っておったぞ」
「なぁに、爺さん。貴重極まりない貢物があれば、教団様からの見返りもデカくなるだろうと期待しちまうさ。俺のお馬さんにもだいぶ頑張ってもらっちまったぜ、へへ。教団様も、そんな貴重な獲物にはすぐに食いついてきたってわけだ」
内心の焦りを悟られぬように平静を装って話すエルドリックに対し、バルドは得意げに饒舌に語り続けそうな気配だった。
その時、不意にバルドの言葉を遮る声が割り込んできた。
「それで、お前たちが捕らえたという転生者はどこにいる?」
「ッ!?」
エルドリックは、てっきり男だと思い込んでいた教団の幹部の、予想外に高く、澄んだ声に驚愕した。
(あの教団の幹部は女なのか? しかもずいぶん若そうな声じゃったぞ……)
そんなエルドリックの心中など知る由もないバルドは、教団の人物の冷徹な声に若干気圧されながらも、答えた。
「あ、ああ、黒髪の男は、こっちの倉庫に押し込んだんだ。どうぞ、ご確認ください、教団の幹部様」
バルドとエルドリックは、教団の幹部が乗った馬と共に、海里を閉じ込めた倉庫へと移動した。そして、そこでバルドもまた気づく。倉庫の扉が破壊され、海里がいなくなっているという、最悪の事態に。
「はぁ!? おい、どういうことだ? なんであいつがいなくなってるんだ、爺さん!」
バルドは驚愕と怒りでエルドリックを睨みつけた。
その時、もう一つの声が響いた。静かだが、強い意志を秘めた声だ。
「私が彼を村から逃がす手助けをしたわ」
そこに立っていたのは、リーファだった。彼女は、恐れを知らぬ毅然とした態度で、バルドに向かい合っていた。
「お前……リーファ! 何をしてくれてんだよ! このロルカ村が決して裕福でも安全でもないことは、お前だって知らねぇはずねぇだろ!?」
バルドは怒鳴った。
「ええ、よく理解しているわ。それを解消するための金策として、何の罪もない人を教団に差し出そうとしたのよね。でもね、王都を出て、この場所で暮らそうと決めたのは、私たちの選択よ。それを不便だ、貧しいだのと不満を漏らして、あげく、私たちに悪さをするつもりもない人を陥れて、生活していく金銭に変えようって? そんな、恥知らずな真似を、私は許せなかった!」
リーファの言葉は、村人の多くが抱えながら口に出せなかった良心の呵責を代弁していた。
「恥知らずだぁ? リーファ、そんな良心を気にして何になる! 今の俺たちは、王国の失政の結果、こうして王都の外で、貧しい暮らしを強いられているんだ! それから抜け出すために金策を考えることの、何が悪いって言うんだ!」
バルドは、自らの行動を正当化しようと必死だった。
「待て、争いは止めんか、お前たち……」
エルドリックは、おろおろと二人の間に割って入ろうとするが、彼もまた、海里を陥れた主犯のひとりである。彼の言葉に、誰も耳を貸さなかった。
「村長、それをあなたが言うの? 私たちが今、こうして争っている原因の責任の一端は、間違いなくあなたにもあるわ!」
リーファは、エルドリックを厳しく非難した。
「爺さん、あんたもあんただ! むざむざとあいつを逃しやがって!」
バルドもまた、怒りの矛先をエルドリックに向けた。
バルドとリーファの口論は、もはや止まるところを知らなかった。ロルカ村の抱える根深い不満と、道徳観の対立が、この場で爆発したかのようだった。
そのとき、その場にいた全員の耳に、静かなため息が響いた。
「はぁ……」
それは、大声を出したわけでもないのに、バルドやリーファ、そして倉庫前に集まっていた村人たち全員の心臓を、一瞬で凍りつかせた。教団の女幹部が発する、その冷たい威圧感は、その場にいた全員の身体を反射的に竦ませた。
顔は見えないが、その声には、静かだが底知れない怒りが含まれていた。
「つまり、ここには件の転生者とやらは既にいなくて、お前たちは、この私に無駄足を踏ませたということだな……」
彼女の周囲の空気が、一層と凍てつくように冷たくなったのを感じ、誰もが言葉を失った。
「ひっ!」
リーファは恐怖に怯え、反射的に一歩後ずさった。バルドは、事態の深刻さにようやく気づき、必死に言葉を絞り出す。
「ま、待ってくれ、教団の幹部様。確かにここに閉じ込めた奴はもういない。だから、今から俺がまたあいつを探して……」
「黙れ」
その短い一言が、バルドの言葉を完全に遮った。教団の女幹部は、馬上で、すっとバルドに向かって右手を翳した。彼女のフードの奥で、わずかに光が瞬いたように見えた。
翳した手の先に、目に見えない風が集まっていき、高密度に圧縮された球状の嵐が瞬時に生成された。そして、その風の塊が、バルドの胸に直撃した。
「うっ、ぎゃあああああああああああああああッ!!!」
球状の嵐が直撃したバルドは、凄まじい衝撃と、全身を鋭い風の刃に切り刻まれる激痛に、絶叫をあげた。彼は木っ端のように吹き飛ばされ、村の外れに近い、土埃の舞う畑へと落ちていった。
呆気に取られていた村人たちに、教団の女幹部は、冷酷な宣告を下した。
