第10話:呪いの言葉
夜が明け、ロルカ村跡地から出発する前、海里はルクスの剣をジュノアに手渡した。
「ジュノアたちに会えて良かったよ。この剣は君たちが持っていてくれ」
ジュノアはそっと、その剣を受け取った。金属の冷たさが指先に伝わる。かつて、この剣には持ち主の命の熱が宿り、幾度となくルクスの命を守り、共に戦場を駆け抜けたはずだ。だが、今の刃はただの鉄となり、持ち主の熱はもうどこにも感じられない。ジュノアは剣を両手でぎゅっと握りしめた。その感触は、ルクスを失った痛みを再び呼び起こす。
「ありがとう……海里」
絞り出すような声でジュノアは応えた。剣の重みが、ルクスが彼女にとってどれほど大きな存在だったかを、改めて胸に突きつけてきた。
「私たち、白銀騎士団にとって、ルクスがどんな騎士だったか、どれほどの功績を残したか。それを証明する、何よりも大切な証になるわ」
ジュノアは、その剣をルクスが生きた証として、守り抜くことを心に誓った。しかし、すぐに冷静な騎士の顔に戻ると、海里の方を向き直る。
「といっても、海里。丸腰はまずいわ。王都への道は安全とは限らない。私たちの予備の剣を使って。この剣は、ルクスが持っていたものとは比べるべくもないけれど、護身用にはなるわ」
ジュノアの言葉に、海里は感謝を込めて頷いた。
「ありがとう、俺のほうこそ助かるよ」
海里はジュノアから差し出された、簡素だが実用的な予備の剣を受け取った。ルクスの剣ほどの重みも威圧感もないが、その冷たい鋼の感触は、海里を現実へと引き戻す。彼はもはや、ルクスの力を借りるだけの旅人ではない。自分自身の足で歩き生き抜かなければならない。
王都へ続く街道は早朝の冷気に包まれていた。夜露が草木に光の粒をまとい、静寂の中に時折、馬の蹄の音が響く。海里とジュノア、そして二人の王国騎士は、街道を王都へと向かって馬を進めていた。
海里はこれまで乗馬の経験など皆無だったが、不思議と不安はなかった。ルクスから託された力、それは彼の記憶や経験だけでなく、身体的な能力までもが海里に流れ込んでいるかのようだった。何の違和感もなく、自然と手綱を握り、馬体を操作することができた。まるで、ルクス自身がそこにいるかのように、海里は完璧な乗馬をこなしていた。。
海里とジュノア、そして二人の騎士は、多くの言葉を交わすことも少なく、馬を並べて進んだ。朝の光が森の梢を照らし始め、一行は王都へと続く道を進んでいった。
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数時間後、一行は街道沿いの開けた平原に出た。長く続いた森の道から解放され、騎士たちは安堵の息を漏らしたが、その時、異変は起きた。
周囲の茂みが激しく揺れ、土を蹴る音と共に、ゴブリンの集団が飛び出してきた。彼らの手には粗末な棍棒が握られていたが、その眼には獲物を見つけた飢えた光が宿っている。さらに、それを追うようにして、毛並みの汚れた飢えた狼の群れが、唸り声を上げながら一行を取り囲んだ。その鋭い牙と、固く引き締められた爪が、彼らの命を狙う。
ジュノアは、その場の状況を一瞬で把握した。迷いなく腰の剣を抜き放つと、流れるような、しかし極めて精密な動作で剣を振るった。
「水よ」
地面から、突如として勢いよく大量の水が噴き出した。その水はジュノアの意思によって形を変え、一本の鋭い鞭となって先頭を走る狼の群れの足を正確に絡め取り、その動きを完全に封じる。水の鞭は単なる拘束ではない。高圧の水流が、狼たちの腱と筋肉に鈍い衝撃を与え、一時的に麻痺させる。その隙を、騎士たちは見逃さない。一人が槍を低く構えて動きが乱れた狼の群れに突進し、もう一人は雄叫びを上げながら、無防備になったゴブリンの喉元を剣で切り裂いた。
