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輪廻の檻-アステル戦記  作者: あすらりえる
第一章_転生者の原罪
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第1話:輪廻の始まり

(……っ!)


海里は、ゆっくりと重い瞼を持ち上げた。最初に感じたのは、ひんやりとした湿った空気と、鼻を突く土と草の匂い。視界に広がったのは、見慣れない薄暗い森の情景だった。身体は、固い地面の上に横たわっていたらしい。


(どこだ、ここ……?)


全身に力を込め、ゆっくりと身体を起こそうとする。驚くべきことに、身体に痛みはない。触れてみると、傷一つ見当たらないのだ。着ている服は、事故当時の――つまり、彼が最後に意識を失った時の私服で、泥や草の汚れが少々ついているだけ。致命的な衝撃を受けたはずの痕跡は、どこにも見当たらなかった。


(……俺は、死んでいない、のか?)


理解が追いつかない。頭の中は混乱で渦巻いていた。あの時、建設現場で崩落した鉄骨が、確実に彼の身体を捉えた。あの強烈な衝撃と、肉体が砕けるような痛みは、今でも鮮明に思い出せる。意識が暗い感覚へと落ちていく寸前、彼が心から願ったのは、ただ一つ。「鏡花にもう一度会いたい」という、切なる願いだけだった。鏡花の形見のペンダントだけは何故か懐にあった。


「はは。そんなことを願ったから、こんな状況に繋がっていうのか……?」


形見のペンダントを握りしめながら益体もない考えがよぎる。そう考えても、確証はない。しかし、いつまでもこの場で立ち止まっているわけにはいかない。まずは、この状況を脱して、自分が置かれている現状を理解することが最優先だ。海里は、意を決して立ち上がり、本能的な直感に従って、木々の隙間からわずかに光が差し込む方向へと、歩き始めた。


それから、一体どれほどの時間が経過したのだろうか。太陽の位置すらわからない森の中を、ひたすら歩き続けた。足は鉛のように重く、幾度となく地面にもつれそうになる。疲労困憊――その四文字が、海里の全身を支配していた。喉の渇きと、胃の底がひっくり返るような空腹感が、容赦なく彼の体力を奪っていく。


周囲の木々は、異様に太く、鬱蒼と生い茂っていた。まるで原始の森に迷い込んだようだ。陽の光は、分厚い葉の天蓋に遮られ、地面には木漏れ日が不規則な模様を描いて落ちている。空気はひんやりとして澄み切っており、耳に届くのは、風が葉を揺らす音や、遠くで鳥が鳴く声だけ。彼が知る、都会の喧騒とは無縁の、静寂が支配する世界だった。


しかし、不思議なことに、森の中をあてどなく歩いているにも関わらず、海里は道に迷うという感覚がなかった。まるで、誰かに、あるいは何かに、導かれているかのように、自然と足が特定の方向へと向かっていた。


その時、近くの草むらの奥から、ガサガサと不自然な物音が聞こえてきた。反射的に、海里は身をかがめ、木の幹の陰に潜み、息を殺した。


音の正体は、異様なものだった。体長1メートル程度の全身が緑色の皮膚に覆われた小型の生き物たち。それは、手に粗末な木製の棍棒を握っていた。顔は、豚と爬虫類を合わせたような醜悪な相貌で、殺気に満ちた目をギラつかせている。


海里は、その異様な姿に、心臓が凍りつくのを感じた。


(なんだ、あの生き物は……? まるで、ファンタジーの世界の……まさか、異世界にでも転生したっていうのか……?)


脳裏に浮かんだのは、かつて漫画やゲームで見た知識だった。あれは、間違いなくゴブリンと呼ばれる魔物だ。ゴブリンたちは、海里の存在に全く気づくことなく、低い唸り声を上げながら、そのまま森の奥へと去っていった。海里は、彼らの姿が完全に木々の闇に消え去るまで、恐怖と緊張で硬直したまま、身を潜め続けた。


どれほど時間が経っただろうか。遠ざかった物音が完全に聞こえなくなり、ようやく海里は張り詰めていた息を吐き出した。全身から冷や汗が噴き出している。現実感がなかった。しかし、ゴブリンという魔物の存在は、彼の置かれた状況が、決して冗談や夢ではないことを、強烈に突きつけてきた。


やがて、さらに歩き続けると、木々の合間から、わずかに視界が開けた場所が見えてきた。そこには、獣道よりも整備された、人の往来を思わせる街道らしきものがあり、その先に、粗末な木造の家々が寄り集まった、小さな村らしき集落が佇んでいるのが見えた。


