序章:凝縮・放出
そして──“それ”は、ぬるりと静かに立ち上がった。
まるで重力の束縛を忘れたかのように、軋みのひとつもなく滑るように。
闇が形を取ったかのように、不自然な動きで身体を起こす。
その目が、いや──“目のあった場所”が確かに圭を捉えていた。
何かがおぞましく、静かな沈黙が橋の下にどっしりと横たわる。
(やるしかない。俺が、やらなきゃ)
圭の胸に緊張が走り、全身の生命力が掌へとゆっくりと集まり始める。
この敵は単なる化け物ではない。
“人間の皮をかぶった何か”──いや、人ならざる人型の“何か”だ。
この出会いが、知らず知らず彼の物語を、さらに深く冷たい闇へと導くことになると、圭はまだ気づいていなかった。
ただ、静かに、眼前の“それ”を見据えていた。
また、ぬるり、と。
異形はまるで地を這う蛇のようにして立ち上がる。
先ほどまで女を追い詰めていたその姿勢は変わらず、関節を無視した歪な動きでゆっくりと上体を起こした。
裂けかけたボロ布のコートが、異様にその身体の輪郭を際立たせる。
「っ……!」
人型の手足が、まるで意思を持つかのように歪み、腕がしなやかにしなりながら、ムチのように長く伸びていく。
指先はまるで刃先のように鋭く尖り、骨と筋肉が絡まり合い、まるで“刃”そのものとなっていた。
その形状が意味するのは、単なる物理攻撃の枠を超えた何かだ───本能が警鐘を鳴らす。
(やっぱり……こいつは格が違う)
圭はじわりと距離を詰める。
一瞬の静寂が訪れ、世界の息遣いまでが止まったかのような錯覚に陥る。
——ドッ。
伸ばし、しならせた右腕を囮に、圭の胸がしなる左手で叩き切られる。激しい衝突音。視界が揺らぎ、鳩尾に鈍い痛みが走った。
(くっそ…!フェイントも使ってくんのか…ッ!!)
肋骨の奥底を無遠慮に抉られるような鋭い衝撃。
慌てて身体を引き、ダメージを最小限に抑えるが、傷は免れなかった。
「ぐ、ぅ……っ!」
しかし、倒れない。
その瞬間、圭の身体の奥底から、温かく柔らかな光がじんわりとあふれ出し、傷口を優しく包み込むように塞いでいく。
──再生。確かに、「治っている」。
(……俺の体、いよいよ化け物じみてきたな……!)
自己再生の力か、あるいは異常に高い生命力のせいか。
肉体はもはや人間の範疇を超え、理屈の届かぬ領域にあった。
だが、だからといって気を緩めるわけにはいかない。
人型の異形は、一瞬の隙も見逃さず、さらに攻撃を続けてくる。
ムチのようにしなった腕が、まるで空間を切り裂くかのように薙ぎ払う。地面を抉り、空気を切るような破裂音。
その速度は凄まじく、風圧は生き物の咆哮のように圭を包み込む。
もし一瞬でも躱し損ねれば、首は間違いなく飛ぶだろう。だが、──こちらは、それを生かす。
圭はその動きを冷静に観察していた。
傷ついた肉体は、あっという間に自己修復され、裂けた肉が盛り上がり、まるで水面に波紋が広がるように鮮やかに再生していく。
「はぁっ……あァァァっ!!」
拳を振り抜く。
それは、どう見ても“死”と隣り合わせの選択だった。
対価として──首が飛ぶ。それがわかっていて、なお踏み込んだ。
だが圭には、奇妙な“確信”があった。
たとえ首を落とされても、自分は再生する。
圭自身も、説明できない。
だが、薄靄のように脳裏にちらつく《生命神》という存在を思い出すたびに、
その“謎の確信”が、奇妙に腑に落ちていく。
俺なら、死なない。
だからこそ。
本来なら即死確定の一撃を、逆手に取る。
命を差し出す覚悟のもと、玉砕上等の渾身の拳。
それは攻防を逆転させる賭け。
死すら利用して、“あれ”を仕留めるための──捨て身の選択だった。
だが、人型は素早く、その凶器のような腕を引き払った。
そして、ぬるり、とかわされた。
(……!? 今の、は……?)