ジュノアは、間髪入れずに次の敵へと意識を移す。彼女は、残っているゴブリンの攻撃を最小限の動きで受け流しつつ、水を纏わせた剣で斬りはらう。さらに彼女が剣先を別なゴブリンに向けると、高圧の水流が生成され、それは細く鋭い一本の線となって放たれる。連続して放たれた水流は、ゴブリンの急所である頭部と心臓を精密に穿つ。ジュノアの魔力が、水という形のない物質に、鋼鉄をも凌駕する形と重さを与え、相手の弱点を正確に狙い撃っていた。
彼女の戦い方は、まるで優雅な舞を踊っているかのようだった。水の膜で狼の牙を滑らせて防ぎ、その弾みを利用して狼の身体を横に弾き飛ばす。剣を振るうたびに、水が彼女の動きに呼応し、敵を翻弄する。水の魔力は彼女の身体の一部と化しており、一匹たりとも逃すまいという意志に満ち溢れていた。
一方、海里は、騎士から借りた簡素なロングソードを手に、静かに、しかし全身の感覚を研ぎ澄ませて立っていた。彼の眼は、混乱の中で動く敵の一挙手一投足を注視し、最も隙が生まれる、ただ一つの瞬間を待っている。彼の体から無駄な力は完全に抜け落ちていた。
ぎしゃあ!
体格の最も大きいゴブリンの一匹が、棍棒を振り上げ、獰猛な唸り声を上げながら海里に向かって突進してきた。
「ふっ!」
海里は微動だにせず、剣を低く構えたまま、相手の動きに合わせた。ゴブリンが振り下ろした棍棒が彼の頭部に当たる寸前、海里は驚異的な反射速度で、最小限の動きで体を横にずらした。棍棒の風圧だけが頬を掠める。その勢いを一切殺さずに、彼はゴブリンの懐深くに飛び込んだ。
海里は、自身がこの異世界に来てから得た、重力を操る新たな力を理解し始めていた。
彼の周囲の空気が一瞬、粘度を増したかのように、重く歪むような感覚がした。それは、彼にしか感じ取れない、力の放出の証だった。その重力操作によって、ゴブリンの動きが、まるで水中で動いているかのように急激に鈍くなった。その一瞬の、決定的な隙を見逃さず、海里は剣を振り上げた。借り物の剣でありながら、その軌道は迷いがなく、ゴブリンの脆い頭部を正確に切り裂いた。
「…やっぱり俺の意思で、任意の対象に重さを加えられている気がする…」
脳内でその現象を再確認する海里。次の瞬間、別のゴブリンが突進してきた。海里は、その棍棒を剣の柄で受け流すと、すぐさま剣を返し、今度は胴体を真横に一閃する。その一連の動きには、一切の無駄がなく、最小限の力で敵に致命傷を与えていた。
彼の戦い方は、この世界の騎士のそれとは、根本的に異なっていた。それは、相手の力を利用し、相手の動きを重力で阻害し、そこから最も効果的な一撃を放つ、洗練された受けの戦いだった。
戦闘が終わり、残りの狼とゴブリンは騎士たちによって掃討された。ジュノアは、驚きの表情で海里を見つめる。海里の戦闘能力は、彼女や、経験豊富な騎士たちを驚かせるほど極めて高かった。
「……あなたの戦い方は、敵の動きの癖やを見極めて、まるで自然に受け流すように戦うのね。無駄な動きが一つもない。それは、あなた自身が編み出した戦い方なの?」
ジュノアの率直な問いかけに、海里は少し戸惑いながら答えた。剣を握った手に力を込め、手のひらの汗を拭う。
「動き方は、この体が覚えているというか、経験則で俺の体に染み込んでいるんだ。だから、俺自身の戦い方と言えるのかは分からない。最近まで、俺はそれをすっかり忘れかけていたし」
そう言いながら、海里は息を荒げることもなく、借り物の剣をしっかりと握りしめた。戦闘後の彼の呼吸は、極めて穏やかだった。
「ジュノアのほうこそすごいな。水の魔法を自在に操っていて、まるで流れるような戦い方だった」
