十五話
食べ進める中で、ふと、ブラジェナは目を細めた。今日の犯人、魔法を避けてたわよね。すばしっこかったわ。騎士団で聞いた話によると、常習犯らしいけれど……。
ブラジェナは眉を寄せて考え込む。魔法薬が効いて良かったけれど、他にも良い魔法薬があれば……。
そこで、ブラジェナの頭の中で魔法で作ったような光球が光った。彼女は自分の目が輝くのが分かった。残りを胃袋の中に入れる。
ブラジェナは机の上のゴミを捨てる。そして、鞄から羽根ペンと羊皮紙を取り出した。空いたスペースに羊皮紙を広げる。羽根ペンで紙に文字を綴った。書けたわ!暫くして、彼女は顔を上げた。彼女の様子を見ているジーノに笑顔を向ける。
「悪いわね。新しい魔法薬の良いアイデアが思い付いて、書いてたの!今度実践するわ!」
ジーノは微笑を浮かべた。目には温かい光が宿っている。
「それは、喜ばしいことですね。」
ブラジェナは羊皮紙を鞄に仕舞いながらええ、と頷く。彼女の胸に温かい炎が宿った。その後、二人は建物から外に出た。
黄色い街灯が街を見下ろしている。ブラジェナはジーノに研究所に鞄や書類を片付けて来るので先に中央広場に行っていて欲しい、と告げた。彼女は一瞬鞄に視線を向けた。後回しになっていたものを渡すつもりなのである。話があるから、と彼女が言うと、彼は私は研究所の入り口で待っています、と言った。
彼女は彼の顔を見上げる。意見を変える気はなさそうね。彼女は目を細めた後、じゃあ、待っててくれる?と頼み、研究所に二人で向かった。
彼女は建物の明かりをつけ、研究室で鞄や記録を仕舞う。あ、魔導具も返さないとね。彼女は紺色の手袋型魔導具を外し、机の上に置いた。これで大丈夫ね。そして戸締りを確認して研究所を出た。
二人は並んで中央広場で向かう。ブラジェナは歩きながら眉を下げてジーノの顔を見上げた。
「今日は休日なのに、悪かったわね。」
低い声で言うブラジェナに、ジーノは数回目を瞬かせた後、微笑を浮かべた。彼は首を縦に振る。
「いいえ。私も面白かったです。」
笑い混じりのジーノの声。ブラジェナは彼の顔を数秒見ていたが、目を逸らした。一応本心ではあるみたいね。
「そうね、大変だったけれど。……私も、面白かったわ。」
ブラジェナは視線を斜め上に向けながら、口元を緩めた。屋台を回ったこと、花束をどうするか悩んだこと、クートと会ったことなど……。そう、大変だったけれど、楽しかったわ。
それにしても、と彼女は前を向いたまま、俯きがちに考える。バレンタインが行われたのが、王都の一部の人達で良かったわ。一ヶ月だし、全体には広まらなかったのかしら。これがもし王都全体で、それに対処してたとしたら……。
ブラジェナは寒気が走り、身体を震わせた。彼女は首を横に振る。考えたくもないわね。
ブラジェナはジーノを見上げた。そして、彼に声をかける。
「ジーノ。」
「何でしょうか?」
ブラジェナに目を合わせるジーノ。そんな風に見られると、言いにくいわね……。彼女を正面から見据える瞳に、彼女はやや目を逸らした。
「今日は、ありがとう。」
彼女は早口で続ける。頰が熱を持つのが分かった。
「貴方がいて、色々……助かったわ。」
「こちらこそ、ありがとうございます。ブラジェナ様。」
ブラジェナがジーノに視線を戻すと、彼は柔らかい微笑を彼女に向けていた。彼女の胸が仄かに温かくなった。彼女は視線を彷徨かせる。彼女は一度口を引き結んだ後、再び口を開いた。
「私は貴方に感謝されるようなことは、何もしてないわ。」
バレンタインで駆け回ってる時、ジーノにはお世話になったわ。けれど、私自身は彼には何もしてないもの。心に雲がかかるが、彼女は頭を振って振り払った。そんな場合じゃないわ!中央広場に着いたらクッキーを渡すのよ!彼女は軽く拳を握った。
中央広場は、街灯があるため、街中のような明るさである。
到着したブラジェナは、電気に打たれたように身体が固くなった。失敗した!もっと人が少ない広場を選べば良かったわ!彼女は周囲に視線を巡らす。中央広場では、仲睦まじい様子の恋人達で溢れかえっていた。四方八方から漂う甘い空気。身体を寄せていたり、口付けている人達もいる。
彼女は肩身が狭い思いになった。店よりも広場の方が渡しやすいかと思ったのだけれど……。彼女の眉が下がる。そのまま同じように周囲を見ていたジーノを見上げ、顔色を窺った。
「ごめんなさい、ジーノ。……気まずいでしょう?」
ジーノは首を横に振る。そして、笑いながら穏やかな声で返した。
「此処は広場です。私達が恋人でないからと言って遠慮する必要はないと思います。」
そう言って軽くブラジェナの背中を押す。
「寧ろ誰も気にしていないと思います。」
ジーノはお互いに夢中でしょうし、と小声で付け加える。ブラジェナは顔が綻んだ。そうよね!
