序章:相棒
深々と、その神聖なる気配が、空間を静かに染めていた。
淡く光を孕んだ枝葉が、まるで祈るように空へと伸び、辺りに柔らかな命の気配を漂わせている。
威圧ではなく、包容。攻撃ではなく、赦し。
それはただ「在る」だけで、そこにいる者の鼓動を落ち着け、震える魂すら抱きしめるようだった。
「こ、これは……もう、何が起きても驚かないさ……」
さっきまで恐怖で叫んでいたおじさんが、力が抜けたようにその場へとへたり込む。
驚愕というより、もはや“受容”だった。非日常に慣れたわけじゃない。ただ、心のどこかで理解したのだ。
これはもう、普通じゃない。
だとすれば、この少年の“異常”もまた、受け入れるしかないのだと。
「大丈夫です。この樹の効果内にいる限り、あのモンスターたちは近づいてこれません」
俺が指差した先には、さきほどチリとなって崩れ去ったモンスターの残骸──。いや、“痕跡”ですら残っていない空間がある。
あれは“焼き尽くされた”わけでも、“吹き飛ばされた”わけでもない。
この神聖領域に触れたことで、存在ごと“浄化”されたのだ。
その事実が、この言葉に説得力を与えていた。
(さっきも、助けたいって考えたら能力の使い方を思い出した……。)
(もしかして、発動のきっかけは、俺の想い……?)
(それに、「浄化」…。モンスターって、一体何なんだ?)
一瞬、頭をよぎる。
だが、今は思考に沈む余裕はない。
動かなければ、命が、こぼれていく。
「おじさん、とりあえずはここにいてください。この中なら安全です。もし周囲に人が来たら、ここへ誘導をお願いします」
「ありがとう……でも、私も……家族がいるんだ。すぐそこに、ほんの二つ角を曲がったところに……妻と、息子が……」
言葉を詰まらせたおじさんの視線が、ちらりと遠くを仰いだ。
その先には、確かに住宅街が広がっている。
「……わかりました。でも、無理はしないでください。その二人も、必ず守ります」
俺の言葉に、おじさんははっと息を呑み、ふっと笑った。
それは、救われた者の表情だった。
「安心してください。ここら一帯のモンスターを──俺が、全部倒します」
自分で言っておきながら、根拠のない自信だった。
だけど、どこかで“できる”と信じていた。
わかるのだ。俺のこの能力――生命神は、戦いのためにあるのではない。
命を救うために、“世界を変える”ためにあるのだと。
俺は、周囲へと意識を広げる。
この神樹を起点に、さらに樹を生やし、広げる。
少しずつ、少しずつでいい。
この街に、“命の避難所”を張り巡らせていけばいい。
それができると、確信していた。
……だが、時間がかかる。
何より──人手が、足りない。
可能でも、間に合わなければ意味がない。
命は、等しく儚い。
俺が一人で背負い続けるには、あまりにも数が多い。
どうしたものか……と、思考を巡らせた、そのときだった。
「たぁっ!」
イッシーが、ぽん、と肩から飛び降りた。
その小さな身体が、足元の地面へと着地する。
次の瞬間──
ゴガ、ガガガガ……!
