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第一章:アルカディア



深く、深く、落ちていく。



果てのない穴に囚われたかのように、ただ落ちることしかできない。


意識はまだぼんやりとしていて、この感覚は──確かに、以前にも味わったことがあった。


つい最近のことのようにも、しかし遠い記憶のようにも思える。自分が何者で、何をして、どこにいるのかもわからないまま、落ちて、落ちて、落ちていく。



(俺……は……何をしていたんだっけ……)



答えは返ってこない。思い出せない。掴もうとしても、指の間をすり抜けていく。俺は、誰だっけ──。



終わりのない深穴に、一粒の、小さく、か弱い光が現れた。

その光は儚く、しかし落ち続ける俺の瞳を覆い尽くすには十分な輝きだった。



『……い。け……。圭……。聞こえ……るか……?』



小さく、しかしどこか温かく。慈愛に満ちた声が、光の中から、俺に向かって語りかける。


俺──俺に?

俺は誰で、圭とは──。



『圭……。こちらに、私の元へ来るのだ……。』



その言葉に、かすかに意識が、感覚が、戻り始める。



(俺は、圭……? そんな気が、する……)



自然と、存在しないはずの手が光へと伸びる。なぜか、導かれるように、そうすべきだと、そうしたいと、思う。


光はさらに輝きを増し、意識が、記憶が、押し戻されるように甦ってくる。



(そうだ……俺は……俺は……!)



暖かな声と光に包まれ、意識が覚醒する。視界は純白に輝き、世界が静かに、しかし確かに、そこにあったことを知らせていた。



─────────。



ゆっくりと、かすかな力を振り絞り、重い瞼を押し開ける。



「……ま、眩しい……。」



目に飛び込んできたのは、あまりにも鮮やかな光景だった。

何十時間も無理やり眠らされたあとのような鈍重な体を持ち上げ、朧げな意識のまま、俺は辺りを見渡す。


足の下には土の温もりが確かにあった。掌を伸ばせば、柔らかく瑞々しい草の感触。見上げれば、青く澄み渡る空に、陽光が惜しみなく降り注いでいる。その下で、背の高い木々が幾重にも枝葉を広げ、風と共にさざめいていた。



……って、ここは……どこだ。

街の片隅でもなければ、知っている景色でもない。何が、どうなったんだ……?



「……俺、死んだのか?」



口に出した瞬間、ぼんやりとした記憶の底から、次第に映像が蘇ってくる。


黒煙を纏い、街を蹂躙する異形の姿。

虚ろな眼で人々を飲み込み、破壊だけを求める災厄の権化。

空に広がった裂け目と、黒い紙に創造神の影。


記憶の最後にあるのは──あの災厄との死闘。

己の肉体を投げ打ち、世界を護るために、神聖なる樹と同化するかのように溶けていった、あの瞬間だ。


……全部、覚えている。


なら、この状況。やっぱり……ここは天国ってことになるのか?



「……これで良かったのかなぁ。」



ぽつりと漏れた声は、空の高さに吸い込まれていく。


俺は再び仰向けに身を投げ出し、雲ひとつない青空を見上げた。

単調で退屈にさえ思えるほどの空の青。けれどその無垢さは、静かに胸のざわめきを洗い流していく。


頭の中に、仲間たちの顔が浮かぶ。

イッシー。鹿島さん。日向さん。

深くは知らない。人生を語り合ったわけでも、心の奥まで覗き合ったわけでもない。

だが、あの場で共に立ち向かった姿を、俺は知っている。

あの眼差しは、簡単に諦めるような弱い人間のものじゃなかった。

彼らなら──きっと、生き延びてくれているはずだ。


そう思いたい。

そうでなければ、自分の選んだ犠牲が、あまりに報われないから。


思考の流れに身を任せて、ただ空を見つめていたその時──。



「いつまで寝てるんだい?……圭。」



傍らから、どこか聞き覚えのある、温かな声が響いた。

青年のようでいて、母にも似た柔らかさを含んだ声。その響きに、胸の奥がひどく懐かしく震えた。


人が……いたのか。

それに、俺の名前を知っている。もしかして──。


ここまでお膳立てされれば、声の主が誰なのか、勘がつかないはずがなかった。



「……あなたは、もしかして。」



慎重に体を起こし、声の方へと向き直る。


そこに佇んでいたのは、雪解けのように白い髪を短く整え、透き通るような白のローブを纏った青年だった。衣の裾や肩口には小さな花々が飾りのように咲き、淡い光を受けて命そのものの息吹を湛えている。手には見たこともないほど大きな木の杖を携え、その表面には年輪のような文様が脈動していた。まるで大地そのものから切り出した聖なる枝のように。



「疲れてるだろうと、しばらく声をかけずにいたんだが……二度寝を始めようとされると、さすがにね。」



青年はかすかに微笑みながら言った。その表情は優しく、母のようでもあり、兄のようでもあり──慈愛そのものだった。


まだ覚束ない足取りで立ち上がり、俺は彼と向き合う。



「すみません……。混乱していたので。……あなたが、助けてくれたんですよね。」



そうだ。

あの時、黒い紙を開いた瞬間、記憶が闇に呑まれそうになった中で──確かに声が聞こえた。 そしてそれは、災厄と相対した時に、力を貸してくれた声と同じものだった。 かすかに蘇るその響きは、今、目の前に立つこの青年の声だった。



「おはようございます。そして……力を貸してくださって、ありがとうございました。生命神さん。」



俺は深々と頭を下げた。

それが押し付けられた力であったにせよ、事実として俺はあの災厄を退け、生き延びさせることができた。彼の導きがなければ、到底辿り着けなかった結末だ。



「……まさか、感謝されるなんてね。」



青年は少し驚いたように目を細め、ふっと息を漏らす。



「恨まれているんじゃないかって、思ってたんだけど。」


「いえ……。正直に言えば、この力のせいで、と考えたことはありましたけどね。」



俺の答えに、青年は静かに笑う。

どこか肩の力が抜け、互いに微笑みを交わす。言葉以上に心が通ったような、そんな一瞬だった。



「やっぱり、私の目に狂いはなかった。」



生命神は真っ直ぐに俺を見据える。



「圭。色々と聞きたいことがあるだろう?私も、君に話すべきことがたくさんある。」



そう言って、彼は両腕を広げる。


その瞬間、森全体が応えるようにざわめいた。

木々の枝葉は瑞々しい風に揺れ、鳥たちは一斉に羽ばたき、草花が歓喜するかのように色彩を増す。大地が喜びに打ち震え、祝福の合唱が空へと響いていく。



「私の名は ルーメル。」



青年は柔らかな声で名を告げた。



「歓迎するよ、圭。──ようこそ、アルカディアへ。」



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