「先程まで見回りをしていましたので、私達が一緒にいたのを見ていた方は多いはずです。あまり気にし過ぎない方が宜しいかと。……挙動不審になり、より目立つと思います。」
ブラジェナはその言葉に背中に板を当てられたように背筋を伸ばした。目立つ……そうかもしれないわね。あまり気にしないようにしましょう。
その時、隣からクス、と言う失笑が聞こえる。彼女が軽く睨むと、ジーノはすみません、と青紫色の目で弧を描きながら微笑んだ。彼女は顔を逸らし、ため息を付いた。落ち着くのよ、ブラジェナ。
二人は昼間と同じベンチに間に茶色と黒色の鞄を置いて腰掛けた。ブラジェナは上に目を向けた。空は暗い雲が多く、月の姿は見えない。
隣からは視線を感じる。これ以上後回しにするわけにはいかないわね。彼女はため息をつくと、鞄を膝の上に置き、中身を探った。視線は下に向けたまま、彼女は話しかける。
「ねえ、ジーノ。」
「何でしょうか?」
「私達は恋人ではないわ。でも私が見た夢では……お世話になってる人に送る文化があるらしいの。」
ブラジェナは咳払いをし、ジーノに目を合わせて続けた。
「私達、友人……でしょう?」
ブラジェナは頰が赤くなるのを感じた。普段は恥ずかしくて言えないけれど……。言えたわ!言い慣れないせいかちょっと詰まったけれど。彼女は内心感動していた。
視線をすぐ鞄に戻すと、手がクッキーの入った瓶に触れた。ブラジェナの作ったクッキーはクリーム色で、丸や四角など様々の形をしている。使われている果物はブドウや林檎などである。彼女は顔を上げ、目を逸らしながら突き出した。緊張からか、彼女は速い心臓の音が聞こえる気がした。
「だから、はい。焼き菓子。クッキーよ。……作ったの。」
数秒沈黙が続く。……おかしいわね。ブラジェナは視線をジーノに戻す。目に入った彼の表情に、彼女は目を瞬かせた。
ジーノは目を見開いたまま硬直していた。彼の姿は、整った顔立ちもあり彼女には美しい彫刻のように見えた。大きく見開かれた青紫色の瞳は、ブラジェナの右手の瓶を凝視している。彼女の視線にも気付いていない様子。いつも冷静なジーノにしては、珍しい光景である。
ブラジェナの目が細められ、眉に皺が寄った。何よ、そんなに意外?私が焼き菓子を渡すのが?それとも作ったのが?確かにお菓子作りは慣れていなかったけれど……。
一か月近く練習したし、ジュディットにもアドバイスを貰ったり、食べて貰ったりしたのに。
ブラジェナは花束をジーノが受け取らないのを見て渡して良いか悩んだ。しかし、そもそも彼女は事前にバレンタインの行事が行われることを知らなかった。結局渡すことにしたのである。