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輪廻の檻-アステル戦記  作者: あすらりえる
第一章_転生者の原罪
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第0話:プロローグ

空はどこまでも深く、容赦のない青さをたたえていた。降り注ぐ夏の日差しは強烈で、アスファルトの向こうで陽炎が揺らめいている。しかし、その眩しさとは裏腹に、水無月みなづき 海里かいりの心は、常に厚い鈍色の雲に覆われ、一筋の光も届くことはなかった。彼は18歳。本来ならば、未来への漠然とした希望を胸に抱き、大学への新しい道を歩み始める輝かしい時期のはずだった。だが、彼の時間だけは、ちょうど一年前の「あの日」から完全に止まってしまったまま、まるで深海の底に沈んでしまったかのように、一切の動きを失っていた。


彼の人生を永遠に変えてしまった、忌まわしい事件から一年が過ぎた。


隣にいつもいた。太陽のような明るい笑顔が眩しかった、かけがえのない幼馴染の少女。三澄鏡花みすみ きょうかは、その事件が起きた日、突如として彼らを襲ってきた男によって、命を奪われた。


そして、海里自身の命をも狙ったその男の命を、結果的に海里は奪ってしまった。それは、愛する幼馴染を奪われたことへの、激しい復讐心の発露だったのか。それとも、間一髪で自らの身を守るための、止むを得ない正当防衛だったのか。もはや、その行為にどんな意味があったのか、海里自身にも判然としなかった。彼の胸の奥底にへばりついて離れないのは、幼馴染を守りきれなかったという、鉛のように重く冷たい罪悪感と、二度と触れることのできない彼女への、途方もない未練だけだった。


事件後、海里は殺人の容疑で一時的に社会から隔絶された。世間の目は冷たく、彼の行為を「復讐」と見る者も少なくなかった。しかし、海里が殺めたその男の背後にあった複雑な背景、そして事件に至る経緯が特殊であったことから、異例の早さで「日常」へと戻ることができた。だが、海里にとって、それは何の意味も持たなかった。大切なものを失った彼にとって、社会的な立場や世間の評価など、取るに足らない、些細なことだった。


「世捨て人」――。そんな言葉が、いつからか彼の日常を支配していた。流行りとは無縁の、地味で地味な服装に身を包み、街の風景に溶け込んでしまうような、どこにでもいる青年。しかし、注意深く見れば、彼の周りにはいつも薄い「影」が付きまとっていた。彼の無頓着で諦念に満ちた日常を物語るように、少し長めに伸びた黒髪の下、どこか深い影を宿した瞳は、ほとんどの場合、長く伏せられがちな睫毛に隠され、他者と視線を合わせることを頑なに避けていた。


以前、海里は剣道に熱中していた。竹刀を握り、稽古着の匂いを嗅ぐだけで、荒ぶる心が不思議と落ち着くのを感じたものだ。しかし、今では、愛用していた竹刀は部屋の隅で、もはやオブジェのように埃を被っている。握り慣れたはずの柄に、もう一度、手を伸ばす気力も、そして、そうすべきだと感じる心の動きも湧かなかった。罪を犯したこの手で、また、剣の道に真摯に向き合うことはないだろうと、彼は固く心に決めていた。


海里の細く、線の通った指先は、今はただ分厚い参考書や問題集のページをめくることだけに、その役目を限定されていた。事件の記憶から逃れるため、彼は知識の広大な海に溺れることを選んだ。大量の文字を脳に叩き込むことで、過去の重荷から一時的にでも解放されることを切に願った。だが、どれほど集中して文字を目で追っても、脳裏に焼き付いた、血と硝煙の、あの恐ろしい光景は、一瞬たりとも消え去ることはなかった。それは、まるで心臓に深く刻みつけられた古傷のように、折に触れて鈍い痛みを伴い、執拗に彼を苛み続けた。


その日も、アスファルトから立ち昇る灼熱の陽炎が、景色を歪ませる午後だった。海里は、重い足取りで墓地へと足を運んでいた。そこは、都会の喧騒から隔絶された、静寂に包まれた空間だった。


「三澄家之墓」――。そう刻まれた墓石の横には、まだ新しい卒塔婆が立てられていた。そこに記された「三澄鏡花みすみ きょうか」の名を見つめ、海里は持参した桶から柄杓で水をすくい上げ、ゆっくりと墓石にかけた。清らかな水が墓石を洗い流し、真新しい花と共に、僅かに清涼感を湛えていた。線香に火を灯すと、立ち昇る白い煙が、夏の青空へとゆっくりと昇っていく。その白い筋が、まるで彼女の魂が今もどこかを漂っているようで、海里はただ、じっと、その行方を見つめていた。彼の心の奥底には、懺悔にも似た静かな祈りがあった。


墓参りを終え、海里はさらに重くなった足取りで、家路を急いだ。周囲の木々から降り注ぐ蝉時雨が、彼の心の奥底に響く、音にならない慟哭をかき消すかのように、ただひたすらに降り注いでいた。


その時だった。


耳をつんざくような、けたたましい金属音が、真夏の静寂を引き裂いた。海里が視線を向けた先、工事中の高層ビルから、巨大な鉄骨が無慈悲にも重力に従い、落下してくるのが見えた。その落下地点の真下には、一人の小さな子供が、太陽の光に目を細め、空を見上げたまま、ただ呆然と立ち尽くしている。


考えるよりも早く、海里の身体は、彼自身の意志とは関係なく、反射的に動き出していた。


「危ない!」


乾ききった喉から絞り出すような、掠れた声が、彼の耳には、まるで遠くで響く音のように聞こえた。次の瞬間、全身を突き上げるような、想像を絶する衝撃。鉄骨の冷たい質量が、彼の身体を容赦なく押し潰した。肺から空気が、まるで潰れた風船のように、一気に漏れ出る。激痛が全身の神経を駆け巡り、視界は激しく歪み、色彩を失っていく。


ああ、これで、終わるのか。


薄れゆく意識の中で、海里が認識できたのは、自分が必死に突き飛ばして守りきった子供の驚いた顔だった。かつて、人を殺めた自分の手。その手が、今、誰かの命を救った。それは、彼にとって、何よりも深く、魂の奥底を震わせる、唯一の救済だった。


――どんな理由があろうと、人を殺めた自分の命で子供を救えた。それが、あの事件以来、彼にできる、唯一で最大の償いだったのかもしれない。


ぼやけていく視界の先で、幼馴染、鏡花のあの陽だまりのような笑顔が、幻のように、ゆらゆらと揺らめいた。


僅かに動く指先に、彼は力を込めた。胸ポケットにしまっていた、彼女の形見である小さなペンダントを、強く握りしめる。


――叶うなら、もう一度、鏡花に会いたい。


握りしめたペンダントが、微かに淡い光を放ったような気がした。それを最後に、水無月海里の意識は、永遠の闇へと遠のいていった。


ただ、蝉時雨だけが、まるで何も変わらないかのように、真夏の午後に、降り注ぎ続けていた。



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