序章:救世主
ドンッ!!
空気を突き破る音がした。
景色が、ぶっ飛んだ。
地面を踏みしめたはずの足の感覚は、もうどこにもない。
全身が風の中を突き抜ける。
ビルも道路も、脇にあった街灯さえ、視界の隅で流れていく。
俺、今……走ってるのか?
違う。
これは───跳ねてる。飛んでる。突っ切ってる。
人間の身体が、ここまで動けるわけがない。
でも今、俺の体はそれを“当然”のようにやっている。
呼吸が連動し、心臓がリズムを刻み、
全身の細胞が勝手に最適化されていく感覚。
「……これが、変換……!」
呟いた言葉が、脳に火花を散らす。
理解する。
これは──生命力の変換。
生命のエネルギーを、筋肉へ、骨へ、神経へ。
圧倒的な“活力”として、全身に還元している。
なるほど、そういうことか。
再生と同じく、“使うべきとき”が来たから、思い出した。
じゃあ、次も───
その瞬間。
景色の端に、迫る巨大な壁が映った。
あっ。
「うおっっっっっ!?」
ガンッッッ!!!!
凄まじい衝撃が、体の側面を打ち抜いた。
ビルの角だ。避けきれなかった。
足がもつれ、イッシーごと吹っ飛ぶ。
ゴロゴロゴロッ……!
アスファルトの上を転がりながら、肩をついた瞬間、鈍い痛みが全身を駆け抜けた。
「がっ……、っつ……っっっ……!」
反射的に身を丸めて衝撃を逃がす。
イッシーもごつんと落ちて、俺をじとっと見つめている…ごめんて。
「いってぇ……マジで……」
身体は強化されてる。既に負った傷は再生された。でも、痛みはちゃんと残るんだな……。
心臓がバクバクと騒ぎ、息が熱い。
でもそれ以上に、内側にまだ“力”があるのを感じる。
これが俺の能力……生命神の力……!
この体が、やっと“戦える状態”になってきた。
周囲を見渡す。建物の壁はひび割れ、舗道にはところどころ瓦礫が転がっている。吹き飛んだ標識、ひしゃげたフェンス。さっき俺が踏み込んだときの衝撃が、確かに現実のものだったと証明している。
それでも───誰も来ない。
どれだけ大きな音を立てようと、悲鳴が響こうと、この街には誰一人駆け寄っては来ない。
……違う、来られないんだ。今この瞬間も、あちこちで“何か”が起きてる。誰かが、逃げている。誰かが、死んでいる。
街が“それどころじゃない”のだ。
喉の奥がひりつく。背中がひやりと冷える。手足が震え、心臓が鼓動で体内を打ち鳴らす。
……怖い。戦うなんて、正直たまったもんじゃない。今こうして窓から飛び出したのも、アドレナリンまみれの衝動にすぎなかった。
もしあの瞬間、少しでも理性が戻っていたら、こんな真似、きっとできなかった。
でも。
冷静になる前に、後悔する前に――なにか行動を起こさなきゃいけなかった。
「とりあえず、広いところまで出てみよう」
肩の上のイッシーが、小さくピクリと動いた。ぎこちないが、しっかりしがみついている。生きてる……こいつも、命なんだ。
俺は再び地面を蹴りつけ、走り出す。
比較的田舎ではないこの街は、大学を中心に高低差ある建物が密集している。曲がり角をいくつか抜け、大通り沿いへと進んだそのときだった。
「うわあああ!やめろ、やめてくれ!!」
男の絶叫が響く。空気を裂き、喉を潰すような本物の悲鳴。すぐ先の駐車場からだ。
俺は反射的に走り出す。──速い。風が顔に突き刺さるようにぶつかってくる。筋肉が、骨が、意志を伝える前に反応している。
今この瞬間、俺の体は思い描いた通りに“走れている”。それがどれだけ尊いことか、圧倒的な実感として伝わってくる。
駐車場の端、そこにいたのは─────
黒い芋虫のような、異形の怪物。
あの狼人間よりも、さらに一回りは大きい。異様に艶めかしい質感の体表。体液のようなものがじゅくじゅくと滴り、うごめく腹部は呼吸するように蠢いていた。
その前で、車に乗り込もうとしていた中年の男が、足を取られ地面に倒れている。
「伏せて!!!!!」
怒鳴りながら、飛び込んだ。
芋虫の脇腹に、一撃。
全身を捻って叩き込んだ右の拳が、信じられない衝撃と共に怪物の肉を抉った。ぐちゅり、と粘着質な手応え。拳が、深く沈む。そして──怪物は、そのまま跳ね飛ばされた。
ずしゃあ、と嫌な音を立て、芋虫はコンクリートに叩きつけられ、動かなくなった。
「っは……倒した……?」
信じられなかった。俺が、やったんだよな…?