情報を得るためにも、まずは人との接触を試みるのが賢明だろう。ゴブリンが徘徊する森の中よりも、人間が暮らす場所の方が、遥かに安全なはずだ。海里は、最後の力を振り絞り、村へと向かった。


村の入り口に差し掛かると、三人の村人が立ち話をしているのが見えた。男二人と、少女が一人。海里に気づくと、三人の会話が途切れ、珍しさと警戒の色を浮かべながら、こちらに目を向けた。


挿絵(By みてみん)


一人はその筋骨隆々とした肉体は粗野な革の服越しにも見て取れ、威圧感が漂っていた。


真ん中に立つもう一人の男は、長年の経験が刻まれた顔をしていた。雪のように白い髭を豊かに蓄え、恰幅の良い体躯をしており、毛皮をあしらった外套を羽織っていた。


一番右の少女は、春の若葉のような明るい緑のワンピースを纏っていた。淡い桃色の髪と大きな瞳をしていて、小柄で控えめな佇まいではあるが、彼女の純粋な性格を映し出しているようだった。

そのうちの一人、村長と思しき、深い皺が刻まれた禿頭の老人、エルドリックが、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。


「おお、そこの若者。おや、ずいぶんとボロボロな、変わった服を着ているが、一体どこから来たんじゃ? この辺りでは見かけない顔じゃのう」


海里は、戸惑いながらも、事実を正直に伝えることにした。自分が、見知らぬ森で目を覚ましたこと、森の中を彷徨ったこと、そして、ゴブリンから身を隠しながら、ようやくこの村に辿り着いたことを。


老人の隣に立っていた、筋骨たくましく、目つきの鋭い青年、バルドが、海里の全身を値踏みするようにじろじろと見ながら、口を開いた。


「へぇ、そんなことがあんのか。記憶喪失かぁ? それとも、訳ありか。森で目を覚ますなんて話、聞いたことねぇな……なあ、エルドリック爺さん。こいつはひょっとして.....」


バルドの言葉に、エルドリックは一瞬、顔を曇らせ、何かを思い留まったように、すぐに笑顔を取り繕った。


「よさんか、バルド。詮索するもんじゃない。ああ、すまんのう、若者。驚かせてしまった。……見ての通り、貧しい村じゃが、旅人をもてなす心は持っておる。温かい食事くらいは用意できる。ゆっくりと休んでいくといい」


エルドリックの隣に立っていた、桃色の髪を持つ少女、リーファが、屈託のない、純粋な笑顔で頷いた。

「お兄さん、休んでからでいいから、畑仕事を手伝ってくれないかしら? 最近、人手が足りなくて、私たちだけじゃ、なかなか大変で……」


海里は、リーファが指差す畑に目をやった。そこは、痩せた土地にまばらに作物が植えられているだけで、厳しい光景だった。村人たちの表情にも、日々の重労働による疲れと、将来への漠然とした不安が、色濃く滲んでいるように見えた。


「ありがとうございます。俺の名前は海里です。ぜひ、お手伝いさせてください。お世話になります」


その純粋な眼差しと、偽りのない歓迎の態度に、海里は心の奥底で安堵した。訳も分からず放り出された異世界で、彼らを疑う余地など、海里にはなかった。


「それにしても、海里だったな。お前さん、丸腰で魔物が出る森を抜けてきたのか? よく生きてたな、運が良い」


バルドが、驚いたような、いや、むしろ信じられないといった声で言った。


(丸腰で森を抜けることが、そんなに珍しいことなのか……?)


海里は内心驚いた。彼の知る世界では、一般人が武装することなど、考えられない。

エルドリックは、この村の名がロルカ村であること、村が自給自足で生活していること、そして、ゴブリンや野獣のような魔物から身を守るために、村の周囲に木の柵を巡らせ、櫓のような見張り台を設けていることを語った。さらに、村の倉庫には、自衛のために使われる、簡単な槍や剣といった武器も常備してあると教えられた。


海里は、その常識の違いに、改めて驚きを覚えた。彼の知る世界では、治安は警察が維持し、個人の武装は厳しく制限されている。しかし、この世界では、それが当たり前のようだ。ゴブリンのような魔物が徘徊する世界で生きるには、自衛手段は必須なのだろう。そう自分を納得させ、海里は、この異世界での生活を始める覚悟を決めた。


