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第一章:目覚め


大樹聖域(エルンテリア)は、世界樹を中心に円形状に広がる巨大な公共施設である。

首を仰ぎ見るほど高くそびえる壁の先には、生命力に満ちた光が降り注ぎ、豊かな緑と花々が織りなす柔らかな香りに包まれた、まさに聖域と呼ぶにふさわしい空間が広がっていた。


英雄が世界樹を樹立してから500年、聖域内で魔物が出現したことは一度もない。災厄級には及ばなくとも、歴史に名を残す大魔物でさえ、この樹の前には足を踏み入れようとしなかった。


今や平和の象徴としての世界樹がそびえる日本──現・扶桑連邦は、世界でも屈指の安寧を誇る国となっているのだ………。



「………って、聞いてますか、千歳(ちとせ)さん」



小鳥遊静香(たかなししずか)の眼鏡越しの視線は鋭く、声にも微かな苛立ちが混じっている。


「は〜い、聞いてますよ〜」



千歳が手を上げ、軽くあしらうように態度を示す。


静香は前に出ると、少しムスッとした顔で周囲を見渡す。任務に必要な知識は、たとえ当たり前のことでも頭に叩き込む──それが彼女の流儀である。



エルンテリアを取り囲む城壁は圧倒的なスケールを誇り、そこからは無数の大通りが放射状に伸びていた。各門には門番が立ち、入場の際には厳格な身分確認が求められる。



「おはようございます。本日、事前入場の申請をしていました、ネクサス13です」



静香は一歩前に踏み出し、口調を落ち着けて報告する。



「はい、申請確認しております。皆さんの身分証をご提示ください」



真面目な門番は、ネクサス13と呼ばれる四人の身分証を丁寧にチェックし、問題なく通過を許可した。



「さすがGIA。ほぼ顔パス同然だね」



肩を軽く揺らして、少し嫌味を含むのは軍服姿の真壁涼(まかべりょう)



「面倒が減るなら、使えるものは使っとけ。ったく…」



鷲尾(わしお)の声には、少しぶっきらぼうだが、要領の良さを認める含みもある。



「タバコ吸えないからって拗ねないでね〜」



千歳がにこやかにからかう声が、険悪になりかけた空気を和らげる。


性格の濃さが色濃く現れるネクサス13──その四人が、いま世界樹の幹へと向かって歩を進めていた。





◇◇◇◇◇



重く、気だるい。



長きにわたり沈黙し、石のように固まっていた皮膚に、ようやく血流が戻り始める。凍てついていた川が春の陽に解け出すように、ひとつひとつの細胞が目覚めを告げる。


世界樹の幹の根元──大樹聖域の中でも最も厳格に管理され、人々が畏怖と崇拝を込めて近づくことを許されぬ、禁域の場所。その中心に、「それ」は静かに背を預けていた。


かつて世界を蝕む災厄と相対し、命と引き換えに春をもたらしたと語られる神。その姿を、人の形に縮め、木の幹へと封じ込めたような存在。腐ることも朽ちることもなく、ただ500年という歳月を動かずに耐え続けた「それ」を、人々は〈春の亡骸〉と呼び、そして確かに信じていた──それこそが、世界に春を取り戻した英雄の残骸なのだと。


だからこそ、「それ」が動くはずはない。誰もが、永遠に眠り続けるものと思っていた。

だがその空ろな器には、知らぬ間に、静かに、英雄の魂が帰還していた。



────意識が戻る。



深い闇の底から浮かび上がるように、微睡の奥でかすかな自我が芽吹く。

身体の感覚はほとんどなく、石像か置物にでもなったかのようだった。


長く。永く。……本当に、気の遠くなるほど長い時間、俺は眠っていたのだ。


けれど、忘れてはいない。春の亡骸に宿る魂は確かに覚えている。創造神が降り立ったあの日、神々と過ごした精神世界での、尊い日々。彼らと共に歩み、学び、笑い、泣き、別れを告げた──そのすべてを。


身体は、まだ蛹に包まれた未熟な蝶のように完全ではなかった。だが、厚い樹皮の奥に確かに「再生した自分」の輪郭を感じる。


ゆっくりと、重く閉ざされていた瞼を開ける。

こうして樹の奥から目覚めるのは、果たしてこれで何度目になるのだろう。


ベキベキ……ミシミシ……。

樹皮が裂け、乾いた音を立てる。500年もの間、不動であった春の亡骸にひびが走り、外殻が少しずつ剥がれ落ちていく。


……やけに窮屈だ。いや、それはきっと、身体が成長を遂げている証なのだ。


やがて音は激しさを増し、硬い殻は次々と崩れ去る。

そうして、ついに──


暖かな春の空気が、肺の奥まで流れ込む。

空を覆い尽くす神聖なる樹の枝葉が、黄金の光を透かし、地を覆う花畑が彩りを添える。世界は、かつてと変わらぬ姿でそこにあった。


そして、その中心に立つのは、外皮一枚すら纏わぬ、ありのままの自分の肉体。


ゆっくりと指を握る。

関節が、筋肉が、血が──問題なく動くことを確かめる。


理解していたことだ。納得していたことだ。

だが今になってようやく、胸の底から実感が湧き上がる。


──俺は、戻ってきた。



感慨深く、久方ぶりの春風に身を委ね、少しばかり感傷に浸っていた。


世界は変わらず、美しい。そう思いながらふと前方に視線を向けると──複数の人影が、揺らめく花畑の向こうに立っていることに気がついた。



(……人間か。四人……いや、六人か?)



500年ぶりに目にする人の姿。胸の奥に懐かしさのようなものが込み上げ、言葉にならぬ思いに浸ろうとした、その瞬間──。



「わぁあああああ!!!! 見てみんな!!! 裸ん坊の変態がいるよ!!!!」



花咲く大樹の根元に、春風を切り裂くほど元気いっぱいの声が響いた。

勢いよくこちらを指さす黒髪の少女。その目は純粋な驚きに輝き、そして何の悪気もなく放たれた言葉は、まるで雷鳴のように俺を直撃する。


……ああ。

初めて出会った人間がこれとは。


英雄の帰還にふさわしい荘厳な場面──などというものは、世界は最初から用意してはいなかったらしい。


──めんどくさいことになりそうだ、と直感する。


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