序章:決意
その巨体は、もはや視界に収めるという行為そのものを拒絶していた。
天を覆い、地を沈める、黒き山脈のような質量。
“滅び”──“絶望”──
それを名づけるなら、もはや一語しか残らない。
「災厄」。
ただ、そこに在るだけで、世界が悲鳴を上げる。
歩くことも、振り向くことすらも、破壊の引き金。
意思があるかすら定かでない。だがその無感情こそが、あらゆる災害の根源のようにも見えた。
巨大な四肢を地につけ、のそのそと這うように進むそれは──
まるで、立ち上がろうとしているかのようにも見えた。
もし、あの全身が直立したなら。
その頭部は、成層圏すら超えるのではないか。
空の果てを超えて、“神”の領域に触れるのではないか──そんな錯覚すら与える。
その足が、一歩、前に踏み出す。
“ズン…………”
空気が、爆ぜた。
地鳴りではない。
地そのものが、ねじれ、呻き、悲鳴を上げている。
ひび割れ、隆起し、溶け、崩れ、黒い瘴気が地の底から噴き上がる。
それは空間を喰らい、空気を濁し、色彩を奪いながら侵食していく。
視界の隅で、マンションがゆっくりと崩れ落ちる。
まるで絶望に気づき、抗うことを諦めたように、音もなく静かに。
吹き飛ばされる車。
捻じ曲がる鉄骨。
割れる窓。
人の悲鳴は、どこか遠くに聞こえた。けれど、それは音ではなかった。
もう、音ですら届かない。
ただ、“消失”の風景が続いているだけだった。
──怖い。
胸の奥で、ずっと誰かが叫んでいた。
逃げろ、と。
無理だ、と。
だが。
(やるしか……ないっ!)
あの子たちが見せた“生きようとする意志”。
イッシーの背にいた人々の目。
剛の、日向の勇気。
自分の選択が、多くを巻き込んだ責任。
そのすべてが、圭の脚に力を込めさせる。
────変換。
細胞がうねる。
筋肉が軋む。
足裏の骨が、跳躍の衝撃に備えて再構築される。
だが、まだ足りない。
あれに、届かない。
さらに凝縮する。
────凝縮。
心臓が、バンッ、と一度、大きく跳ねた。
命の奔流が右腕に集まり、そこから白い輝きが滴る。
生命の粒子。
それが、あたたかな光となって掌に宿る。
──跳ぶ。
地を蹴った瞬間、圭の身体は音速を超える。
人の跳躍ではない。
砲弾のような軌跡を描き、災厄の右膝めがけて突貫する。
近づく。
視界が“体表”に埋まっていく。
その肌は、もはや“皮膚”などという概念ではなかった。
うごめくような、脈打つ岩肌。
ヒビ割れた黒曜石に、赤い熱が網のように走る。
瘴気を含んだ蒸気が、ぶつかる前から肺を焼いた。
「はぁあああああああっ!!!」
────放出。
右掌から、眩い生命の光線が奔る。
衝撃。雷鳴。裂ける空。
それは直撃した──
確かに、命を込めた全力が届いたはずだった。
……だが。
ほんのさざ波。
雲の上に石を投げつけたような感覚。
何も、届いていなかった。
「……っ!!!」
もう一度、跳ぶ。
また跳ぶ。
拳を、足を、肘を──
血反吐を吐きながら、何十発も、何百発も叩き込む。
けれど──
それは“戦い”にならなかった。
皮膚すら傷つけられない。
瘴気が肌を焼く。
吸い込めば肺を溶かし、血を黒く染める。
「羽虫には……興味すらないってかッ!!」
怒りとも、自嘲ともつかぬ叫びをあげながら、
さらに攻撃を続ける────。
裂け目に向けてリリースを放つ。届かず、弾かれる。
皮膚の下に触れる前に蒸気で吹き飛ばされる。
災厄が、一歩、踏み出す。数百人が死んだ。
そいつ自体を足場にし、災厄の顔に近づく。上空に滞留していた瘴気が爆ぜ、爆風で圭を弾き飛ばす。
───────。
───────────────。
─────────────────────。
30分が、過ぎた頃だった。
その時。災厄が、初めて、“腕”を動かした。
その動作は、まるで虫払い。
気まぐれな動き。
そこに、感情はない。ただ「反応」だけがあった。
圭を見た。
──目のような、漆黒の光。
「……やっと、こっち、見たの、かよ……」
疲れた声。
気づいてもらえたことが、嬉しいと錯覚するほど、戦いは一方的だった。
災厄の腕が、ゆっくりと横に振られる。
それは「攻撃」と呼べる唯一の、最初の意思表示。
……圭のいる、その方向へ。
逃げられない。
視界が、黒で満ちていく。
闇と、熱と、絶対的な“圧”が世界を押し潰す。
(……あ)
巨大すぎて、動きは緩慢にすら見えた。
だがその実、風圧すら災厄の一部。
足が動かない。
反応できない。
どうすることもできない。
“ゴアアアァアアァ!!!!!”
