第一章:2度目の朝
ソファでの寝心地は思ったよりも悪くなく、気持ちよく目が覚めた。窓の隙間からは淡い朝日が差し込み、街の輪郭を橙色に染めている。
……ただ、どうにも日当たりは良くないみたいだ。
ゆっくりと身体を起こしたところで、タイミングよくドアが開き、鷲尾がリビングへ入ってきた。
「おはようございます、鷲尾さん。」
「……おう。洗面所は出てすぐ右んとこだ。好きに使え。」
ぶっきらぼうな口ぶりに反して、彼はそのまま台所へと足を運んでいった。やっぱり不器用ながらも面倒見がいい人だな、と苦笑する。
洗面所は至って普通で迷うこともなかった。俺は慣れ親しんだ仕草で、無意識に魔法を使って汗を拭い、汚れを浄化し、フーフェに声をかけようとして、ふと手を止める。
「……そっか、ここはもう現実なんだよな。」
五百年の間に染みついた生活のルーティン。花神様との修行の中で生み出した、いつも共にあった妖精フーフェに「今日の朝食は?」と問いかける習慣も、もうできない。
今の俺の隣には、あの小さな存在はいないのだ。胸に、ほんの少しだけ寂しさがよぎった。
がらら、と勢いよくドアが開く。
「あっ、すみません入ってい──」
飛び込んできたのは静香だった。爆発でもしたのかと錯覚するほどのボサボサの髪、サイズの合っていないダボダボのパジャマ姿。普段の知的な雰囲気はどこへやら、あまりの落差に思わず固まる。
しばしの沈黙。
「……ずび。」
「ずび……?」
「ずびばせんでしだぁああ!!!!!!!」
顔を真っ赤に染めながら、叫ぶように謝罪すると、バタンとドアを閉め、猛ダッシュで走り去っていった。
……いや、そんな全力で取り繕わなくても。
爆笑したい気持ちをぐっと堪えつつ、俺は洗面所の鏡に映る自分を見て小さく息を吐いた。
身支度を整えてしばらくすると、全員が起き出し、リビングで朝食を摂ることになった。
テーブルにはいつの間にか卵焼きやお味噌汁が並べられている。湯気と共に漂う香りに、胸の奥がじんと熱くなる。……あまりにも懐かしくて、涙がこぼれそうだ。そういえば母さんも、毎朝こんなふうに用意してくれていたな。
「おはよぉ〜英雄様……。いい朝だねぇ。」
千歳がまだ眠そうな声でリビングに入ってくる。
「おはよう、圭。昨晩はよく眠れた?」
続いて入ってきた凉が柔らかく微笑む。その自然な呼び方に俺が返すより早く──
「えっ!? 今なんて呼んだ!? もうそこまで仲良くなったの!? いいなぁ〜!私も起きてれば良かったっ!!」
千歳が身を乗り出して悔しそうに声を上げる。
「ふふ……まぁ、色々とね。」
凉はどこか誇らしげに微笑む。その姿に、千歳の頬がさらに膨れる。
「ねぇ英雄様〜。私もそう呼んじゃダメ?」
「もちろん。千歳さんさえ構わないのなら、圭って呼んでください。」
「やった! じゃあ“圭くん”だね!敬語もなしで!」
跳ねるように喜ぶ千歳。その無邪気さに、俺と凉は思わず目を合わせ、微笑んでしまった。
「もう飯できてるぞ。静香はどうした。」
鷲尾が無骨な声で台所から顔を出す。
「鷲尾、おはよう。……なんかね、汚い叫び声が聞こえてからずっと部屋にこもってるみたい。呼んでこようか?」
凉が肩をすくめる。俺は苦笑するしかなかった。やっぱり、あの洗面所での出来事が効いてるのか。仕方ない、落ち着くのを待つしかないだろう。
「はぁ……先に俺らで食うぞ。ったく今日は忙しいってのに。」
「はーい!ふふふ、鷲尾のご飯は美味しいからね、期待していいよ圭くん!」
千歳が椅子に腰かけながら笑顔で言う。確かに、この食卓に並ぶ料理の手際の良さを見ると、料理が得意なのは間違いない。
「はい……じゃあ、いただきます。」
箸を取り、一口運ぶ。
出汁の香り、卵の甘み、味噌の温かさ。五百年ぶりの和食は、涙が出るほど美味しかった。
戻ってきた静香から事情を聞いてから、凉と千歳が腹を抱えて爆笑したのは──ひとまず置いておこう。
俺としてはただ、顔を真っ赤にした静香の姿が脳裏に焼き付いて離れない。思い出すだけでこっちまで気まずくなる。
「…っひひ!静香ちゃん、まさか英雄様の前であの姿はねぇ〜!」
千歳がテーブルを叩いて涙を浮かべるほど笑っている。
「ご、ごめんなさいっ!寝起きで頭回ってなくてっ!忘れてください……っ!」
静香は両手で顔を覆い、椅子の上で小さく丸まる。
「まぁまぁ、いいじゃない。誰だって寝起きはあんなもんだよ。」
凉は笑いながらも優しくフォローするが、その表情にはまだ笑いの余韻が残っている。
……ひとまず、俺としては笑いの渦に加わるより、静香をこれ以上追い詰めないように黙っておくのが正解だろう。
そうして全員が揃ったのは午前八時頃。
テーブルを囲み、今日の予定を確認することになった。俺は任務に同行する流れでここに来ているが、詳しい段取りまではまだ聞かされていない。ここでしっかり頭に入れておく必要がある。
「き、気を取り直して……。今日はまず、3班に分かれて行動し、後にそれぞれ合流しようと考えています。」
静香が真剣な声で切り出す。
「そっか、圭くんがいるもんね。」
千歳がさらりと口にした一言に、静香が一瞬だけ固まる。
「け、圭くん……? は、はい。では……私と英雄様はまず討魔士組合に行きます。試験を受けて、登録を済ませます。」
わずかに引っかかりながらも、彼女は話を続ける。その横顔にはややぎこちなさが残っていた。
そういえば、試験か……。どんな内容なのか、あとで詳しく聞いておいた方がよさそうだ。
「千歳さんと鷲尾さんは、任務対象の最終調査ですね。周辺の逃げ道の確認などをお願いします。」
二人は同時に頷いた。
「最後に凉さんは、建物周辺の人払いをお願いします。その後はタイミングを見て、千歳さんたちと合流してください。」
「うん。突入は圭と静香と合流してから、ってことだよね?」
凉の問いかけに静香が頷こうとした──が、すぐにむっとした表情を浮かべる。
「けっ……。あ、あの、さっきからどうして呼び捨てなんですか? あまりに失礼では……。」
やっぱり気になっていたか。
「俺が頼んだんです。さすがに首相にまでタメ口はできないですけど、普段くらいは砕けた方が楽かなって。」
そう説明すると、静香は小動物のようにそわそわと落ち着かなくなる。その様子が、なんだか昔飼っていた猫を思い出させた。
「静香さんと鷲尾さんも、よかったら砕けた呼び方でお願いします。」
「そ、そうでしたか……。では……高坂さんと……。へへ……。」
静香は照れ笑いを浮かべる。
「俺はなんでもいい。」
鷲尾はぶっきらぼうに言い切り、再び腕を組んだ。
こうして役割分担は一応決まり、今日の動きが見えてきた。