…ただの化け物じゃない。
知性を感じさせる戦い方もそうだが────
先程の、交錯する一撃の合間。
異形はほんのわずかに、目を伏せた───いや、まるで逡巡するように見えた。
その一瞬、圭の中で何かが引っかかる。
(……ためらった? こいつが、俺に対して……?)
殺意しかないはずの化け物が、どこかで“迷った”ように見えた。
あるいは、視線を外したように見えた。
そして、まるで、何かを“思いとどまる”ように……その攻撃の手を、一瞬だけ鈍らせた。
距離を取り、目線を絡め合ったまま、無言の対峙が続く。
……さっきの一瞬…あの「ためらい」が、どうしても引っかかる。
だがこいつは、人類を襲った。街を壊し、命を踏みにじった存在だ。
敵だ。
迷うな、高坂圭。
迷えば、次に斃れるのは───お前だ。
「……効かないなら、別の手を考えるしかないか」
その刹那だった。
背後から、空を覆うように伸びる“枝”——神聖なる生命の樹が、かすかに揺れた。
音というより、圭の内側に触れる不思議な感覚。
まるで、樹が語りかけてくるように、何かを伝えようとしていた。
鮮やかな映像が脳裏に浮かぶ。
かつての戦い。駐車場で黒い異形を塵に変えた樹の、あの力。
あれは、確かに“魔”に対して異常な浄化効果を持つはずだった。
思い出せ。いや、思い出した。
「……やれるかもしれない」
微かに、唇が動いた。
深く息を吸い込む。
耳の奥には、自分の呼吸だけが静かに響く。
目を閉じ、精神を一点に集中させた。
この数十分、再生や変換に使い果たしてきた命のエネルギーを──
今度は“武器”として、手のひらに込める。
——集まってくる。
指先が柔らかな光を放ち始めた。
確かな輝き。深緑の、生命の粒子たち。
『…………!?』
人型が焦ったように距離をとる。まるで、圭の集める暖かな光から逃げるように。
指先に集まる生命の輝きは、さらに鮮やかに色を増していく。
圭の掌から、まるで熱を帯びた緑の炎が静かに燃え上がるように、力が「凝縮」されていった。
そして、深呼吸と共に───
「放出!!!」
声が震え、魂を揺さぶる叫びが暗闇を裂く。
掌から一気に解き放たれた生命エネルギーの奔流が、空気を切り裂き、周囲の景色をも光で塗り替えた。
「っ……行けぇぇぇぇッ!!」
——続く、轟音と共に圭の全身に振動が駆け上る。
重低音の轟きとともに解き放たれる、深緑の光の奔流。
空気が砕け散る音。視界は純粋な光に染まり支配された。
人型の異形は咄嗟に腕をクロスさせ、ガードをとる——しかし、それは無意味だった。
直撃。
光がじわりと「染み込む」。
皮膚に、肉に、骨に。
魔性の黒は剥がれ落ちていく。
呻き声をあげる暇すらなく、その身体は内側と外側から崩壊していった。
ぢゅう、と。
焼け落ちる音ではない。
それは、“浄化”だった。
人型の異形に、あるはずのない“表情”が、ほんの一瞬、悲しみに染まったように見えた──。
…そこに、もはや骸すら残らなかった。
風が吹き抜ける。
遅れて戻る騒音と炎の匂い。
しかし圭の心は、不思議なほどに静寂に包まれていた。
「……やっぱり、この力は奴らに対して特攻のようだな」
橋をくぐり抜け、圭は再び空を見上げる。
無数に広がる生命の枝が、世界を覆い尽くし守ろうとしている意志の表れのように。
…今はまだ、考える時じゃない。今の人型も、この力のことも…。
何がどうなっているのかは分からない。
だが確かに──自分は、選ばれている。
(まだやれる……いや、やらなきゃ……俺が)
握り締めた拳に、力が宿った。
戦いは終わってなどいない。