海里の純粋な称賛に、ジュノアは心からの笑顔を見せた。
「ふふ。ありがとう。水の魔力が私に一番合っていただけよ。重さ、硬さ、形、全てを自在に操れるから、色々と応用も効く。どう使えば敵を最も効果的に倒せるか、使い方を考えるのも結構楽しいのよ」
彼女はそう言い、清らかな水滴が滴る剣を鞘に収めた。二人の視線が交錯し、お互いへの理解がまた深まった瞬間だった。
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モンスターの群れとの激戦を終え、一行は再び馬の蹄を鳴らし、街道を急いでいた。緊張感が緩みかけたその時、今度は街道の曲がり角から五人の男たちが姿を現した。
彼らは揃いも揃って薄汚れた革鎧を身につけ、手には錆びついた剣や斧、そして農具を改造したような鈍器を握っていた。その眼は飢えと欲望にギラつき、明らかに通行人を狙う賊だった。
「賊ね....」
ジュノアたち騎士団は、まばゆいばかりの整然とした武装を着こなしている。それを目にしても、賊たちは怯むどころか、むしろ好戦的な笑みを浮かべた。騎士の集団、それも相当な手練れと見て取れる相手に、五人という少数で挑むその命知らずな行動に、ジュノアは心の底から呆れを隠せなかった。
「信じられない。白銀騎士団の装備を見ても、そんな装備で私たちに正面から挑んでくるなんて……」
ジュノアが静かに呟くのを聞きつける間もなく、賊の一人が獣のような低い声で、街道に響き渡るように喚き散らした。
「騎士どもぉ!そのピカピカの甲冑も、お前らが持ってる金目の物も、ぜーんぶ、この俺たちに寄こしやがれぇ!!!」
その挑発的な叫びが合図となったかのように、騎士たちは迷うことなく一斉に剣を抜き放った。しかし、海里の動きは彼らとは異なり、微かに止まっていた。彼は、先ほどの魔物との戦いでは何の躊躇もなく剣を振るうことができたが、相手が同じ人間となると、その刃を振り下ろすことに強い抵抗を感じていたのだ。
「海里!?危ない!!」
ジュノアの鋭い叫び声に、海里はハッと我に返る。彼の目の前では、既に他の騎士たちが戦闘を開始しており、剣と剣がぶつかり合う金属音が響き渡っていた。戸惑いながらも、海里は鞘から剣を抜き放つ。
賊の一人が、血走った眼をして海里目掛けて突進してきた。海里は咄嗟に剣を振るったが、その一撃は相手の体勢を崩し、動きを止めるのが精一杯で、決定的な一撃を加えることはできない。彼の心の中の倫理観が、人間にとどめを刺すことを許さなかった。
その一瞬の隙、海里が人間相手への躊躇で動きを鈍らせた間に、もう一人の賊が海里へ意識を向けたジュノアへと襲いかかった。すぐにジュノアは、冷静な騎士の表情に戻り、襲いかかる賊を目にも留まらぬ速さで、周囲の空気から凝縮した高密度の水流で捕縛した。賊は水で編まれた見えない鎖に縛られたように身動きが取れなくなる。
ジュノアの瞳に、一瞬だけ深い迷いと痛みが浮かんだ。それは、この男を殺めることへの逡巡だった。しかし、その迷いはすぐに、騎士としての職務と、帰還を優先させる判断へと変わった。彼女は、ためらいを断ち切るように、水の魔力で捕縛した賊の心臓めがけて剣を突き刺した。
「ごめんなさい。あなたたちを捕らえて王都まで移送し、裁きを受けさせる余裕は私たちにはないの」
ジュノアの謝罪する声が、倒れた賊の上に落ちた。他の騎士たちもジュノアの動きに触発されたかのように連携を強化し、次々と残りの賊を仕留めていく。海里が対峙していた賊も、彼が止めを刺すのをためらっている間に、別の騎士が側面から剣を突き刺し、息の根を止めていた。
「はっ、はっ、はぁぁ……」