「私の時間を無駄にしたこと、それは、このリグリア王国へ私を遣わした教皇様への侮辱だ。……贖え」
教団の女幹部は、風の魔力でふわりと宙に浮かび上がった。彼女は両手の平を広げ、ゆっくりと魔力を溜め始めた。周囲の空気は、彼女の魔力によって激しく渦巻き始める。
「ひっ! ひゃあああああああああ!」
「助けてえぇ!」
魔法に長けていなくても、誰の目にもハッキリとわかる、尋常ではない風の奔流。それは、バルドに放たれたものとは比べ物にならない、桁外れの巨大な力の予兆だった。村人たちは、この世の終わりを見たかのように悲鳴をあげ、蜘蛛の子を散らすように四方八方へと逃げ惑った。
「あ、ああ……」
ぺたりと尻餅をついたリーファは、その場から動くことができなかった。宙に浮かび、その全身から冷たい風の魔力を放つ教団の女幹部を、ただ見上げることしかできなかった。
そして、エルドリックは、全てを悟ったかのように、目を閉じた。
(ああ、やはり転生者を捕まえようなどとするべきではなかった……儂は、ただ、この村を王都に頼らずに、自分たちの力で暮らしていける場所に、安全な場所にしたかっただけじゃ。決して裕福ではないがゆえに、現状を変えようと、バルドの安易な提案に乗ったのが、愚かじゃった……)
エルドリックのその心中の後悔が、他の誰かに伝わることはなかった。
空中に浮かんだ教団の女幹部は、村全体を破壊するに足る、巨大な風の魔力を溜め終えた。彼女は、ロルカ村全域に向け、その風の力を解き放った。
「吹き飛べ」
その冷たい声が響いた瞬間、村全体を覆い尽くすほどの、巨大な風の渦が生まれた。それは、単なる突風ではない。教団の女幹部の圧倒的な魔力によって圧縮された空気が、巨大な竜巻となって村の中心から天へと向かって吹き荒れた。
風の竜巻は、家々を、畑を、そして恐怖に逃げ惑う村人たちを容赦なく巻き込んでいく。風の渦の中では、木材が砕け散る轟音、土が根こそぎ抉り取られる地鳴り、そして、断末魔の絶叫が混じり合い、まさに地獄絵図が繰り広げられた。鋭い風の刃が、家屋の壁を破壊して吹き飛ばし、村の全てを、瞬く間に無に帰していった。
しばらくして、全てを薙ぎ払った風の嵐がおさまったあと、教団の女幹部は、ただの廃墟と化した村を見下ろし、ぽつりとつぶやいた。
「件の転生者の名前を聞いてから吹き飛ばすべきだったな……先ほどの女は『彼』と言っていたな。それに『黒髪』か。ふむ、まぁいい。王国に戻ったら、地道に探してみるか」
教団の女幹部は、自身が乗ってきた馬までも風の魔力で吹き飛ばしていたが、それを気にする素振りも見せなかった。彼女は再び風を全身に纏いなおし、その魔力で森を突っ切るように最短距離で、リグリア王国の王都へと戻っていった。
こうして、ロルカ村は、一つの転生者を巡る騒動と、輪廻教団の幹部の冷酷な裁きによって、地図から消え去る廃村と化した。
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ロルカ村だった場所から、すべてが破壊されたその惨状から、僅かに時間が流れた。
辺りの土埃が収まりかけた頃、二人の少年少女がその場所に現れた。二人は赤茶けた髪色をしていて、年の頃は、十代前半ほどだった。
「何かすごい突風だったから来てみたけど、これ、村だったんだよねぇ、ロロ?」
少女は、目の前の信じがたい光景に、思わずといった様子で声を漏らす。
「うーん、そうみたいだね、リリィ……。ほとんど見る影もないけど。でも、あっ、見て見て。向こうの畑で、何か動いてるよ!」
少年ロロが指さした先には、風の魔力によって吹き飛ばされた畑には建物の残骸が積み重なっていた。
「えぇーー、汚れそうだからあたし行きたくないよ。ロロが行ってよ」
リリィは顔をしかめた。
「いいからいいから! ほら、早く行こう! うーん、ぼろ雑巾みたいだけど、まだ動いてるね……。パパのところに連れていけば、もしかしたら助かるかも!」
ロロは、倒れた建材を避けながら、動いているものへと近づいていく。
「しょうがないなぁ。手伝うから、ロロ、あとでおやつ寄越しなさいよ! 」
「わかったわかったー」
ロロは、無邪気に笑った。
「……オーガちゃん、手伝って!」
リリィは渋々ながらもロロを追いかけ、森に繋がる木陰へと声をかけた。
ぐおぅ
二人の会話に反応して、木陰から、二人の身長よりも遥かに大きな、異形の影が歩み出てきた。それは、全身を赤い皮膚と硬い毛皮に覆われた、巨躯を持つオーガだった。オーガは短く低い声で返事をして、ロロと呼ばれた少年が指さした「ぼろ雑巾みたいなもの」を大きな手を器用に使ってひょいと抱え上げた。
オーガは、再び森に向かって歩き始めた。惨状の跡が生々しい、死の匂いが満ちる場所で、嬉々と笑う少年と少女は、その年齢に見合わない異様な雰囲気を醸し出していた。彼らは、この凄惨な出来事を、単なるおもしろい出来事としてしか見ていないかのようだった。




