第4話:託された命、安息の微笑
ルクスは、全身の力を振り絞って放った光の剣をゆっくりと下ろした。
「はぁ、はぁ、はぁ」
地面に剣を突き立て、荒い息を吐くルクスの耳に、弱々しい声が届いた。
「あの……赤黒い巨大な魔物が、群れのボスだったんだな。それを退けるなんて、あの一撃はすごい威力だったな.....」
海里だった。ルクスが彼の身体を見れば、脇腹から腹部にかけて酷い裂傷を負っており、出血多量でこのままでは長くは持たないだろうと直感させるには十分な有様だった。
「ああ、光の魔法を剣に収束させた僕の得意な技だよ、ごほっ、ごほっ」
ルクスもまた、無理がたたったのか、口元を押さえて血を吐きながら、辛うじて体を起こし、海里の元へと這うように近づいた。
「すまない、僕を助けるために、君までこんな大怪我を負わせてしまった」
海里は、その詫びの言葉を遮るように首を横に振った。
「俺が放っておけなくて、勝手に乱入したんだ。それをルクスが責任に感じる必要はないさ」
その言葉の裏には、己の信念に基づいた行動だという強い意志が見えた。
ルクスは、改めて海里の顔を見つめた。その眼差しは、先ほどの戦闘での驚きと、今の彼の行動に対する疑問が入り混じっていた。
「海里、君は本当に何者なんだ?」
海里は、かすれ声で答えた。
「俺は、こことは違う世界の人間だよ、いわゆる転生者ってやつらしい。近くの村で、転生者と知られたら教団に売ると言って監禁された。そこを何とか逃げ出して来たら、今度はサメ頭の化け物と、君に遭遇して、戦いに介入した結果、今はこの有様だよ」
ルクスは、心底驚愕したように目を見開いた。
「転……生者だって? どうして転生者だというのに、僕を助けてくれたんだ? 」
「村人が言ってたけど、そんなに転生者はこの世界で危険に見られる存在なのか?」
海里は、自分の中にある疑問をルクスに問うた。
ルクスは、その疑問に言葉を絞り出した。
「過去に、第一転生者って呼ばれた転生者がいたんだよ。どんな人間だったか、詳しくは誰も知らない。記録もほとんど残っていない。けれど、その存在が残した悪評だけが、今日までこの世界の人間たちに語り継がれてる。そして、その第一転生者の復活を謳う輪廻教団という集団が存在するんだ。君はその輪廻教団に売られそうになったんだね.......ごほっごほっ」
吐血を繰り返しながら、痛みに耐えるようにゆっくりと海里に近づいてきたルクスの身体を見て、海里は絶句した。
「ルクス.....何だよ、その腹部の傷は!? 大きくえぐれてるじゃないか! 何でそのケガで、あんなに激しく動けていたんだ!?」
ルクスがまとっていたマントと、彼が身につけていた騎士の鎧が隠していた、凄惨な傷。腹部の肉は大きく抉られ、そこからはまだ、生々しい血が滲んでいた。普通の人間なら、意識を保つことすら困難な、致命的な重傷だった。海里は、必死に魔物に応戦していた興奮と、ルクスの甲冑に隠されていたその傷を見て、自身の身体の状態すら一瞬忘れてしまった。
ルクスは、力なく笑った。
「はは、思ってもみなかった奇襲を受けてしまってね.....この傷を負った時、もう助からないと思った。だから、周りにいる精霊たちに頼んで、一時的に痛覚を麻痺させてもらってたんだ。でも、それももう限界みたいだ。このままでは……2人とも死ぬのは時間の問題だね……」
海里は、ルクスの周りを点滅するように漂う、小さな光の粒に目を向けた。
「その、ルクスの周りにチカチカ光ってるのが、精霊ってやつなのか?」
ルクスは、その問いに、微かに驚いた表情を見せた。
「見えるのかい? 海里、君も精霊との親和性が高いみたいだね。精霊は、特別な才能や血筋を持つ人間にしか見えない。君は精霊と話すことができるわけではないだろうが、見えるということは、それだけで十分な素質を持っているということだ」
