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現代・青春・学園系短編

二人の執事と十二支事件 <執事録シリーズ 2>

作者: 楠瑞稀

この作品は「二人の執事 <執事録シリーズ 1>」の続編に当たりますが、単独で楽しむこともできます。

 彼女は切ないまでに揺れる眼差しで、従僕の袖をそっと掴んだ。

「ねぇ……、お願い斎藤。あたし、我慢できないの」

「いけません。お嬢様」

「そんな意地悪言わないで。どうしても、欲しくて堪らないのよ」

 か細く震える声に、けれど彼女の従僕はすげなく首を振った。

「それは無理な注文です。どうかわたくしを困らせないで下さい」

「ううん。斎藤さえお父様に言わないでくれたら――きっと大丈夫。だから、ねぇ。……せて、頂戴?」

「駄目だと申しております。そう聞き分けのないことを仰るものではありません」

 たしなめると言うにはあまりに素っ気無いその態度。

 取り付く島もないとばかりに、情に欠いた無慈悲な返答。

 錦織家の女主人――十三歳の少女、錦織莉緒は涙で潤んだ瞳でとうとう己の執事を睨みつけた。

「なによなによ、斎藤の分からず屋! どうして許してくれないのっ!?」

 上目遣いの眼差しが、困惑と苛立ちで震えている。


「子犬くらい、飼わせてくれたっていいじゃないっ!」


 どうおねだりしても頷いてくれない強情な執事にとうとう見切りを付け、彼女は斎藤に背を向け駆け出した。そして扉の前でくるりと振り返ると、彼に向かってその小さな三角の舌を突き出す。

「斎藤なんて、もう大っ嫌い!」

 ぱたぱたと遠ざかっていく足音に耳を傾けながら、残された執事はおもむろに視線を落とした。整った柳眉は悩ましげに顰められ、ほんの僅かな悔恨がその漆黒の瞳には浮かんでいる。

 彼はそっと口元を手で押さえながら、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。

「今の言葉、ぜひとも録音すべきでした……」

 そして先程の幼い主人の言葉を反芻し、彼は能面のような無表情のまま非常に満ち足りた吐息を漏らした。


 

 沈着冷静、有能怜悧、完璧無比。

 三拍子揃った錦織家の第一執事は、その本性を知るごくごく一部の人間からはこう呼び習わされていたりもする。

 曰く、『変態』と――。




 

 + + + +




 

 断続的に続く水音に、陶器同士が触れ合う音が響く。

 時折ひそやかに、けれど楽しげに上がる声の間を縫うように鋭く研がれた包丁がリズミカルにまな板を叩く音がした。

 昼食の時間も無事に過ぎ、その後片付けと夕飯の準備に余念のないここは錦織家の厨房である。

 現在この屋敷で暮らしているのが現当主夫妻の一人娘、莉緒お嬢様一人だけということもあり、常駐しているスタッフは少ない。それでも十名近い人間がこの厨房では賑やかに仕事をしていた。

 しかし今日は通常よりも、さらに若干人数が増えている。その数、およそ二名ばかり。

 カチャカチャと、泡だて器が金属のボールと触れ合う音がする。傍らのオーブンは微かな作動音を立てながら、内部の熱を定められた温度まで上げていた。せわしく手が動くたびに、ふんわりと漂ってくるのはバニラエッセンスの香りだろうか。

「――そんな理由で、お前はこんな所で菓子作りになんて励んでるってわけか」

 やれやれとどこか呆れたような呟きが、それ以上にはっきりと面白がる響きでもって漏らされる。

「まったくお前って奴は、なんとも面倒臭い性格をしているよな」

 けらけらと笑いながら、銀のスプーンを磨いているのは金髪碧眼の背の高い青年。その隣では沈黙を守ったまま一重瞼が涼しげな眼差しの青年がクリームを泡立てていた。

 言うまでもなくこの黒髪の青年こそが、錦織家の第一執事たる斎藤。そしてその隣で馬鹿笑いをしている男は錦織家の第二執事であるセバスチャンであった。


 斎藤とセバスチャン――二人は共に、『錦織』と言う名の知れた一族に仕える執事である。

 現在錦織家の当主夫妻は仕事の関係で二人揃って海外に長期滞在中である。そのため日本の本宅には、彼らの愛娘であるまだ13歳の少女、錦織莉緒だけが残されることになった。


 執事の仕事とは本来、家務の一切を管理し多くの使用人を監督すること。

 だが保護者も持たずたった独り屋敷の切り盛りを任されたお嬢様を見るに見かねて、第一執事たる斎藤と、第二執事たるセバスチャンは、彼女を守り支えることこそを目下の勤めとしているのである。


 

 ――――表向きは。



 

 全身全霊を込めたおねだりをあっさりと無下にされて、錦織家のお嬢様はすっかりむくれて部屋に閉じこもってしまった。彼女のご機嫌を治すため、斎藤は現在厨房の一画を借りてお菓子作りに励んでいると言う次第である。

