八話
ブラジェナの肩が揺れた。ハッと我に返り、声の主の方を向ける。彼女は自分とジーノが第三者に声をかけられるまで目を逸らさなかったことに気付いた。そのことに雷に打たれたような衝撃を受けた。ジーノと見つめ合うなんて……。彼女は体温が上昇した。
気を抜くと青紫色が頭に浮かびそうになり、彼女は頭を切り替えるために軽く頭を振った。背後から尚も視線を感じたが、無視することにした。
ブラジェナに声をかけたのは20代くらいの知人の女性であった。彼女は近寄って来ると、ブラジェナとジーノに頭を下げる。それぞれに挨拶すると、女性は笑顔でブラジェナの方を見た。輝く瞳に、彼女の背中に冷や汗が流れる。何か嫌な予感がするわ。
「今回の"バレンタイン"という行事、ブラジェナさんの案と言うことで。採用させていたました。ありがとうございます!」
向けられる満面の笑みに、ブラジェナはクラッと眩暈がした。コツコツ、と言う足音がしたので、そちらを見ると、ジーノが彼女に強い視線を向けていた。私は貴方以外に話してないわ。彼女は首を勢い良く横に振った。まあ広場で話してたし、聞いていた人がいるかもしれないけれど……。彼女は遠い目になる。
女性はそんなブラジェナの様子に気付かないまま、話を続けた。今日はバレンタインで、女性から想いを寄せる男性に花束を投げる日とのこと。花がボロボロにならないように、魔法をかけて投げるのがルール。直接渡せない場合、相手の家や職場などに送っている。
更に秋にはトマトや食べ物を渡し合うお祭りを計画しているとのことである。
案についてはブラジェナの話を断片的に聞いていた人がおり、そこから噂が広まったらしい。尾びれがついて混ざった内容になったのね。彼女は頭がズキズキと痛んだ。
話を終え、女性は目を輝かせて彼女を見ている。ブラジェナがジーノに視線を向けると、彼は苦笑いをしていた。半分笑い、半分呆れと言った表情である。まさか彼女達の話がこんなに、しかも間違った方向に広まるとは彼も予想していなかったのであろう。
彼女はため息を付き、自分の反応を待っている女性に向き直る。
「殆ど間違ってるわ。」
そこから彼女はバレンタインがどう言うものか一部ぼかしながら説明をした。女性は目を見開き、顔を曇らせる。視線を彷徨かせ、眉を下げた。
「そんな……。まさか、中止ですか?もう始まってしまったんです。今から中止と言うわけには……。」
女性は弱々しい声で言い、周りに視線を向けた。ブラジェナもつられて周りを見る。人々の声がし、あちこちで花束が飛んでいる。確かに、今からは無理ね。彼女は再びため息を付いた。
「今年はもうこのままで良いと思います。後で貼り紙か何かに書いて、来年からは甘味や花束を渡し合うようにしましょう。」
花束を投げ合うって、普通に危ないわ。今年だけで充分でしょう。彼女の言葉に、女性は目を輝かせ、頭を下げた。
「ありがとうございます!」
話の中で、提案者であるブラジェナは監督役になって欲しいと頼まれた。
「お願い出来ませんか?」
ブラジェナの顔を覗き込む女性。彼女は顔を伏せ、目を閉じて考え込む。言い出しっぺは私だし……。魔法薬とか必要かもしれないし。顔を上げ、女性に頷いた。
「良かった!よろしくお願いします!」
女性はブラジェナの手を握り、嬉しそうに笑う。彼女はそれに微笑み返した。そして祭りのために女性が離れる。彼女は横に立つジーノを顔を向けた。女性を見送っていたジーノは、彼女の視線に気付き、青紫色の目をこちらに向ける。
「ジーノ、今日は護衛じゃないし、頼まれたのは私だし。貴方はついて来なくて良いわ。ありがとう。」
ブラジェナが離れようとすると、ジーノの声が上から降って来る。
「そう言うわけにはいきません。私もお手伝いします。」