海里は自嘲気味に笑った。
「はは、そうなのか。だけど、死ぬ前に知りたかったよ。そうすれば、もしかしたらこの戦いでも、もう少し有利に運べたかもな」
薄く笑う海里に、ルクスは穏やかな眼差しを向け、しかし、はっきりとした口調で告げた。
「大丈夫さ、海里。君は死なない」
「え?」
意味が分からず、疑問を呈した海里に、ルクスは剣を地面から抜き、両手で大切そうに抱えながら、その光沢のある刃に、自らの血を滴らせた。
「精霊たち、今まで僕を支えてくれて、本当にありがとう。僕の、これが最後のお願いだ。僕が持っていた力と、この世界の記憶、そして残っている生命力の全てを、彼に、海里に託してくれ」
「何を言って、ルクス。……あ」
不意に、自らの身体が、内側から熱を帯び、満たされていくのを感じた海里は、焦燥感に駆られてルクスに問わずにはいられなかった。
「なんで、俺を助けようとするんだ!? 転生者はこの世界では危険な存在なんだろ!? 君は、俺を助けたことで、この世界を乱すことになるかもしれないんだぞ!」
ルクスは、その言葉に、穏やかな、そしてどこか悟ったような笑みを浮かべた。
「海里。君が転生者かどうかは関係ない。君こそ、転生者だと知られて村人にひどい目に遭わされたんだろう。村人から逃げた後、僕を助けるかどうかにも、迷ったはずだ。危険を冒してまで、他人のために動く必要はないと。それなのに君は、負傷した僕を助けるために、身を挺して戦ってくれた。自分が危険な目に遭うって分かっているのに、迷うことなく、人を助けようとする。そんな君に、僕は……死んでほしくないと思ったんだよ」
ルクスの言葉は、海里の心を強く打った。しかし、今彼の身体で起きていることは、海里にとって受け入れがたいものだった。
「待てルクス……そんな、自分の生命力を俺に託すなんて、そんなことをすれば、ひどいケガを負ってるルクスが、今すぐ死んでしまうじゃないか!」
ルクスを案じようとする海里の焦燥に満ちた言葉に、彼は薄く、しかし温かい笑みを返した。
「はは、このままなら二人とも死を待つだけさ。僕が君の命を救うことで、この世界に危険をもたらすかもしれない。だが、君を信じているよ。でも……転生者だと、みだりに人には知られてはいけないよ。打ち明けるなら、心から信頼できる人間に限定するんだ。第一転生者の復活を謳う輪廻教団は、魔物とは異なる脅威だ。彼らは君の存在を知れば、必ず君を利用しようとするだろう。それから、君が持っていた剣は、先ほどの戦いで砕けてしまったから、僕の使っていた剣を持っていってくれ。ごほっ、これ以上は……もう、話せそうにないな」
海里の目には、急速にルクスの身体から力が抜け、命の灯が消えようとしているのが分かった。ルクスの周りを漂っていた精霊たちの光も、悲しみに満ちたように点滅を繰り返していた。
「ルクス……」
ルクスは、最後の力を振り絞るように、天を仰いだ。
「海里、君には……この世界は、苦しく、生きづらい世界かもしれない。けれど、ごほっ、君に、生きていてほしいと思うのは、僕の……僕のエゴだ。どうか、息災で……」
「待て、ルクス.....逝くな」
「兄さん、ジュノア……ごめんよ……」
ルクスは震える手で懐から何かを取り出して見つめていた。その直後、ルクスの身体から完全に力が抜け落ち、地面に倒れた。彼の死に顔はとても穏やかな、安息の微笑みを浮かべていた。
ルクスが倒れて暫くしてから、ようやく海里は己の身体を動かせるようになった。この異世界で目覚めた時と同様に、致命的な傷が完全に癒えている。しかし、今回はルクスという騎士が、自らの生命力を海里に分け与えるという、代償を伴う奇跡による完治だった。
