一話
女性、ブラジェナは目が点になった。
「え?」
男性達に小さな白い光の灯った杖を向ける女性達。宙を舞う赤、白、黄などの色取りの花。キャー、とワー、といった人々の高い悲鳴。
変わり果てた王都の様子。ブラジェナは呆然と口を開けたまま固まった。
「何、これ……。」
ブラジェナは頭を抱えた。
「これは……。」
隣の男性、ジーノから発せられる震えた声。彼は笑いを必死に堪えているようだったわ。
頭がガンガンと叩かれるように痛い。とても普段のように怒る気分になれなかった。
意識が飛びそう。寧ろ気絶したいわ。
◇◇◇
水色の空の下。二十代半ばの女性、ブラジェナは白衣で重力に逆らって立っていた。普通ではあり得ない光景である。見た人が息を飲むような美人である。瞳は長く伸ばされた櫛通りの良さそうな髪と同色のエメラルドグリーンである。その吊り目は半分程閉じていた。彼女はぼんやりとした顔で下の光景を見下ろしている。
彼女の下では、次々と場面が入れ替わっている。辺りを白い雪が舞う中、女性が頰を赤く染め、男性にとあるものを渡している光景。男性は頭を掻き、同じく頰を染めながら受け取っている。恋人同士であろう。十代後半くらいの少女が笑顔で同じくらいの少女や少年たちにチョコを配っている光景。十よりも下の少女が家で女性ー母親であろうーと共に父親らしき男性にチョコを渡している光景。三人とも笑顔である。恋人らしき男性が女性に花束を渡す光景。
四つの光景には日付がニ月十四日と表示されたカレンダーがあり、そこにはバレンタインと表示されている。
ブラジェナには登場人物達の声は途切れ途切れで、断片的にしか聞こえない。バレンタイン、恋人、友達、家族、砂糖、チョコなどの言葉が彼女の耳に入って来た。そこで初めて彼女は登場人物達が渡しているものがとても高価であるチョコだと分かった。
更に場面が移り変わり、俯いて四角い箱を覗いている人影。それは明るい光を発している。人影の輪郭は曖昧で、男女のどちらかの区別も付かないほどである。その箱には「バレンタインの起源」「聖ヴァレンヌス」「処刑」などの文字。一見物騒とも思える内容がくっきりと並んでいた。
そこで初めてブラジェナの表情が動く。彼女はぼんやりとした様子のまま、僅かに綺麗な眉を顰めた。暫くして、人影の四角い箱の灯りが消え、黒くなる。
そこで場面が変わり、ある光景が見えた。街中で男女含めた人々が何か赤いものを投げ合っている。ブラジェナには少しだけ内容が聞き取ることが出来た。そこから赤いものがトマトだと分かった。騒ぎ声が大きくなり、地面が赤一面でいっぱいになる。
不意に、ブラジェナは誰かに呼ばれたような気がした。下方の騒ぎから意識が逸れた一瞬の隙に、彼女に向かって赤が飛んで来る。彼女は動くことが出来ないまま、顔面に喰らってしまう。視界がぼやける。彼女は自分の眉間に眉間に皺が寄るのが分かった。不思議と痛みを感じることはない。
次の瞬間、急に灯りを消したかのようにブラジェナの視界が暗くなった。
◇◇◇
窓から日差しが差し込んでいる室内の中、ブラジェナは目を覚ました。エメラルドグリーンの瞳が辺りを見渡す。彼女は自分の部屋で木製のベッドの上にいた。彼女の視線が髪に向けられ、手が伸びる。クシャリ、とエメラルドグリーンの髪が掻き混ぜられる。
「夢ね……。」
夢だったのね。それにしても不思議な夢だわ。……最後にはトマトを喰らったし。ブラジェナは自分の眉間に皺が寄るのが分かった。そのまま、彼女は夢の内容について目を閉じて考える。それにしても、誰かに呼ばれた気がしたけれど、誰だったのかしら。聞き覚えがある気がするのだけれど。考え込むが、夢であるせいか、見当もつかない。
暫くして、彼女は頭を振った。口を開けてふわ、と欠伸をした後、白いシーツを外し、支度をし始める。
あ、そうだ、忘れる前に今見た内容をメモしておこうかしら。面白い内容だったし。彼女は外出着に着替えた後、机に向かい、右手に羽根ペンを取る。そして、時折首を傾げて思い出しながら羊皮紙に夢を見た内容を書き綴った。それにしても、と彼女は目を細める。聞いたこともないバレンタイン、と言う言葉。高価な砂糖、チョコに謎の四角い箱。まるで……。