周囲のコンクリートが振動する。
まるで石材を彫るかのように、地面が盛り上がり、イッシーの身体が膨張していく。
腕、脚、胴体──石と砂のパーツが重なり合い、ガチガチと音を立てて変形を始めた。
「……うわ、でっか……」
気づけば、目の前に立っていたのは、2メートルを優に超える巨躯の石像。
手足は長く、全体的に筋骨隆々としたフォルム。
どこかで見たような……そう、RPGに出てくる“ゴーレム”に似ていた。
「イッシー、任せても……いいか?」
俺の問いに、イッシーはぐっと拳を握って頷いた。
その声は、さっきよりも少し低く──だが確かに、喜びと誇りに満ちていた。
「だあっ!」
そうか。俺は、一人じゃない。
こいつも、命を賭けて一緒に戦ってくれる仲間だ。
「イッシー。この街のモンスターを片っ端から倒してくれ。そして、人がいたら救助を頼む。
俺は、“樹”を生やして、避難所を増やしながら人を救う!」
その一言で、イッシーの石の拳がぐっと力を込めた。
俺たちは視線を交わす。言葉はいらない。互いに、やるべきことを理解していた。
「君……行くんだね?」
後ろから、声がかかった。
振り返ると、おじさんが立ち上がっていた。震える足で、俺に向かって一歩だけ踏み出す。
「助けてくれて……ありがとう。本当に、ありがとう……どうか、家族を、この街を……守ってくれ……」
その目には、涙が浮かんでいた。
恐怖や混乱、安心、感謝──あらゆる感情が、決壊したようにあふれていた。
……ああ、俺は、やっぱり人を助けたい。
命のために、この力を使いたい。
今だけじゃない。これからも、ずっと――
この街と、人を、守るために。
──────────────
御影石────。
その名は、日本において特別な響きを持っていた。
神社の鳥居や灯籠、墓石に至るまで、古くから“結界”や“祈り”の場に用いられてきた、人類にとって最も身近で、そして神聖な石材の一つ。
加工作業のしやすさもありつつ、それ以上に「清めの力」があると信じられてきた。
高坂圭の家にも、一つの御影石のお土産が置かれていた。
何気ない形をしていたが、実は“魔除け”の意味が込められていたという。
───魔を退けるもの。
偶然か、必然か。
その力を秘めた御影石が、今――モンスターに襲われる街で、“人類の味方”として立ちはだかる。
「だああああいっ!!!」
天地を揺るがす咆哮とともに、イッシーが突進した。
一騎当千。孤軍奮闘。百戦錬磨。
強者を形容する言葉は数あれど──彼の戦いぶりは、どこか“言葉にならない圧”を持っていた。
型などない。戦術も、ない。
あるのはただ、爆発的な運動量と、破壊本能に忠実な“怒り”に似た感情。
「BguaaaaaA!?」
モンスターの断末魔が、空を裂いた。
肉が裂け、骨が砕け、闇の粘液が吹き飛ぶ。
轟音。怒号。破裂音。
ただ“蹂躙”としか言いようのない衝撃が、周囲に響き渡る。
名を、イッシー。
人々から見れば奇怪な存在かもしれない。
だがその姿、その咆哮、その破壊力。
全てが“味方”であることを証明していた。
彼は今、石の英雄となっていた。
「ねぇ、ママ……こわいよ……」
「だ、大丈夫、大丈夫だから……!」
廃ビルの裏手に身を潜めていた母子がいた。
だが、その祈りのような願いも虚しく、物陰から覗いたモンスターの一体に見つかってしまう。
呻くような咆哮と共に、巨大な腕が母子へと迫る――。
「キャアアッ!!」
次の瞬間。
轟く重低音とともに、その腕は粉々に砕けた。
コンクリート片のように四散したそれは、もう元が“肉”であったことすら忘れさせる。
「だあああああああっ!!!」
その中央に立っていたのは、イッシー。
全身から煙を上げるような熱気を放ちつつ、母子を庇うように立ちふさがる。
モンスターが再び襲いかかろうとした、その瞬間――
イッシーは容赦なく、その顔面を石の巨大な指で鷲掴みにした。
「ギギギギギギッ!」
耳をつんざく金属の軋みのような音が鳴る。
だがそれは金属ではない。
“骨”が、砕ける音だ。
そして───
ドォンッ!
ガアァンッ!
バギィィッ!!
イッシーは、掴んだままのモンスターを引きずり回すように、地面へ何度も何度も叩きつけた。
アスファルトが砕け、粉塵が舞い上がる。
割れた舗装の隙間から煙が上がり、悲鳴とも咆哮ともつかない音が、徐々に消えていった。
最期の一撃で、モンスターは原形を留めぬ肉片へと変わった。
血は出ない。
黒い液体が、石の身体に吸い込まれるように消えていく。
ただ一言で言い表すならば──圧倒的な“制裁”だった。
イッシーは、そのまま振り返り、
震える母子を、ゆっくりと見下ろす。
その眼差しは、奇妙なほど、優しかった。
「こわ……くない……?」
少女が、ぽつりと呟いた。
「だぁい☆」
イッシーは、まるで応えるかのように、ゴーレムの分厚い指先で、軽く地面をトントンと叩いた。
その仕草が、不思議なほどに子どもじみていて、母子の緊張をほぐしていく。
「……ありがと、う……」
母が、涙を浮かべてそう呟いたとき、イッシーは再び空を睨みつけた。
守るべき命は、まだこの街に残されている。
破壊は、守るためにある────。
彼の身体が再び音を立てて動き始めた。