「しかしずいぶんと器用だよな」

 セバスチャンはなんとも物珍しげな目つきで斎藤の手元を覗き込む。彼が現在製作中なのは、お嬢様の一番の好物であるエクレア。

 沈着冷静、有能怜悧、完璧無比と、三拍子揃って呼び称される錦織家の第一執事は何をやらせてもたいていのことは卒なくこなすが、まさか菓子作りの技術まで持ち合わせていようとは予想外と言おうか、予想通りと言おうか。

 もっともお嬢様命を放言してはばからないこの男である。お嬢様の好物であるからこそ完璧なまでに習得したと言う可能性も無きにしも非ず。いや、むしろそれ以外に考えられない。

 摘み食い目当てなのか冷やかし目的なのか、斎藤の傍で銀食器を磨いていたセバスチャンはふと首を傾げた。

「しかしよ、後からこうやってフォローを入れるくらいなら、ペットの一匹や二匹、快く飼わせてやればよかったじゃないか」

 当主夫妻がともに長期に渡って留守であろうと、ここは飽くまで錦織家の総本山、本家である。敷地面積は充分に広く、庭もうっかりすると迷子になりそうなほどに広大だ。子犬どころか、像やキリンだって楽勝で飼える。しかし斎藤は首を振った。

「とんでもありません。犬ならすでにリチャードやフェリックスたちがいるじゃないですか」

「ありゃ番犬だし、どちらかと言えば旦那様のものだろう」

 リチャードもフェリックスも、ともに屋敷の警備のために飼われている番犬だ。錦織家では防犯のために夜間には庭で十数匹の犬が放し飼いにされている。

 専属の係員がしっかりと躾けているため屋敷の者には大人しいし、特に主一家には絶対服従なのだが、軍用犬としても使われている犬種だけに少々いかつい外見をしている。少なくとも女の子があまり愛玩動物として愛でたがるような見た目では無い。

「大体お嬢がいきなりこんなことを言い出したのは、あれが理由だろ?」

 先日莉緒お嬢様は友達の家に遊びにいった際、生まれたばかりの子犬を見せてもらったのだ。

 無垢でいとけない可愛らしい小動物を目にして、もともと動物全般が好きな優しい性格をしている彼女はすっかりペット願望に火がついてしまったらしい。

「ようするに、お嬢は自分だけのお友達が欲しいんだ。それを屋敷の番犬で我慢しろというのは、少々酷だろうよ」

 呆れたようにセバスチャンは言うが、斎藤は相変わらずの無表情でかぶりを振った。

「ならば尚更ですよ」

 セバスチャンは首を傾げる。

「友とするならば余計、せがんで買い与えられるものであってはいけません。しかも相手は生物なのですから、おもちゃ感覚に欲しがるのも納得できません」

 手つきだけは鮮やかに菓子作りに励みながらも、斎藤は淡々と語る。

「だいたい誕生日やクリスマスでもないのに、ねだる物を何でも簡単に差し上げてしまっては、将来ろくな人間にならなくなりますよ」

 毅然として並べ立てられるその理屈に、セバスチャンはすっかり感心した。執事としてはいささかどうかと思うところもあるが、彼らが当主直々にお嬢様の教育係も任されていることも考えれば斎藤の言葉は確かにひとつも間違っていない。

「……お前も、決めるときはしっかり決めるんだな」

「当たり前でしょう。恐れ多くもお嬢様の事を誰よりも案じているのは、他ならぬわたくしですよ」

 斎藤はつんと澄ました顔でうそぶいた。もっともそれだけならば良かったものの、さらにぼそりと付け加えられる。

「――それにです。犬といえば古来より人間の忠実な下僕じゃありませんか。畜生と言えど、お嬢様が他の下僕をわたくしよりも気に掛けるようになったら、ちょっと自分が正気でいられる自信がありませんね」

「しれっととんでもないこと口にすんなぁぁ!!」

 腹の底から搾り出されたセバスチャンの怒声に、ぎょっとして一人の新入り皿洗いが振り返る。もっとも他の面々はすっかり慣れたもので、淡々と日常の業務をこなしていた。日常的に罵声が響き渡るお屋敷というのも、それはそれでなかなか凄いものがあるが。

