第9話:千切れた絆
海里とジュノアは夜の森の中、ひっそりとお互いの傷について語り合っていた。昼間の喧騒とは無縁の、静寂と闇に包まれた森。二人はその暗闇の中で、一筋の明かりと温もりを求めた。手近な場所で枯れ木や枝をかき集め、焚火を囲んで向き合うことにした。炎がパチパチと音を立てて爆ぜるたびに、周囲の闇が一時的に後退し、二人の顔を赤く照らし出す。
「海里、あなたも、大切な人を.....亡くしたのね」
ジュノアの声音には、ルクスを失ったばかりの痛みがにじんでいた。海里は焚火の揺らめく炎をじっと見つめながら、静かに頷いた。
「ああ、俺も、幼馴染を一年ほど前に亡くした.....。ある男に殺されたんだ」
その言葉は、炎の熱をもってしても消し去れない、冷たい事実を伴っていた。
「.....あなたの幼馴染は、その、どうして殺されてしまったの?」
ジュノアからの問いは、海里にとって、未だ癒えない傷口を抉るものだった。海里は、言葉を選ぶように、何度も深く、長く呼吸を繰り返す。肺に冷たい夜の空気を満たし、ようやく口を開いた。
「…俺と幼馴染は、その男から感じる違和感を、どうしても放っておくことができなかった。それは、絶対に超えてはいけない一線、命に関わる分水嶺だったんだと、当時の俺たちには全く分からなかったんだ」
海里の言葉は、まるで喉の奥にへばりついた、重く苦い塊を、一息で吐き出すようだった。一つ一つの音に、過去の後悔と痛みが込められている。夜の森は静寂に包まれ、焚火のパチパチという小さな爆ぜる音だけが、二人の間に流れる重々しい空気を、かろうじてかき消していた。
「違和感って、具体的に何を感じたの? その人はどんな人だったの?」
海里は、元の世界での専門用語や具体的な状況を避け、ジュノアにも理解できるよう言葉を選びながら答えていった。
「その男は俺や幼馴染にとって、先生といえる立場の人間だった。教えることに熱心で、幅広い話題にも精通している。表面上は、理想的で完璧な人物に見えていたよ。教え子たちの心を掴むのも抜群に上手くて、特に一部の教え子からは、ほとんど心酔されるほどの絶大な信頼を得ていた。カリスマ性があったといってもいい」
海里はそこで一度言葉を切り、夜空を見上げた。星々は遥か遠くで瞬いている。
「でも、その完璧さの裏側には、どこか冷たく空虚な気配が拭えない男だった。表向きは教えることに熱心なのに、教え子の一人のことを、まるで価値のない虫けらを見るような、感情のない冷たい目で見ていたのを俺は知っている。目に見えている輝かしい表の顔と、その裏側で全く違う冷酷な裏の顔を使い分けている。そんなチグハグさが感じられて、俺と幼馴染は違和感を拭い去ることができなかったんだ」
ジュノアは、海里の告白に、静かに、そして深く耳を傾けていた。彼女もまた、突然ルクスを失ったことで、人の心や、死というものに対して敏感になっていた。
「それで、あなたと幼馴染は、その先生にとって、何か不都合な秘密を知ってしまったの?」
「そうだ。その男の周囲では、不自然な形で、人が次々と姿を消すことが多かった。たとえば、その男と評価を二分している別な先生が、ある日突然、不慮の事件を起こして辞めざるを得なくなったり、あるいは、教え子の中で優秀だけど、その男に反発していた教え子が、突然消息不明になることもあった」
「ここまで聞くと、あなたの先生が、居なくなった人たちに直接何か特別な悪意ある行動をしたという風には、まだ聞こえないけれど.....」
「そうだろうな。偶然や不運だと片付けられる程度の、巧妙なやり方だった。でも、俺と幼馴染は、その男が俺たちのいる場所に来る以前から、その男の周囲では同じように不自然な失踪や、不幸な事件が相次いでいるという話を、いくつも噂や記録を集めて分かった。しかも、失踪したり、不幸な目に遭っているのは、その男にとって都合の悪い相手や、その活躍を毛嫌いしているような人物ばかりだった」
ジュノアは息を呑んだ。ただの偶然では済まされない、明確な意図を感じられる話だった。
「......続けて」
海里は、焚火に新しい枝をくべた。炎が再び勢いを増し、影が大きく揺れる。
「今思えば、その男には、俺たちが彼の秘密を嗅ぎ回っていることはすべて見透かされていた。その上で、俺たちを泳がせていたんだ。俺たちは最大限に警戒していたつもりだったけど、奴は俺たちがいつも会っていた場所も、秘密の調査をしていた時間も、すべてお見通しだった。その男からすると、俺たちの行動は、掌の上で転がす戯れみたいなものだったんだ」
海里の拳が、きつく握りしめられる。その時の彼の怒りが、焚火の光の中でも見て取れた。
「そして、ある日の夜。いつものように二人で情報整理をしている時、俺と幼馴染は、突然その男に襲われた。そして、俺の幼馴染は目の前で殺された」
海里は、その時の光景を思い出し、喉の奥が詰まるような激しい感覚に襲われた。呼吸が浅くなるのを必死に抑え、夜空を見上げると、無数の星々が、まるで遠い過去の出来事を見下ろしているかのように瞬いていた。
