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序章:地球よ、停滞するなかれ。

時は遡り、2027年7月。


大学生活にも慣れ、二度目の夏休みが訪れた。

だが高坂圭にとって、その季節の到来はどこか他人事のように感じられた。


浮き立つような期待もなければ、胸を焦がすような予定もない。ただ、空だけが青く広がっている。


趣味もなく、誰かに熱を上げることもない。

時間は潤沢にあるはずなのに、それをどう使うべきかも分からないまま、ただ緩やかに、無為に日々が流れていく。


ひとり暮らしにも、もうすっかり慣れてしまった。

だがその“慣れ”は、やがて“飽き”に変わる。

何もない六畳一間の部屋は、最初こそ自由の象徴だった。けれど今や、その静けさが息苦しい。


自炊も、最初のうちは楽しかった。

具材の切り方ひとつに感動し、フライパンから立ち上る匂いに満足していた頃もあった。

けれど今ではもう、レトルトと冷凍の境界すら曖昧な、惰性の儀式と化している。



「……そろそろ、洗濯……しなきゃなぁ」



午後の空気はねっとりと肌にまとわりつき、うっすらと汗が滲む。

窓の外から響く蝉の声が、まるで記憶の奥底を這うように、遠く遠く耳を撫でていた。


圭はベッドに沈み込んでいた体をのそのそと起こし、しぶしぶと立ち上がる。

洗濯機のあるベランダへと足を運ぶその動作すら、億劫で、面倒で、けれど他にすることもない。



───なんてことのない、ありふれた午後だった。



けれど、そんな日常がほんのわずかなきっかけで崩れ去るなど、

その時の圭には、想像すらできなかった。


カチリ、と錆びた音を立ててベランダの窓を開ける。

洗濯カゴを小脇に抱え、ふと何気なく視線を動かした、ほんの一瞬。



「……ん? あれ……子供?」



目に入ったのは、小さな黒い影だった。


人の背丈ほどの高さ。だが、それは“人間”には見えなかった。

輪郭が曖昧で、どこか現実から浮き上がっている。

そこに“いる”はずなのに、まるで風景に溶け込めていない。

目を凝らせば凝らすほど、逆に像がぼやけていく奇妙な感覚。


まるで、夢の中に入り込んだような――いや、映像のノイズのような。



「……まさか、モンスターだったりして」



冗談混じりに口をついた言葉に、自分で小さく笑ってしまう。

最近ハマっていたネット小説やアニメの影響だ。

現代に突如出現するダンジョン、目覚める異能者、崩壊していく日常……。

そんな非現実に、ほんの少しだけ憧れていたのかもしれない。



「いやいや、さすがに……あるわけ、ないって」



いつの間にかその影は消えていた。現実と虚構は違う。……はずだ。


そう言い聞かせながらも、頭のどこかが妙な緊張を訴えていた。


前にも、風に舞ったビニール袋を猫と見間違えたことがあるし、きっとそれだ。

見間違い。思い込み。そうに決まってる。

いや、そうであってくれ。


考えるのをやめて、頭を軽く振る。

気持ちを切り替えるように洗濯機に洗剤を投入し、溜まりに溜まった衣類をぐいっと押し込む。



「……全部入った、よし」



しかし。


その瞬間、世界の“空気”が、わずかに狂った。


蝉の声が止んでいた。いや、正確には──

「音」そのものが、消えていた。


ベランダの空間が、不自然なほど静寂に満ちている。

空気が、やけに重たい。重力が少しだけ変化したような錯覚。

耳が詰まる感覚。視界が、僅かに揺らいで見える。


だが、圭はまだ気づかない。


このとき確かに、世界は歪んだ。

ほんの僅かな“ズレ”。

けれどそれは、あまりにも巨大な崩壊の、最初のひとひらだった。




───。



───────。




──────────────。




洗濯機の低い唸りが、部屋の空気にゆっくりと染み込んでいく。

湿気を含んだ夏の空気の中、その音だけが機械的に規則を刻んでいた。


高坂圭は、ひと息ついたようにベッドに腰を下ろす。

軋むマットレスの感触が、日常の一部として身体に馴染んでいる。


先程の異様さは消え、窓の外では蝉がひたすら命の残響を繰り返し、