そこまで考えてあり得ない、とばかりに彼女は首を横に振る。研究者失格ね。同じ研究者に言ったら笑われてしまうわ。夢の内容だし、気にすることないわ。ところで、最後の赤い光景は何だったのかしら。全く理解出来なかったわ。
まるで別の世界みたい、なんてそんなことあるわけないわよね。
あ、でもジーノには話してみようかしら。今日、彼研究所に来るし。ブラジェナの手を当てた口からくすり、と笑いが漏れる。彼女は青紫色の髪を思い出す。彼、どんな反応するかしら?不思議がる?いつもの丁寧な口調で馬鹿にして来る可能性もあるわね。
そこで彼女は自分の眉に皺が寄るのが分かった。……やっぱり止めておこうかしら。
◇◇◇
この世界には魔法がある。世界中の人間が大小はあるものの魔力を持ち、魔法使いや魔法を利用した騎士などの職業がある。人間以外に獣人、エルフ、妖精もいる。そんな世界のとある国、ロジッカード国の王都、ロジッカードは煉瓦造りの建物が多い。その王都の周りの家よりも一回り大きな、王宮管轄の研究所。そこで魔法薬の研究員としてブラジュナは働いていた。彼女の研究室は数人兼用のものである。
太陽は高く位置し、白い日差しが窓ガラスから部屋を照らしている。とある一室。ブラジェナは白衣に身を包み、一人の背の高い二十代の男と向き合っていた。ブラジェナは顔に丸い度数の高いメガネをかけている。彼女は視力が悪く、普段からメガネを直用しているのである。
彼女は机を挟む四つの木製の椅子のうちの二つに椅子に腰掛けて座っていた。青紫色のショートヘアの男性はその向かいである。下を向いた彼女の前には明日の調査について書かれた羊皮紙が置かれている。
その近くにはカップに入った琥珀色の紅茶ややかん、スプーンなども並んでいた。二人はその書類の内容について話をしているのである。ブラジェナはキリリとした目付きで羊皮紙を見ている。
「と、言うことで月曜日はよろしくね。ジーノ隊長。」
鈴を転がしたような声が辺りに響く。ブラジェナは顔を上げ、男性に視線を向ける。顔を上げたジーノと呼ばれた男性は彼女と目を合わせた。彼は騎士団の制服を着ていて、左の腰には剣を携えている。
男性は目元を和らげると、整った顔立ちに微笑を浮かべた。彼は胸に手を当ててお辞儀をする。口からは良く通る声が出る。
「分かりました、ブラジェナ様。」
目尻を下げ、普通の女性なら見惚れてしまいそうな笑みである。ブラジェナはジーノが女性に囲まれているのを何度も見たことがある。しかし、彼女の心は少し揺れることはなく、寧ろ荒れた。彼女は片眉を上げ、ジーノを軽く睨む。
「貴方が護衛に付くのは月曜日。私は姫や貴族でなければあなたの主人でもないのよ。いつも言っているけれど、普段から様付けは止めて欲しいわ。」
彼女が言うと、男性は眉を下げ肩を竦めた。そして首を横に振った。耳下までの長さの青紫色の横髪がサラ、と揺れる。彼の首からは輝く空色の雫型の宝石があるペンダントが覗いている。彼は声のトーンを下げて言った。
「そうは言いましても……。私は貴方の護衛ですし。ブラジェナ様はブラジェナ様です。」
困ったように言うジーノ。白々しい。ブラジェナは眉を顰めた。彼女は彼と何回もこのやり取りをしている。いつも同じようなことを言って断られるのである。暖簾に腕押し、って感じ。気に食わないわ。
「月曜からの護衛、ね。せめてさん付けにするとか。」
ブラジェナは月曜から、の部分を強調する。そして最後に提案した。それに対してジーノは笑顔のまま静かに首を横に振るだけであった。それに彼女は顔を背けた。彼女の心に暗雲が立ち込もる。
彼女はチラリとジーノの前のカップを一瞥した後、右手に杖を持って振る。先端から白い光が溢れ、やかんやカップやスプーンなどを同色の光が包んだ。カップなどは洗面台に移動し、スポンジなどが洗い始める。洗い物が終わると、自動で片付けられるようになっている。これらは魔法である。