序章:人型
空が───裂けている。
いつから、こんな異変が始まっていたのだろうか。
圭は、その異様な現象に、今の今まで気づいていなかった。
救助に、殲滅に。
目まぐるしく動き回る日々の中で、空を見上げるというただそれだけの行為すら、彼には許されていなかったのだ。
だが。
ふと、何かに呼ばれるように首を上げた瞬間、
その“裂け目”は、まるで最初から彼を待っていたかのように、眼前に現れていた。
群青の空を貫く、一本の光。
垂直に走るその輝きは、雲でも稲妻でもなかった。
それはあまりに静かで、あまりに不自然だった。
まるで天が、“内側”から引き裂かれているように。
その裂け目は、仄かに鼓動していた。
薄い皮膚の下に透けて見える血管のように、脈打ち、ゆっくりと拡がっていく。
世界が、内側から壊されていく音が、かすかに耳の奥で鳴っていた。
(……これで、七本目……)
しかし、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。呟いた瞬間、空が震えた。
メリメリ、メキメキと、木が軋むような音。
それは、「樹」が育つ音だった。
──優しく、暖かく。辺りに小さな光の粒子が降り注ぐ。
いつの間にかどよめきに満ちてしまった天に牙を向け、空を喰らい、世界を侵すように。
無数の枝が、それでも優しく、異常な速度で天を覆っていく。
圭の力───「神聖なる木」
その巨大な枝が、今やこの街の上空を覆い隠し、空の色を塗り替えるところまで成長していた。
そして地上。
高坂圭は、既に三十分以上、この崩壊寸前の都市を駆け巡っていた。
崩れたビルの中から人を救い出し、空を飛ぶ異形を撃ち落とし、
瓦礫に埋もれた子供を、その腕で引き上げ───
斃した異形の数は、すでに三桁を超えようとしている。
そしてその生命力を、樹の成長に充てていく…。
それでも、彼の呼吸は、穏やかだった。
疲労の色も、焦燥の気配も、見当たらない。
まるでそれが“当然”であるかのように、彼は動き続けていた。
(……疲れてない?どこか、スタミナが無尽蔵にあるような…)
思考が一瞬、ぐらりと揺れる。
だが、それは恐怖ではなく、“逸脱”の感覚だった。
自分の肉体が、人間という枠をはるかに超えて変質している。
圭はそれを、はっきりと“感じて”いた。
これはただの能力強化ではない。
何かが、“根源”から塗り替えられている――。
骨格。神経。細胞。魂。
そのすべてが、生命神という概念そのものへと再構築されていく感覚。
人間であったはずの高坂圭が、
人間であることを“終えつつある”という確信が、背筋を冷やした。
(やっぱり……この力、普通じゃない……)
と、その瞬間───。
「きゃあああああっ!!!! 誰か……誰か助けてっ!!」
女の悲鳴が、鉄とアスファルトの匂いが混じる空気を裂いた。
鋭く、切り裂くようなその声は、橋の方角から聞こえた。
圭は、考えるより先に身体を動かしていた。
足が地を蹴り、風を裂き、視界が流れる。
破壊された建造物すら、跳躍で越えながら、風そのもののように彼は駆ける。
そして、橋の下へと辿り着いたとき───
彼の目に飛び込んできたのは、異様な光景だった。
背を柱に押し付け、尻もちをついて震える女性。
その前に、ぬめるように佇む“それ”がいた。
(……なんだ、あいつ……!?)
一目見ただけで、全身が硬直した。
──────違う。
それは、今までの“異形”ではなかった。
異形でありながら、人間の形をしていた。
あるいは、“人間の形を無理やり保とうとしている”ように見えた。
黒曜石のような漆黒の肌。
ボロ布のようなコートに包まれた輪郭。
目の奥ではなく、感覚の深層を覗いてくるような――“目のあった感覚”。
(……見たく、ない)
本能が、静かに囁いた。
───それは、「知っている」目をしていた。
戦略。思考。
そして、圧倒的な“知性”。
(……やばい。人型は、ヤバい)
圭は思い出す。
最初にベランダで目撃した、子供のような影。
SNSで拡散された、崩れた街に立つ“人の形をした異形”。
今はわかる。こいつは、視線を合わせた者を狂わせる、忌まわしい存在。
今、それが目の前にいる。
沈黙が張り詰めた。
だが、異形が、女に手を伸ばしたその瞬間──
圭のなかにあった曖昧な戸惑いは、消え失せた。
これは、敵だ。
「っ!!!!!」
地を蹴る。
大気が爆ぜ、身体が加速する。
限界を超えた“変換された肉体”が、臨界点に達した。
狙い澄ました拳を叩き込む。
だが、“それ”は。
咄嗟に、腕を交差させ、ガードの構えを取った。
(……こいつ、防御を理解してる!?)
驚愕する間もなく、
地が割れ、橋脚が軋み、衝撃波が橋の下を揺るがす。
女性の悲鳴がこだまし、土煙が舞った。
「今のうちに、逃げて!! 早く!!」
圭の声に、女は泣きながら這うようにしてその場を離れる。
そして。
“それ”は、ぬるりと、立ち上がった。