序章:変換
「くそ、……いってえ……」
喉の奥で吐き捨てた声は、妙に乾いていた。
左肩に伸ばした指先が、ぶつりと生ぬるい感触に触れる。
破れたシャツの隙間から覗いたのは、赤黒く裂けた皮膚と、そこに滲む血の筋だった。
感覚の奥で、疼くような痛みがリズムを刻むたび――
さっきの“獣”の一撃が、ただの悪夢ではなかったと骨身に染みて思い知らされる。
現実だ。
全部、現実だったんだ。
あの化け物も。
この傷も。
そして──命を持った、彼も。
「……たぁ?」
振り返ると、イッシーがこちらを見上げていた。
ごつごつした岩肌の顔に、ほんの僅か、曇った表情のようなものが浮かんでいる。
無機質なはずなのに、不思議と伝わってくる“心配”の色。
「おまえ……ほんと、不思議なやつだな」
笑いそうになった。
ご立派な大理石の筋肉さえ無ければ、案外かわいいのかもしれない。
なんて、傷の痛みに顔をしかめながら、そんなことまで考えてしまう。
本当に、もう“ただの置物”じゃないんだな。
だが、ふと視線を肩に戻したとき。
その思考の隙間に──何か、得体の知れない感覚が流れ込んできた。
……脈動。
それは、記憶の深い層から滲み出すように、静かに、けれど確かに存在していた。
“……あれ?”
声にならない疑問が、意識の奥で浮かぶ。
“これ、……俺、治せるぞ”
そう確信した瞬間にはもう、身体が反応していた。
感覚が、意識の内側へと潜っていく。
まるで深海のように静かで、それでいて満ち満ちた空間。
今朝まで空っぽだったはずの内側に、濃密な何かが――確かに宿っている。
生命の力だ。
大地の息吹にも似た、その原初的な“いのち”の流れが、自分の内から溢れている。
それは知識ではなかった。感覚だ。
思考や言葉を飛び越えて、当たり前のように“そこにあるもの”として、染み込んでくる。
だから自然にできた。
意図したというより、本能的に───
傷口へと、意識を、添えた。
微かに、空気が震えた。
骨の軋むような音。
それに混じって、耳の奥に“緑”が響いた気がした。
じんわりと、淡い光が滲み出す。
深く、濃い緑。
森の奥のような、静謐で、それでいて圧倒的な生命の色。
それが傷に吸い寄せられるように、じわり、じわりと流れ込み、包み込んでいく。
血が止まり、筋繊維が繋がり、皮膚が再構築されていく───
だがその過程は、決して“快”ではなかった。
神経が勝手に再生していく違和感に、背筋がむずがゆくなる。
まるで体の内側を蟲が這うような奇妙な不快感。
だが、それでも目を逸らすことはできなかった。
やがて光が静かに収まり───
「……うお、マジかよ……」
唖然とした声が、口から漏れた。
見ると、そこにあったはずの傷が、もう、無い。
皮膚は滑らかに再生し、血の跡さえ残っていない。
まるで最初から、何もなかったかのように。
「……すげぇ、なんだこれ……」
言葉が追いつかない。
ただの回復じゃない。
これは、“再生”だ。
“創り直す”力だ。
そして、それが“自分”の力だということが――
ひどく現実離れしているのに、やけに納得できる。
「能力の使い方って……必要にならないと、思い出せないのか……?」
そう呟いた瞬間、先程の黒い紙を開いたときの“あの感覚”が脳裏に浮かぶ。
あのとき流れ込んできたのは、情報というより、“情動”だった。
誰かの記憶の断片。あるいは、想い。
他の能力者たちのSNS投稿を思い返す。
彼らは皆、紙を開いた瞬間に“使い方”を理解していた。
ならば俺は、何かが違うんだ。
特別、なのか──それとも、“欠けて”いるのか。
今のところ判明しているのは二つ。
一つ。
命なき物に、命を与える力。
吹き込まれたものは、自立して動き、意思すら宿す。イッシーのように。
そしてもう一つ。
“再生”。
肉体の傷を癒し、細胞ごと蘇らせる力。
さっき使ってみて、確かに分かった。
この能力、底が見えない。
「……今なら……頭を吹き飛ばされたとしても、生き返れるかもな」
冗談のように笑ったけれど、その笑いには寒気が混じっていた。
そんなこと、試したくもないけれど──でも、根拠のない確信があった。
この力、きっと普通じゃない。
きっともっと、奥がある。
考え込んでいたせいか、すぐには気づかなかった。
だが、外の空気が──明らかに“おかしい”。
「……っ」
窓の外から、耳を劈くような破裂音。
そして、金切り声とも爆音ともつかない、得体の知れない鳴き声が響く。
地響き。
遠くで何かが倒壊する音。
悲鳴。
金属が軋む音。
それらが断続的に混ざり合って、世界の終わりのような騒音を形づくっていた。
───これは、俺だけじゃない。
街が、襲われている。
震える心臓の奥に、ひとつの感情が灯る。
それは、恐怖でも、不安でもない。
もっと静かで、でも確かに熱を持ったもの。
……希望。
そう、たぶんこれは“希望”なんだ。
力を与えられた者にだけ、流れ込んでくる“責任”という名の意志。
「俺なら……やれる。助けられる。」
自惚れじゃない。
確信でもない。
けれどその言葉を口にした瞬間、何かがカチリと噛み合った気がした。
力の使い方。
それがまた一つ、脳裏に“置かれた”。
今の俺には、“変換”ができる。
生命のエネルギーが、全身を駆け巡る。
それは回復のときと同じ感覚。
意識を向ければ、肉体の隅々まで、力が脈打っているのがわかる。
ただ満ちているのではない。
流れている。
動かせる。
そしてそれを“別のもの”に変換できると、知っている。
不思議と、怖くなかった。
むしろ、心が澄み渡っていく感覚があった。
俺の中には、力がある。
誰かの命を守れる力が、確かに──宿っている。
だから、俺は────
「行こう。イッシー」
思わずそう呟いた俺の肩に、重量感のある塊が飛び乗る。
……重い。普通なら倒れてた。けど、倒れない。
それどころか、重さを“意識で抑え込める”感覚があった。
さっきまでと、何かが違う。
内側が、熱い。
いや、熱いだけじゃない。
脈打ってる。
再生に使ったはずの“あの力”が、まだ俺の中で蠢いてる。
踏み出せと、体の奥から命令がくる。
怖い。でも、逃げるわけにはいかない。
そう思って、一歩、前へ……。
─────世界が、一瞬、置き去りになった。