□■□■□■□


数日後、海里はロルカ村で畑作業に汗を流していた。久しぶりに思える肉体労働だったが、不思議と身体はよく動いた。彼の奇妙な服装や、時折口にする彼の元の世界での聞きなれない単語に、村人たちは好奇の目を向けたが、熱心に働く新たな労働者として、海里を歓迎しているようだった。


ある日の夜、エルドリックの家で夕食を済ませた後、海里は、エルドリックと、後から家に入ってきたバルドに、改めて話しかけられた。いつもは一緒にいるリーファの姿は見当たらない。静まり返った部屋の空気は、昼間とは違い、どこか張り詰めていた。


バルドの鋭い視線が、海里を貫いた。


「海里、単刀直入に聞くが、お前は、この世界の人間じゃないだろう?」


海里は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、思わず息をのんだ。何故、そう言い切れるのか?と、問い返す間もなく、バルドが冷たい声で続けた。


「お前みたいな奴は、転生者って呼ばれてるそうだ。50年前に、アステル大陸に大混乱をもたらした大戦を引き起こした元凶で、このリグリア王国では、危険な存在として見る風潮もあるんだよ」


バルドは、海里の着ている服を指さした。


「お前が着てる服もそうだ。俺たちが今まで見たこともねぇ素材だ。しかも黒髪黒目っていう昔聞いた転生者の特徴もそのままだ。そして何より、お前は魔法のことを知らねぇみたいだ。大なり小なり魔力はあるはずなんだよ。森でゴブリンを見たそうだが、その存在自体に心底驚いていた。このリグリア王国内で生まれ育っていて、魔法や魔物を知らねぇなんて、あり得ねぇんだよ……。違ぇねぇ、お前は、よそから来た転生者だ」


エルドリックが、不安と恐怖に震える声で、バルドに囁いた。


「バルド、本当にいいんじゃな……。転生者を捕まえるなんて、恐ろしいことじゃぞ。もし失敗でもしたら……」


「いいんだよ、爺さん。俺たちは、このまま貧しい生活を続けるわけにはいかない。転生者なんて、あの輪廻教団になら、高く売れるだろうさ。しかも、知ってるか? ちょうど今、王都にその教団のお偉いさんが来てるんだとよ。めったにない好機だ」


「本当か? 何をしにこのリグリア王国に来たのやら……」


「何だっていいさ、俺たちには関係ねぇだろ。俺たちが苦しんでるのは、上にいるこのクソみたいな宰相が悪いんだ。……転生者を教団に売って、その金で、俺たちの村の生活の足しになってもらおうぜ」


バルドの言葉を聞きながら、海里は胸の奥底に、鈍く重い痛みを覚えた。彼らが海里を温かく迎え入れ、親切にしてくれたのは、畑仕事の人手が欲しかったからではない。最初から、海里を売り飛ばすという目的があったからなのか。


「……待ってくれ。俺は、あなたたちを騙すつもりはなかった。だが、その転生者とか、危険って一体どういうことだ? 教団に売るって、何を言っているんだ?」


海里がそう言いかけた、その時だった。


「お前自身は、正直、危険そうには見えねぇけどな。でもな……」


バルドが言葉を、途中で一拍置くようにきった。それを合図としたかのように、海里の視界が、急にぐにゃりと歪み始める。


(眠り薬……?)


そう気づいた時には、既に遅かった。身体から急速に力が抜け、地面に倒れ込む海里。意識が薄れていく中、彼の耳に、バルドの、どこか歪んだ、嘲りの混じった声が響いた。


「おぉ、転生者って奴でも、俺たちが眠り薬はちゃんと効くんだな。良かったぜ、念のため何人か村人を外で待機させてたけど、要らぬ心配だったか。ま、諦めろや。お前には悪いが、これも俺たちの村の、生活の足しになってくれや」


意識が遠のく中、海里は今更ながら、エルドリックの家の外に、複数の人の気配が潜んでいることに気が付いた。


(眠り薬が効かなかった時の保険か……)


全身の感覚が麻痺し、海里の意識は暗く、深い闇へと沈んでいく。その時、彼の胸ポケットにいつも忍ばせていた、故郷で手に入れたペンダントが、微かに熱を帯びたように感じられた。それは、暗闇に消える寸前の、唯一の感覚だった。


次に海里が目を覚ましたのは、土壁に囲まれた、暗く狭い、冷たい倉庫のような空間の中だった。手足は縄で縛られ、身動き一つ取れなかった。



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