六話
一ヶ月後。二月十四日。今日はブラジェナが夢で見たバレンタインという行事の日である。白い雲の隙間から青が見える。東からは白い太陽が時々姿を現していた。
ブラジェナの自宅、リビングにて。彼女は前日に焼き上げ保存していたクッキーを瓶に入れた。それを茶色い鞄に仕舞う。軽く鞄を叩き、笑顔を浮かべた。これで良いわね。
今日は午前中にジーノが尋ねる、とのこと。彼女はその際にクッキーを渡す予定である。
ジーノのことを考えて、彼女は眉間に皺を寄せた。彼は彼女がお菓子作りに慣れていないのは知っている。
あまりに受け取るのを躊躇らうようだったら渡すのやめようかしら。彼女の脳裏に味見しましたか?と言う姿が思い浮かぶ。彼女は右手で握り拳を作る。したわよ!
数秒後、彼女は我に返り、目を瞬かせた。まだ言われると決まったわけじゃないのに。いけないわね。
◇◇◇
太陽が真上にある時間帯。白い雲の隙間から日が覗いている。研究所の窓からは明るさが差し込んでいた。
ブラジェナが所属する研究室の中。白衣姿の彼女は他の研究員と話すジーノの後ろ姿を目を細めてチラリと見た。ダメだわ、全然渡せない。彼女はため息をついた。
当初の予定通りジーノは午前中に来た。ブラジェナがすぐに渡すか悩み、後で渡すことにした。他の研究所のメンバーを交えて話し合いをした。ブラジェナの隣の席がジーノの固定位置である。今後必要な魔法薬の話、現在開発中の魔法薬などの話などをした。
話し合いの後、ジーノが個人的にブラジェナに幾つか質問をして来た。いつもの流れである。今日は彼に頼まれ、彼女が作った魔法薬を渡した。きちんと料金は先に貰っている。
「ありがとうございます。」
「別に良いけど……。私、商人でも、薬師でも、医者でもないのに。わざわざ私から貰わなくても。」
ブラジェナは眉を下げる。それに、ジーノは首を横に振った。青紫色の髪が揺れる。
「私は、ブラジェナ様から頂きたいので。」
「良く分からないわ。」
彼女は眉を顰める。お店で買えば良いのに。効果が強いから多少高いかもしれないけれど、彼には問題ないわよね。ジーノは微笑んで彼女を見るだけであった。
この時にブラジェナはジーノに焼き菓子を渡そうとした。しかし、声をかける前に彼女は他の研究員に話しかけられ、叶わなかった。
その後はなかなか一対一で話すタイミングがなかった。ブラジェナもジーノも、他の研究員と会話することが多かった。そして今に至る。
ジーノは護衛以外では、同年代の研究員と話す時、さん付けすることがあった。最初はブラジェナ同様様付けしていたのだが、彼等に頼まれて外したのである。リーダーは様付けで呼んでいる。同年代でいつでも様付けなのはブラジェナのみである。
ブラジェナはチラリと時計を見る。もうすぐ十二時になる。今日は仕事は昼までなのである。彼女は詳しくは知らないが、急に決まった行事、とのこと。他の職業でも半日までの場所が多いと彼女は聞いた。
もうすぐジーノも帰るだろうから、それまでに渡さないと……。それよりまずは仕事ね。彼女は作業へと意識を戻した。
彼女の仕事が終わった頃。
「では、私はそろそろ。皆さん、今日はありがとうございました。」
頭上からの声に、彼女はハッと顔を上げた。ジーノが立ち上がり、去ろうとしている。そんな彼に、リーダーや他のメンバーが声をかける。
「ありがとうございました。」
「今日はありがとな、ジーノ隊長。」
ジーノはそれに微笑んで返す。リーダーは時計を見て、もう十二時か、と呟いた。そして仕事が終わったメンバーに上がって良いよ、と声をかける。ブラジェナ達はそれに返事をした。彼女は片付ける前に、立ち上がり、近寄って彼に声をかける。
「ジーノ隊長。」
彼女の声に、彼は振り返り、首を傾げた。
「ブラジェナ様。何ですか?」
ブラジェナは彼に小声で話しかける。
「この後用事あります?……個人的にお話があるので、玄関で待っていて欲しいんです。」
彼は青紫色の瞳を数回瞬かせた後、微笑みながら頷く。
「この後は特には……。ですので、構いませんよ。一階でお待ちしていますね。」
良かった、これで渡せるわ!ブラジェナは満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう!お願いします。」
彼は一瞬目を細めた後、頷く。そして、研究室の扉を開けると、失礼します、と会釈をした後出て行った。ブラジェナは机に戻ると、急いで片付けをする。終わった後、彼女はリーダーや残っているメンバーにお先に失礼します、と声をかける。返事を聞きながら鞄を掴み、扉を開けて研究室を出た。
ブラジェナは更衣室で白衣からワンピースとコートに着替える。その際、微笑を浮かべた知り合いの三十代の女性に話しかけられた。
「ブラジェナさん、こんにちは。」