ブラジェナが顔を横に向けると、強い視線が彼女を射抜いた。彼女は護衛の際に前に出過ぎた時に、同じような視線が送られたのを思い出す。彼女は眉を下げた。ジーノも休みのはずなのに。
「いえ、私だけで……。」
ブラジェナが断ろうとすると、視線が強くなるのを感じた。彼女が言い淀んだ時。
「良いじゃないか、ブラジェナ。ジーノさんにも手伝って貰いなさい。」
かけられた声に、彼女は素早く顔をそちらを向けた。銀色の髪と金色の髪の男性が目に入る。
「アルフォンスさん!ヤンネも!どうして此処に?」
アルフォンスはハハ、と笑うと、目を細めた。
「二人が急に離れたのが気になってね。僕も後を付いて来たんだ。」
「俺は、何となく……。アルフォンスさんに付いて来ただけだ。」
ヤンネは視線を逸らしながらくぐもった声で答えた。それで、とアルフォンスは銀色の目を光らす。彼は満面の笑みを作った。ブラジェナはその笑顔に僅かにたじろいだ。
「監督役をお願いされたんだって?凄いじゃないか。……じゃあ、魔法薬を使うこともあるのだろうね。」
「た、多分……あると思います。」
アルフォンスはそうか、と数回頷くと、研究所に寄るから、此処で少し待っててくれる?と言った。そしてブラジェナの返事を待つことなくいそいそと少し離れた研究所へ向かう。残された三人は顔を見合わせた。
「どうする?」
「私には、何とも言えません。」
「そうだよな……。俺は、アルフォンスさんが来るまで待つしか……。ブラジェナもそうだろ?」
「そうね。」
ヤンネの問いかけにジーノは首を横に振る。話を振られ、ブラジェナは首を縦に振った。そして、彼女達は研究所の前に移動し、時々雑談しながらアルフォンスを待った。
五分後。現れたアルフォンス。彼の姿に、ブラジェナの目は釘付けになった。
「待たせてごめんね、皆。ジーノさんも。」
ヤンネは低い声でうわ、で言った。ジーノはおや、と呟く。ブラジェナはえー……、と唸った。
眉を下げて謝罪するアルフォンス。そんな彼の頭上では膨らんだ大きな黒の鞄が浮いていた。右手には先端に白い光が灯った杖。彼が杖を下ろすと、ドス、と音を立てて鞄がブラジェナの目の前に着地する。彼は、杖を仕舞いブラジェナに輝く笑顔を向けた。
「此処に、新薬が入ってるから。持って行って、使ってね。」
あ、使ったら記録してね。紙も入ってるから、とアルフォンスは言った。ブラジェナは鞄を見たまま何も答えない。これを、持ってくの?
「僕みたいに魔法で浮かしても良いけれど……。」
アルフォンスはブラジェナに近寄り、はいこれ、と布の塊を渡した。彼女は震える手で受け取り、確認する。それは、紺色の手袋であった。硬い生地で出来ている。ブラジェナはこれが何かすぐに見当がついた。彼女が彼に目を戻すと、彼は微笑みながら頷く。
「浮かしながら、ってのも邪魔だろうし。それ着けて持ち歩いてね。」
ブラジェナが手袋を着けると、彼女に合ったサイズになった。彼女が鞄の取手を掴むと、軽々と持ち上がる。これは手袋型の魔導具であり、軽量化の効果がある。更に、持ち主に合ったサイズに変わる仕組みである。やっぱりこれ、便利ね。彼女は微笑んだ。
アルフォンスは続けて言う。もう警備隊にはブラジェナが参加すると連絡したこと。監督役をする際に魔法薬が支給されるとのこと。その際に新薬と合わせて効果を記録して欲しいと彼は頼んだ。記録などをするので、明日は休日で良い、とのことである。
一人で……。自分が原因だし、良いけれど。ブラジェナは眉を下げ、チラ、と隣のヤンネを見た。ヤンネも手伝ってくれないかしら。今度彼の手伝いをする約束で……。
彼女の視線に気付いたのか、アルフォンスは輝かしい笑顔を向ける。彼女は重りを乗せているかのような圧迫感を感じた。
「スタッフや警備員もいるし。ブラジェナ一人で良いよね?」