「その後、その男.....先生はどうなったの?」
ジュノアは、恐る恐る尋ねた。海里の答えは、静かだが重かった。
「.....俺が、この手で殺したよ。俺は、その男の不審な動きを警戒していたから、護身用のナイフを常に隠し持っていた。先に襲われた幼馴染は、致命傷を負いながらも、まだわずかに息があって、最後の力を振り絞って、その男の腕を掴んで動きを抑えてくれた。それで、一瞬の隙ができた。だから俺は隠し持っていたナイフをその男の急所に突き刺して殺した。自分の先生を殺した。そのことで投獄されて、罪を問われるはずだった。だけど、本来ではあり得ない早さで釈放された」
海里は、自嘲するように笑った。
「俺の証言から、その男の住まいが徹底的に調べられて、彼が過去に手にかけたであろう人物に関する様々な証拠が、まるで堰を切ったように大量に見つかった。その中には、俺や幼馴染に関する詳細な情報もあったらしい。それらが、彼の異常性を証明し、俺の行動が正当防衛だと認められたんだ」
「.......そんなことが」
ジュノアは絶句した。その衝撃的な結末に、それ以上の言葉が出てこなかった。
「俺は、釈放されてからは何もかもどうでもよくなって、守れなかった幼馴染を思い出そうとしたり、あるいはこの苦痛を忘れるために、ひたすら無為に、ただ生きているだけの、空虚な一年を過ごしていた」
海里の言葉には、深い諦観が宿っていた。
「海里、あなたはそこからどうやって立ち直ったの? 」
「未だに立ち直れただなんて思っていないよ。ただ、成り行きもあって、今ここににいるんだから」
実際、海里は、元の世界で子供を助けようとして事故に遭い、この世界に転生しなければ、今も世捨て人よろしく、自室に引きこもり、ひたすら机に向かっていたことは間違いない。彼は、自らの意志で立ち直ったのではなく、強制的に、状況を変えざるを得ない場所に置かれただけなのだ。
「成り行きというだけで、あなたはあの村で、リーファという女性を助けたわけではないでしょう。私のことも、初対面なんだから気にする必要なんてなかったのに、こうして気に留めてくれている」
「ジュノア。君は、俺の命の恩人のルクスが、死に逝く最後の瞬間に、心から想った人間なんだ。その恩人が心配していた君の様子を目の当たりにして、俺が気にしないわけにはいかない。それに.....」
海里は再び、真剣な瞳でジュノアを見た。
「違和感を放置すると、あとでそれ以上の、命に関わるしっぺ返しが来ることを、俺は骨身に沁みて知っている。君の抱えている悲しみや、その後の状況に、俺はあの時の違和感と同じような、無視できない何かを感じたんだ」
「もう!まるで私があとで、あなたにとってのトラブルの種になるみたいな言い方ね!」
ジュノアは、思わず口を尖らせた。その表情は、悲しみに沈んでいた彼女の顔に、久々に生気を取り戻させた。
「あ、ごめん。つい、過去の出来事を、君の状況に照らし合わせようとしてしまった」
「ふふ、構わないわ。でも、ちょっと怒ってみたくなるくらい、あなたって真面目で不器用ね」
ジュノアは、小さな笑みを浮かべた。海里の真摯さが、彼女の心をわずかに和ませた。
「なんだよそれ、はは」
海里も、控えめに笑い声を漏らした。それは、この一年で彼が発した笑いの中で、最も心からのものだったかもしれない。
「海里、辛い過去を、私に話してくれてありがとう」
「気にするなと言っておくよ。いま辛いのは、ルクスを亡くしたばかりのジュノアの方だ。俺のことは、もう1年以上も前に起きたことだから、過去の話だ」
それは、お互いに深い心の傷を持つ者同士の、静かな告白であり、傷の舐め合いと呼べるものだったのかもしれない。だが、この瞬間、焚火を挟んで向き合う二人の心は、確かに互いに寄り添い、少しだけ救われていた。
「ねぇ、海里。あなたの亡くなった幼馴染は何て名前だったの?」
ジュノアは、ふと気になり、最後に尋ねた。
「ん?幼馴染の名前は、鏡花だよ」
「鏡花?……鏡花。そう……。ありがとう、教えてくれて」
ジュノアは、その鏡花という名前に、言いようのない、胸をざわつかせるような既視感を覚えた。どこかで聞いたことがある。しかし、それがどこで聞いたのか、彼女は明確な答えを引き出すことはできなかった。
海里の過去の告白は、ジュノアにとって、海里という人物を、表面的な強さだけでなく、その内なる深い悲しみと正義感も含めて、深く理解する決定的なきっかけとなった。海里もまた、その辛い過去を正直に語ることで、ジュノアとの間に、言葉だけではない、心の奥底で繋がった信頼関係が築かれたことを感じていた。
そして、ジュノアもまた、海里の壮絶な過去に触れることで、彼がただの通りすがりの旅人ではないことを確信した。それでも、彼女はそれ以上、彼の過去について、詮索することはしなかった。
二人は、夜の森の中で、焚火の炎が尽きるまで、静かに語り合いを続けた。互いの過去の傷を静かに認め合い、そして、その傷跡にそっと寄り添うように。夜は深く更けていった。