戦闘が終わり、賊たちの死体が街道の土の上に横たわる中、海里は荒い息を繰り返していた。彼の額と背中には、大量の冷や汗が滲んでいた。先ほどの魔物との戦闘で激しく動いた時よりも、心臓が激しく脈打ち、体は鉛のように重かった。彼は、人間を殺めるという行為が、肉体的疲労とは比較にならないほどの精神的負荷をもたらすことを痛感した。
戦闘後、ジュノアは海里の傍らに歩み寄った。彼女の表情には、戦闘中の冷徹さはなく、深い理解が滲んでいた。
「人間相手に躊躇う気持ちは、無理もないわ。戦い慣れていた歴戦の騎士でさえ、相手が人となると、どうしても一瞬の躊躇いが生まれてしまうことがあるもの。特に、あなたは私に話してくれた、過去の悲しい出来事を思い出していたのでしょう?」
ジュノアの優しく労わる言葉は、海里の胸を鋭く締め付けた。彼の過去、転生前の世界で起きた悲劇、そして、この世界に来てから経験したすべての出来事が、まるで重石のように彼の心にのしかかっていた。
「ああ……すまない、ジュノア。俺のせいで、手間をかけさせてしまった。ありがとう、助かったよ」
海里は絞り出すようにそう答えた。
人間を殺めることへのこの強い抵抗感は、彼自身の過去のトラウマ、そして彼の倫理観と深く結びついている。だが、それだけではない。転生してからの経験、特に人の命が簡単に失われていくこの世界の現実を目の当たりにするたびに、彼の心は深く傷ついていた。
(俺は一体、転生してどうなったんだ?ルクスの力を譲り受けて、高い身体能力を手に入れたはずだ。魔物相手には、一切の躊躇なく力を振るえた。それなのに、なぜ、明確に自分を殺そうとしてくる人間、賊相手にまで、攻撃することを躊躇してしまったんだ?)
強くなっているはずの自分と、弱く、揺らぐ自分の心に、海里は戸惑いを覚えた。
この時、海里の脳裏には、かつて彼が自らの手で殺めた男の言葉が、強烈な幻聴となって蘇ってきた。
『ちゃんと、殺せるじゃないか』
あの男は、海里にナイフで胸を貫かれ、死の淵にあるにもかかわらず、その顔に歓喜とも満足ともとれる歪んだ笑みを浮かべ、まるで教え子の新しい経験を祝福するかのように、その言葉を海里に投げつけた。
その言葉は、海里がどれだけ時間が経っても、彼を蝕み続ける呪いの言葉となっていた。それは彼の心を深い闇へと引きずり込もうとする、抗いがたい力を持っていた。
ぎりっと奥歯を噛み締め、自己嫌悪と後悔に苛まれる海里に、ジュノアが再び優しい声をかけてきた。
「リグリアの王都に着けば、少しは落ち着けるわ。王都は、この街道沿いの場所とは違って安全よ。もう、間もなくよ、海里」
ジュノアはそう言って、冷たい金属製の甲冑に包まれたその手を、そっと海里の肩に置いた。その手は、冷たいはずの甲冑を介しているにもかかわらず、不思議なほどの温かさを海里の心に伝えた。その温もりが、海里の張り詰めた緊張を僅かに緩ませる。
「ありがとう、ジュノア」
やがて、一行が街道をさらに進み、それは姿を現した。圧倒的な威容を誇る白い城壁と、その城壁に守られるようにそびえ立つ、巨大な城が姿を現した。
(…あれが、リグリア王国の王都か。ルクスの記憶にあるとおりの、威容だ…)
海里は思わず息を飲んだ。王都の姿を目にした瞬間、彼の意識の奥底に眠っていたルクスの記憶が、堰を切ったように流れ込んできた。彼は、自分自身が知らないはずの、その城壁の複雑な構造、王都へ向かう街道沿いの地形といった詳細な知識が頭の中に流れ込んでくるのを感じた。
「ようこそ、海里。リグリア王国の王都へ」
ジュノアは、その声に安堵と優しさを滲ませて、海里に微笑みかけた。その声につられるように、海里は壮麗なリグリアの王都を、改めて見つめた。