ベランダでは洗濯機が回り続け、

その狭間にある自分はただ── 何者にもなれない、何も起きない、ただの“今”に沈んでいる。



「……今日も何もなかったな」



心の中で、そう呟いたつもりだった。

けれど、言葉にするまでもなく、確かにそう“思っていた”。


何も変わらない。何も起きない。

そんな穏やかすぎる退屈にさえ、ある種の安心を覚えていた――その刹那。


ありえないことが、起きた。



「……え?」



声が漏れた。意識よりも早く、反射的に。

思考が追いつく前に、()()は目の前に現れていた。



ブブ……ブブ……。



まるで蜂の羽音のような、低くくぐもった振動。

空気が波打つように揺らぎ、その中心に黒があった。


まっさらな白いキャンバスに、ぽとりと垂れた黒い絵の具のように。

そこに“ある”という事実だけで、空間の均衡が崩れる。

視界のピントが狂い、空気の色が滲み出す。言葉にならない異物感。


それは、男の姿をしていた。

しかし、それ以上でも以下でもなかった。

実体ではなく、像。ホログラムか、立体映像か。

曖昧で、揺らぎながら、それでいて確かに“こちら”を見ていた。



『ご機嫌よう、()()()()。驚かせてしまったようだね』



低く、老いた声だった。

だが、その声には時間の重さがあった。

ただの老人のものではない。重力のような何かが、語尾にまで滲んでいた。



『私の名前はネアル…。──この世界の祖、創造神だ。』



ぞわり、と、圭の背中を冷たいものが這った。

その名乗りは、耳ではなく、脳の奥へと直に流れ込んでくる。

鼓膜を使うまでもなく、“知識”として叩き込まれる。

反射的に理解してしまうほど、抗いようのない圧力。



『多くは語らないよ。ただ一つ、教えてあげないといけなくてね』



その言葉の間も、圭は膝が震えるのを堪えていた。

床に崩れ落ちそうになる自分を、ただ保っているだけで精一杯だった。

言葉が、存在が、強すぎる。



『人よ……地球よ。停滞するなかれ。世界はすでに選ばれ、変わる。──否応なく、ね。』



告げ終えたその瞬間、像は霧のように消えた。

何の余韻も残さず、音もなく。


だが圭は、見た。

最後、ほんの一瞬、男の口元がわずかに歪んだのを。

あれは──笑っていた。



「お……おうぇっ……!」



その場から転がるように移動し、トイレにもたどり着けず、

胃の中のものを床にぶちまける。

それが食べ物だったのか、飲み物だったのかも思い出せない。

ただ、体が“異常”を受け入れられなかったという事実だけが残った。


息ができない。思考が散る。

これは現実か? 幻覚か?

意味が分からない。理解しようとすればするほど、気分が悪くなる。


創造神? 世界が変わる? 選ばれた?

わからない。なにも、わからない。



そして──



気づけば、手の中に“それ”があった。


自然すぎて、いつ握ったのかも思い出せない。

だが確かに、そこに在る。圧倒的な存在感をもって。


黒い紙。

深く、底の見えない黒。

まるで光そのものを吸い込むような、死の静けさすら漂わせる色。

形は、紙。けれど、“紙”と呼ぶには、重すぎる意味を纏っていた。



「……なんだ、これ……」



震える手で、それを見つめる。


何もなかったはずの今日。

いつも通り、洗濯をして、いつも通り、ベッドに座っていた。

どこで日常は歪み、壊れたのか。

あの黒い“何か”を目にした瞬間から? それとも、もっと前?



「……落ち着け……夢だ。夢に決まってる……」



自分に言い聞かせるように額を押さえ、再びベッドに身を預ける。


けれど。


視界の隅に、“それ”がある。

自分を見返してくるように、確かな意志を持って、

ただそこに、()()


息が詰まるような静寂の中で、圭はまだ知らない。

この“紙”が──彼の運命を根底から書き換える鍵になることを。

お読み頂きありがとうございます。随時更新していきますので、よろしくお願いします。

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