序章:能力
頭が、裂けるような感覚だった。
けれど痛みはなかった。
ただ、意識の深部が……何かに“ひらかれた”。
そこから溢れたのは、誰のものとも知れない記憶だった。
他人の記憶とも、自分自身の過去とも違う。
それは、どこかで確かに“あった”出来事の数々。
洪水のように押し寄せる映像、感情、感覚。
生まれ、生きて、死んで、また……生まれる。
永遠に繰り返される命の連鎖。
そのすべてが、圭の内側に──無遠慮に流れ込んでいく。
けれど、それらは靄がかかったままだった。
知っているのに、知らない。
目の前にあるのに、掴めない。
それはまるで、時間と共に色褪せた夢の断片。
あるいは、胎児が胎内で見ている“夢”のようだった。
──得体の知れない温もりと、途切れ途切れの景色。
曖昧で、不確かで、けれど焼きついて離れない。
それは言葉ではなかった。
ただ、圭の内側に染み込むように──誰かの意志が、命の本質を語ってきた。
命とは、始まりではない。
終わりでもない。
繋がり続ける痛み。
断ち切れぬ業。それでも受け取ってしまうもの。
拒めない。戻れない。
けれど、手放せもしない。
それはまるで、燃えさしの火。
他者から預かり、次へと渡されていく──
消せぬ炎。
『命とは……記憶の残滓に咲く、決して癒えぬ光と影の軌跡』
誰かの声ではなく、
圭自身の魂が、そう“思い出して”いた。
そしてそれは、あまりに静かで、あまりに重たかった。
誰かが語りかけてくる。
言葉ではなく、鼓動のように。
記憶の奥底を震わせるように。
生命を定義するには、世界は広すぎた。
だが、それを感じるには、“それ”はあまりに近すぎた。
まるで、細胞が初めて産声をあげるかのように。
意識の奥底で、“何か”が目を覚ました。
「これ……は…魔法……? それとも……何か、別の……。」
圭の声はかすれていた。
自分の体の中で、何かが静かに満ちていく。
水よりも澄み渡り、
炎よりも熱を持ち、
心臓よりも確かに“脈打つ”。
言葉にすれば、ただひとつ。
それは──“力”だった。
底知れない、得体の知れない、圧倒的な“命”の力。
それが、彼という器に注がれていくのを、圭はただ感じるしかなかった。
「能力……俺、能力者になったってことか……?」
震える唇が、それだけを呟く。
言葉にすれば、それがもっと現実になる気がした。
そして、心の奥に。
ほんのわずかに、光が宿っていた。
それは恐怖でも、混乱でもない。
ただひとつの、微かな希望だった。
──救えるかもしれない。
誰かを。何かを。
この力で。
けれど、彼の中に芽生えたものが“使命感”なのか、
あるいは“全能感”なのかは、まだわからない。
そしてその重さに気づくには……まだ、あまりにも早すぎた。
───────
能力《生命神》。
黒い紙には、確かにその名が記されていた。
まるで最初からそこにあったかのように、違和感なく。
それは彼の力を、ただ一語で示すに相応しい名だった。
だが──
その下にあるべき“等級”の欄は、空白のままだった。
何も書かれていない。
SでもAでもFでもない。
“分類不能”という言葉すら、そこにはなかった。
……まるで、“世界のシステム”が判断を拒んだかのように。
異常。
それは明らかに、異常だった。
だが圭は、それを異常と呼ぶ言葉すら持っていなかった。
《生命神》。
名はある。力もある。
けれどその正体は、まだ霧の中だった。
理解しようとすればするほど、遠ざかる。
“当たり前すぎて忘れている手順”を突然問われたような、奇妙な不快感。
身体だけが知っていて、意識だけが取り残される感覚。
「命……生命……」
言葉にしてみる。
でも、答えは出ない。
ふと、視線が部屋の片隅に向く。
棚の上には、御影石の置物。
……どこにでもある、ただの飾り。
母が旅行のお土産として買ってきた、何の変哲もない石だった。
けれど、いまは違った。
それは、彼を“呼んでいた”。
確かに、呼んでいたのだ。
静かに、けれど必死に。
「……試しに、やってみるか」
圭は石を手に取った。
掌に馴染むその重みが、かつて知っていた感触とは違っていた。
目を閉じる。
息を整える。
そして、自身の内に満ちた“命の力”を、そっと石に流し込む。
鼓動が、強くなる。
血流が、ざわめく。
精神が、研ぎ澄まされていく。
それはまるで──
自分の存在すべてを、石に向けて注ぐようだった。
「んんん……たぁあああ!!!」
“カチリ”
小さな音が、世界の静寂を切り裂いた。
石が、跳ねた───────
「うわあああああっ!!?」
跳ね回る。
御影石が――意思を持って。
タンスの上を駆け抜け、テレビの縁をスライドし、棚を飛び越え、壁をよじ登り、挙句の果てには天井すれすれを疾走。
もはや“躍動”などという生易しい言葉では収まらない。“暴走”だ。完全に。
「お、おい!!暴れんなって!!」
叫んだ声にも、微塵のためらいなし。
いや、あるはずがなかった。初めて“生まれた”のだから。
「だぁ〜いっ!!」
その第一声に、思わず目を見開く。
感情を持たないはずの“物”が、まるで笑うように声を上げる。
それは――
ずっと沈黙していた子どもが、初めて言葉を覚えた瞬間のようだった。
……だが、それに感動している余裕は、今の俺にはまったくない。
「おいっ、それ電子レンジだってば!!――ああああああああ!!」
──パァンッ。
乾いた破裂音が響き、火花が散る。
天井には、くっきりと焦げた黒い跡。
電子レンジは……冥福を祈るしかない。