世界が、割れた。
衝撃。質量。重力の奔流が、すべてを打ち砕いた。
骨が砕け、内臓が破裂し、皮膚が剥がれ、頭蓋が潰れ、歯が飛び、目が爆ぜた。
腕がもげ、足が逆巻き、喉が潰れ、声が消えた。
命が、飛び散る。
身体は、跡形もなく。
魂まで押し潰されるような、全身の“消滅”がそこにあった。
痛みは、もはやなかった。
思考は、とっくに死んでいた。
生きるという行為そのものが、呼吸をやめた。
そして。
圭は──
死に、還った。
◇ ◇ ◇
───意識が堕ちていく。
深く、深く。
底の知れない奈落のような、どこにも辿りつかない暗い洞穴へと、
音もなく、重さもなく、ただ滑り落ちていく。
それはまるで、魂が世界からこぼれ落ちる瞬間だった。
光のない世界。温度もなく、重力もない。
沈むでもなく、漂うでもなく──ただ、「堕ちる」。
ここは“死”なのだろうか。
命という現象の、終わりに横たわる、静寂の底。
何もなく、誰もいない。
けれど、どこか懐かしい安堵が、そこにはあった。
ひとつの生が終わり、ようやく“解放”された心地。
──その時。
光が、差した。
遥か遠くから、かすかに滲むような、ぬるやかな光。
それは焚火のように揺れながら、ただ、そこにあった。
優しく、柔らかく、胸の奥に触れるように。
思い出す。
母さんの声。
父さんの笑い声。
家族の匂い、帰る場所のぬくもり。
……そういえば、最初に来ていたメッセージ。
夢中で気づかなかった。返すのも忘れていた。
何かが始まった高揚の中で、ただ、前しか見ていなかった。
──たぶん、俺は知らないうちに、はしゃいでたんだ。
非現実。異能。力。使命。
望まぬ形で手にしたそのすべてが、
自分だけは違う、自分なら大丈夫だ、
そんな傲慢を、“責任”という仮面で包んでいた。
「できるから」なんて言葉で、自分を誤魔化していた。
……その結果が、これだ。
傷だらけで、命を失って、
何も救えず、何も届かず、
世界の絶望を前に膝を折って──。
家族は、無事だろうか。
大切な人たちが、いまもどこかで、命を繋ごうとしているのだろうか。
いや、もう──。
その想像が、胸を締め付けた。
……きっと、見ないようにしていた。
“守る”と言いながら、その実、
自分の弱さから目を背けていた。
光は、遠のく。
触れられない。届かない。
手を伸ばしても、空を切るばかり。
そして、また沈む。
また、堕ちる。
───────
『君は、選ばれたんだよ』
───────
声が、降ってきた。
音ではない。言葉ではない。
ただ心に、しみ込むように届いてくる。
やさしく、あたたかく、何もかもを包み込むような響き。
───────
『苦しいのは分かってる。でも、君の力が──いま、必要なんだ』
───────
その言葉に抗いたいほど、心地よい眠気が圭を包み込む。
ああ、このまま……
全部を終わらせてしまいたい。
でも。
その声は、それを許さない。
慈しみと、静かな意志で、彼の魂を呼び戻す。
───────
『あの“災厄”は、私たちに相対する存在。……いわば、世界の終わり。滅びそのものだ』
───────
圭の奥底で、何かが震えた。
忘れていた痛覚が戻るように、意識が僅かに現実へ近づいていく。
───────
『本来は、私が直接干渉するのは禁じられている。でも……君なら。君なら、きっと』
───────
リミッターが、外れる。
理性の奥、精神の奥、
ずっと押し込められていた“何か”が決壊する。
崩れ落ちたダムの奥から、命の奔流が溢れ出す。
……圧倒的な、存在の重み。
それは力であり、責務であり、祝福であり、呪いだった。
───────
『きっとまた、すぐに会うことになるだろうね』
───────
感覚が、戻る。
皮膚が、心臓が、呼吸が、世界と繋がっていく。
そして、最後に──
───────
『……実は、会うのは二度目なんだ。そうだね』
───────
どこか照れくさそうに、申し訳なさそうに、その声は笑った。
思い出す。
あの時、黒い紙を開いた瞬間。
理解を超えて注がれた言葉。
命とは何かを、問いかけた声。
───────
『────私の名前は、イアナ。……生命神だよ』
───────
その名乗りに、世界が変わった瞬間の記憶が重なる。どこか、創造神に、ネアルに、似ている気がして。
目が──開かれる。
世界に、再び触れる。
命が、呼吸を始める。
戦いが、まだ終わっていないことを知る。
……そして、彼は、目覚めた。