ブラジェナは、彼女の名前を呼び、微笑んで返す。
「こんにちは。」
「寒いわね。」
「ええ……、本当に。」
苦笑して返すブラジェナに、女性は眉を寄せて顔を覗き込んだ。それに、ブラジェナは目を瞬かせる。女性は、鋭い視線で言う。
「保温魔法があるとは言え、油断すると風邪を引くわよ。気を付けてね?」
心配してくれてるのね。ブラジェナは、女性の言葉に、柔らかく微笑んで返した。
「はい。ありがとうございます。」
女性はその言葉に微笑を浮かべ、頷いた。そんな彼女にブラジェナは悪戯っぽく笑い、彼女も気を付けるように返した。彼女は朗らかに笑う。
「ええ、勿論。ありがとうね。」
ブラジェナは微笑を浮かべ、ええ、と返した。
女性の後に更衣室を出た後、ブラジェナは着終わった白衣を指定の場所に持って行った。一通り終わった後。さて、ジーノの所に行かなくちゃ。軽い足取りで彼女は玄関に向かう。鞄の中で瓶が軽く揺れるのを彼女は感じた。
ブラジェナは途中で会った知人の男性にこんにちは、と笑顔で挨拶をする。彼は釣られたような笑顔で挨拶を返した。
「ブラジェナさん、何だか機嫌が良いですね。」
男性の言葉に、ブラジェナは目を瞬かせる。そして、内心苦笑した。確かに、分かりやすいのかもしれないわね。
「ええ、そうかもしれませんね。」
男性は、目を光らせ、前かがみになった。そして、好奇心に満ちた笑顔で尋ねる。
「えー。気になるなあ。俺に教えてくれませんか?」
男性の言葉に、ブラジェナは、首を横に振った。悪いけれど、教えてあげられないわ。男性は、あっさりと首を引っ込めると、残念そうに眉を下げ、肩を竦めた。
「教えてくれないんですね。残念だなあ。」
ブラジェナは、苦笑を浮かべた。
「すみません。」
ジーノは玄関の近くで壁に寄りかかりながら待っていた。ブラジェナに気付いた彼は背を離し、彼女の元へやって来る。
「待たせたわね。」
声をかける彼女に、彼は軽く首を横に振った。
「いえ、構いません。」
ブラジェナが口を開こうとすると、彼は視線を外に向ける。彼女が彼の視線を追うと、外から何人ものの声がすることに気付いた。
「何だか騒がしいわね。」
ブラジェナが眉を顰めると、ジーノが首を縦に振って肯定したのが分かった。
「ええ。確か行事がある、とか。行ってみますか?」
ブラジェナがジーノの方を見ると、彼は笑顔で彼女を見ていた。青紫色の瞳が輝いている。彼女は自分が彼と同じ目をしているのが分かった。
行くか、なんて聞くまでもないわ。瓶のことは彼女の頭の隅に追いやられる。彼女は満面の笑みを浮かべる。
前を向き、研究室の扉を開いて一歩踏み出した。
「勿論!行くわ!」
◇◇◇
二人が外に出た時、先程のような声は全く聞こえなかった。まさか、聞き間違いってこと?ブラジェナはジーノと顔を見合わせた。再び前に視線を向ける。普段と変わらない街の様子。強いて言うなら……。ブラジェナは目を細めた。
男女の恋人らしき二人が何組か。二人組の男性全員が花を持っているのが彼女には気になった。恋人に渡そうとしてるってこと?そんな考えが頭を掠めたが、彼女は首を横に振った。男性達は全く隠していない。隣の女性達は気にする素振りもない。女性達が男性達に送った、と考える方が自然である。
ブラジェナは二人共に防寒魔法をかけた。そこから二人は街を歩いて回った。左右を見て、ブラジェナは異変に気付き、首を傾げた。目が花屋に釘付けになる。
普段はそうでもないのだが、花屋に列が出来ている。数十人が並んでいる。人間・獣人がいて、見事に女性ばかりである。彼女達は楽しそうに喋りながら前の様子を気にしていた。こんなに花屋に人が並んでるなんて、珍しいわね。
「凄い繁盛ね。こんなに……。何か変ね。」
目を丸くさせる彼女に、ジーノは肯定した。
「そうですね。しかも花屋にだけ、とは。」
ブラジェナがジーノを見上げると、彼は顎に手を当て、顔を俯かせていた。彼女は再び列に視線を向ける。祭り、魔法、などと言う言葉が断片的に聞き取れた。今日行われる行事に関係あるのかしら?彼女は自分の眉間に皺が寄るのが分かった。
暫くして、ブラジェナは軽く頭を振る。同じく歩みを止めているジーノに声をかける。彼は視線だけを彼女に向けた。
「まだ良く分からないわ。暫く街を回った後、広場に行ってみましょう。」
彼は数回青紫色の目を瞬かせた後、微笑を浮かべ頷いた。
「そうですね。」
もう一度行列に視線を向けた後、歩き出した。……何かいつもよりジーノに集まる視線が多い気がするわね。一緒にいるブラジェナに向く敵意の視線も多かった。
その後三十分程二人は王都の様子を見て歩いた。何処も同じような様子で、花屋の行列が目についた。大きな声が聞こえ、そちらに向かってみるが、何も起こっていない。その繰り返しである。