だが、そこに横たわるのは、動かぬ死体だ。異形の巨体からは血とも体液ともつかない液が流れ、地面を染めていた。
「……やれる。俺、やれるかもしれない」
それは確かな手応えだった。救える。この力なら、まだ“間に合う”。
「大丈夫ですか!?ほら、 捕まってください」
呆然としていた男の前に駆け寄り、手を差し伸べる。
「あ、ありがとう…。なんだってんだ、もう何がなんだか……」
中年の男性──作業服姿。名前入りの会社ロゴが入ったシャツの袖が破け、腕に深い裂傷が走っている。逃げる途中で怪我をしたのだろう。息が荒く、顔色も悪い。
「少しだけ、じっとしていてください」
正直、他人に能力を使うのは初めてだ。でも、不思議と“やり方”は知っている。そう、“知っていた”。まるで思い出した記憶のように。
そっと手をかざす。深緑の光が、男の腕を優しく包み込んだ。
「…っ!な、なにをして……」
「一瞬だけ。……我慢してください」
骨が、皮膚が、再構成されていく。ひび割れた陶器がなめらかに戻るような、奇妙な再生の過程。
その不快さも理解できるからこそ、声をかけながら集中する。
「……おお……すごい、怪我が……一瞬で……」
男の目が、見開かれる。血は止まり、傷跡は影も形もなく消えた。
俺の能力は、やはり救難においては“反則”級だ。
「ありがとう…。けど……本当に、これは現実なのか?街のどこもかしこも、化け物だらけだ……車で逃げようとしても、無事に出られる気がしない……」
怯えきった声でそう呟いた男の指に、銀色の結婚指輪が光る。家族がいるのだ。だから、生きなきゃいけない。
俺は、ふと倒した芋虫の方に目をやる。
「たぁ……?」
イッシーが、肩の上からこちらを覗き込む。死んでるよ?って言いたそうな目。
あと、おじさんがイッシーにびっくりしてるから、ちょっとおとなしくしてくれ。
「また、なにか……思い出せるかも」
芋虫の死骸に近づき、ひとつ息を呑む。……臭い。腐臭と薬品のような匂いが混ざり、気を抜くと吐きそうになる。
だが構わず、傷口に手を突っ込む。
体液がぬるりと絡みつき、指が肉をかき分ける。不快感の塊だ。だがその奥に、熱がある。生命の残滓。魂の燃えかすのようなエネルギーが、確かにそこに宿っている。
「おい、兄ちゃん!! もう一体、でっけぇ化け物が来てるぞ!! 一緒に逃げよう!!」
男が叫ぶ。振り返れば、影のように接近してきているもう一体のモンスターの気配。
この人は、優しい人だ。さっきみたいに倒してくれとは言わないんだな。
でも、俺はもう逃げない。
助けたい。できる。助けられる。そう信じられる。
そして自然に、意識が力へと変わっていく。
「……神聖なる樹」
温もりが、形を持ち始める。
ぐちゅり、ばきばき、と音を立てながら、芋虫の死体が変容する。肉が伸び、骨が軋み、肌が木皮へと変わっていく。芽吹いた若葉が枝へと広がり、駐車場一面を包み込むように、“樹”が生まれる。
大地から現れた神木のように、その枝葉は静かに、だが確かに“世界”を侵食する。
「GAaaaaa……Ga…………」
現れたばかりのモンスターが、咆哮をあげた瞬間──
その体は、樹の枝に触れた瞬間、塩が溶けるようにチリと化し、風に消えていった。
「あ、あれ……? 化け物が、いきなり……」
男が、呆然と呟く。
そうだ。これが、「神聖なる樹」。
生命エネルギーを持つ存在を、その量に応じた“樹木”へと変える。そして、その神聖な領域の内に、異端なる“魔”が存在できるはずもない。
守るための力。生きるための力。
俺の力は──確かに、ここにある。