深く感謝すべきその相手は、今はもう、安らかな微笑をたたえたまま動かない。その眼差しは虚空を見つめ、声を発することも、微かに震えることさえもない。彼とは、短い時間ではあったが、互いに信頼し合える、良い関係を築き上げることができたと海里は強く感じていた。できれば、この困難な状況を共に生き延び、互いの素性や、この世界のことをもっと語り合いたかった。
海里は、ルクスの遺体を、彼が帰るべき場所—おそらくは彼が口にしたリグリア王国へと送り届けたいと強く願った。しかし、それがいかに難しいことかを、海里は瞬時に理解する。
つい先ほど逃げ出してきたばかりのロルカ村には、おそらく輪廻教団とやらの人間が到着しているだろう。もし迂闊にその近辺を彷徨えば、たちまちのうちに再び捕らわれの身となるかもしれない。そうなってしまえば、ルクスの遺体を彼の故郷へと送り届けるどころの話ではない。まして、この場所に長く留まることも危険だった。いつ、あのサメ頭の異形の魔物が戻ってくるとも限らない。
あの地中に潜行する能力を持つ魔物の前では、たとえ遺体を丁寧に土に埋めて弔おうとしても、掘り起こされ、食い散らかされてしまう可能性が高い。自らの命を犠牲にしてまで、海里を助けたルクスの遺体に、そのような無残な辱めを受けさせるわけには断じていかなかった。
海里が切なる願いを込めて立ち尽くしていると、彼の周囲に、微かな光を放つ無数の精霊たちがチカチカと集まり始めた。
「俺の考えていることが分かるのなら、どうか力を貸してほしい。彼を、ルクスを、尊厳をもって弔うために、君たちの力を借りたいんだ」
海里の切実な意思を正確に察したかのように、精霊たちは一斉に海里の右手に集まっていく。その掌は、微かに熱を帯び、柔らかな光を放ち始めた。
海里はその神聖な光を帯びた手を、ルクスの静かな遺体にそっとかざした。精霊たちの力を借りたその輝く炎は、清らかな浄化の炎となってルクスの身体を包み込み、彼はゆっくりと、しかし確実に光の中へと溶け、消えていった。
「ありがとう、ルクス。俺を、この命を助けてくれて。君が命を賭して救ってくれたこの命を、俺は決して無駄にはしないと誓うよ」
やがて、ルクスの遺体は完全に光となって消滅し、そこには一片の塵も残らなかった。
海里は、ルクスが身に着けていた、炎にも焼け残った彼の鎧の一部を、手近な土を掘り起こし、積み上げて作った簡素な墓標の上に静かに乗せた。そして、彼の最期まで傍らにあった、精巧な作りの剣を強く握りしめた。
その時、海里は足元の地面に、何かが光っていることに気づいた。それは、炎の熱にも耐え抜いたかのように透き通った、小さな水晶のペンダントだった。水晶には、繊細な羽根の模様が丁寧に刻まれていた。おそらく、ルクスが絶命の瞬間まで、固く握りしめていたのだろう。海里はそれを拾い上げ、裏返してみる。そこには、「---ジュノアへ---」と、簡潔で、しかし深い愛情を感じさせる言葉が刻まれていた。
海里自身にも、今ではもう会うことのできない幼馴染との絆の証として、ずっと大切に持ち歩いているペンダントがある。
このジュノアという人物は、ルクスの最も大切な人間であったに違いない。海里は、この人物を探し出し、ルクスの最期の様子を伝え、そしてこのペンダントを、彼の形見として渡すことができないだろうかと考えた。その想いを胸に、海里はそのペンダントを大切に拾い上げ、自身の懐にしまった。
この時、海里は、自身の身体に起こった劇的な変化に、まだ全く気づいていなかった。
彼の髪の色は、元来の黒から、かすかに光を帯びたアッシュブラウンへと変化していた。そして、彼の瞳は、薄い黄褐色の光を秘めて輝いていた。しかし、その変化に海里自身が気づくのは、もう少し先の話となる。
ルクスの墓標に深々と一礼した海里は、彼の遺志とペンダントを胸に、この森を抜け出すために一歩を踏み出した。




