序章:襲撃
そんなことを───
「これ、チートじゃん……」なんて、現実感のない感嘆を頭の隅で呑気に考えていた、その時だった。
──どがぁああああん!!!!!!!
轟音。
部屋の空気が一瞬で張り詰めた。
金属を叩き潰したような、鈍く重い破裂音。
窓ガラスが粉々に砕け、鋭い破片が宙を舞う。
ベランダの窓が、内側から爆発したように弾け飛んだ。
風圧が家具を揺らし、カーテンが怒り狂ったように舞い上がる。
「うぁっ、なに!?!?」
驚愕と恐怖が、脊髄を突き抜けた。
反射的に身をすくめた俺の目の前を、黒い“何か”が猛スピードで突っ切っていく。
その姿をようやく捉えた時には、すでに床に降り立っていた。
……狼と人間を混ぜたような、異形の存在。
黒い体毛。異様に発達した筋肉。
そして、なにより──獣の眼。
本能の底を直接えぐってくるような、剥き出しの殺意。
『Grrrrrrrr……Graaaa!!!』
低く、濁った唸り声。
床板がギシ、と軋むほどの質量。
……ま、待て待て待て。
俺の部屋、ここ五階なんだぞ!?
どうやって? 何がどうなって、こんなのが……!
現実が、ずれる。視界が歪む。
また、だ。思考が止まる。今日だけで、何度目だ?
けれど、そんな停止にかまう猶予など、あるはずもなかった。
「って、ちょ!? うおおっ!?!?」
殺気が背筋を貫いた。
体が、先に動いた。
紙一重で横に跳ぶ。
床に突き立った爪が、鋭く床材をえぐった音が耳に残る。
……少し、慣れてきているのかもしれない。
思考が止まるたびに、俺の体は、勝手に動こうとしている。
だが───
『GRAAAAAAAA……!!!』
そいつは、なおもこちらを見据えていた。
逃した獲物に苛立つ捕食者の眼。怒気に滲む唾液が、牙の間から滴っている。
やばい。
やばいやばいやばい。
これ、現実だ。ゲームじゃない。ラノベでも夢でもない。
“今ここ”に、あんな化け物が……!
どうする? どうやって生き延びる!?
包丁……? いや、もう間に合わない!
能力、使う!? でも、使い方が……!
焦りと混乱。
SNSで見た能力者たちのように、俺にはなれない。
俺には、まだ――
『Graaaaaaaaaaa!!!!!!!!!』
──その“迷い”を、見逃してくれるはずがない。
飛ぶ。
バネのような脚力が床を弾き、奴の巨体が、弾丸のように迫る。
鋭い爪が、俺の視界を裂こうとしたその瞬間――
「ぐっ……!」
間に合わない。
肩に、焼けるような痛み。
視界の端で、シャツが裂け、赤いものが滲むのが見えた。
避けきれなかった。
鋭い爪が、俺の左肩を浅く切り裂いていた。
「っ……痛っ、くそ……!」
ジンジンと火照るような痛みが神経に染みる。
足がふらつき、倒れそうになる。けれど、そうなる前に───
「たぁあああ……だあっ!!!!!!」
ゴォンッ!!!!!!!
石を叩きつけるような、重く硬い衝突音。
『Wauッ!?』
吹き飛ばされたのは――異形の方だった。
大理石の拳が、真横から顎を砕くように叩きつけていた。
巨体が浮き、家具をなぎ倒し、壁へ激突。
たんすが潰れ、本棚の本がバラバラと落ちていく。
ゴツッ……と、肉の重みを感じさせる鈍い音がして、
そいつは、動かなくなった。
「……え?」
意識が現実に追いついてくる。
呼吸が浅くなる。目の前に広がるのは、
血。
床に広がる黒っぽい液体。
倒れ伏したまま、微動だにしない、狼のような異形の死体。
無様に仰向けになり、あの鋭かった牙が砕け、舌がだらりと垂れていた。
腹部は衝突の際に打ち砕かれたのか、内臓が露出し、濁った息が一度だけ──ぷす、と漏れる。
死んでいる。
確かに、もう動かない。
けれど……
「……こいつ、何だったんだ……」
怖い。
目の前の“化け物”の死体が、静かにそこにあるということが、恐怖を倍増させてくる。
さっきまで動いていた。
あれは幻覚じゃない。
俺の肩には爪痕が残っていて、今も、血がじわじわ流れている。
俺が死んでいても、おかしくなかった。
そんな中で――
「たぁあ!☆」
小さな影が、胸を張ってこちらを見上げていた。
ドヤ顔のイッシー。
御影石の拳を誇らしげに掲げている。
……この子が、俺を助けてくれた。
ただのありがたい石だったはずの存在が、命を持ち、戦い、俺の命を救った。
その事実に、ようやく全身が震え始めた。
「……ありがとな、イッシー……」
そう呟いた声が、情けないほど掠れていた。
でも。
それだけじゃない。
また、脳の奥が疼く。
黒い紙を開いた時に流れ込んだ、“何か”の記憶。
言葉じゃない。
映像でもない。
でも確かにあった、“願い”のような、祈りのようなもの。
全容の分からない力。
けれどそれは、ただの“チート”なんかじゃない。
重さがある。
意味がある。
そして、たぶん──
「……俺は、これから、もっと知ることになるんだろうな」
この力のこと。
黒い紙のこと。
命の重さ。
“彼ら”が何者なのか。
あの神が俺に何を託したのか。
そう考えた瞬間、さっきまでの恐怖とは別の、ひどく冷たいものが背筋を撫でた。
終わりじゃない。
これは、始まりなんだ。
死んだはずの獣の死体が、何かの前兆のように思えて───
俺は、震える指先を握りしめた。