「おや。そう言えば、そこの彼はこれまで見たことのない顔ですね」

「ああ、あいつな」

 ぜいぜいと息を切らしながらも、セバスチャンは律儀に斎藤の指し示した皿洗いに目を向ける。

「二週間ほど前に、厨房の補佐スタッフとしてオレが採用した」

 斎藤はわずかに眉を顰め、不満げな顔をする。

「わたくしに断りもなく、勝手に雇ったのですか?」

「面接日にお前がいきなり休みやがったんだろ!!」

「……ああ」

 ようやく思い至ったらしく、斎藤はぽんと手を叩く。

「そう言えばあの日は朝から、枕から頭が上がらないほどの体調不良でしたね」

「嘘をつけ」

 間髪をいれず、ジトーとした目でセバスチャンは断言する。

「あの日はお嬢の遠足があった。お前はお嬢のあとをつけたんだろう!」

「とんでもない。なぜわたくしが?」

 きょとんと斎藤は首を傾げる。

 お嬢様の通う学校は身分のある子女が集まる由緒ある学び舎だが、同時に生徒の自立を促すため遠足や修学旅行などの行事にはメイドや召使の同行を禁止しているのだ。

「わたくしが、わざわざお嬢様に禁を破らせようとしたと言うのですか」

 斎藤は意味が分からないとばかりに首を振る。

「あの日は本当に体調が悪かったのですよ。……鼻血が出るほどに」

「何で鼻血が出るんだよっ!!」

『斎藤にいってきますって言いたかったな……』

 そう言って寂しそうに遠足に出発したお嬢様の姿を思い返すに、セバスチャンは不憫になる。

 いっそ周囲に奴の本性を暴露してやろうとも思うが、斎藤はお嬢様からも他の召使たちからも絶大なる信頼を勝ち取っている。セバスチャンがそんな事を言っても、せいぜい苦笑され肩をすくめられるのがオチだろう。

 世の中不公平だ……。セバスチャンは心の底からそんな事を思った。

「だいたいあの新入りは熱心な奴だよ。聞けば朝は誰よりも早く厨房に来て、夜は最後まで残ってるって話だ。厨房長からの評判もいいし――、」

 それよりも、とセバスチャンはずいっと手を差し出した。

「出せ」

「エクレアの摘み食いは許しませんよ」

「誰がエクレア食いたいって言った! 写真だよっ。どうせお前のことだから、遠足でお嬢の写真大量に隠し撮りしたんだろ。全部渡せ。お前に持たせてると何に使われるか分からん!」

 しかし斎藤はふふんと鼻で笑う。

「おやおや。面白い事をおっしゃりますね。存在しない物を、どうやって渡せと言うのですか?」

「ならお前の家に行って漁り出すだけだ」

 ほぼ100%の確率で、セバスチャンは斎藤の家にはお嬢様の隠し撮りフォトアルバムが大量に保管されていると睨んでいる。

「馬鹿らしい」

 しかし斎藤はそれにも怯むことなく、さらに不敵な笑みを浮かべた。

「仮にわたくしがアルバムを作っていたとして、まさか貴方如きに見つかるような場所にわざわざ置いておくと思いますか?」

「誇るんじゃない、このど変態がぁっっ!!」

「きゃあっ」

 セバスチャンの声に重なるように、悲鳴が聞こえた。斎藤は咎めるような目でセバスチャンを見る。

「ほら、貴方が馬鹿みたいな大声を出すから」

「……あきらかにオレの所為じゃないだろ。ほら、いくぞ」

 セバスチャンが斎藤を引っ張り二人で向かった先では、すでに人間が集まっていた。厨房の壁一面を占めるような、広い窓の傍。泣きそうな顔をしたキッチンメイドが同僚らしき女性に慰められている。

「また、どうしてこんなっ……」

「どうしたんだ?」

 セバスチャンが声を掛けると、彼らはあからさまにほっとした様子を見せた。

「ああ、斎藤さん……」

「手前にいるオレはスルーかよっ」

「あとセバスチャン」

「同情された!」

 地味にショックを受けるセバスチャンを脇に置き、斎藤は彼らに尋ねる。

「何があったのですか?」

「斎藤さん、見てくださいよ」

 若いコックに促され覗き込むと、厨房の外側の窓枠にはネズミの死体が置かれていた。まだ乾ききっていない血が付着するそれに、セバスチャンは顔をしかめる。斎藤もわずかに眉を顰めた。

「どなたか、またと言っていましたね。以前にもあった事なのですか?」

 彼らは気まずそうに口ごもっていたが、そのうち貧乏くじを引かされたらしい一人のコックが前に押し出されてきた。

「一昨日にも……同じことがあったんです。その時には雀の死体が置かれていて、その前には蛇の死体が――、」

「おいおい、どうしてその時点で報告しなかったんだよ」

「すいやせん。おれがこいつらに言ったんですよ。つまらない事であんまり騒ぐなって」

 呆れたようにぼやくセバスチャンの声に答えて、厨房の奥からだみ声が響いた。

「ただのつまらねぇ悪戯かと思いやしてね」

 騒ぎには加わらず、黙々と夕飯の下ごしらえをしていた料理長が言った。

 ちなみにこの料理長、どう見ても和食専門の板前に見えるがその実ヨーロッパの三ツ星レストランで修行した一流シェフだったりする。間違ってもすし屋の親父さんではない。

 よくよく見れば、料理長の他にも黙々と仕事をこなしている剛の者が数人ながらいた。

「まぁ、確かに悪戯には違いないんだろうけどなぁ」

「だが、ただの悪ふざけにしては悪質だな」

 斎藤は窓を開けると、何処からか調達してきた新聞紙で器用に鼠を包む。そしてそれをそのまま窓の下に降ろした。

「これはあとで処理いたしましょう。そうですね。悪戯だとしても、あまり声高に騒ぎ立てることは無いでしょう。ただし、もしまた同じことが起こったときには、すぐにわたくしたちに知らせてください」

「もう起きないに越したことはないんだけどな……」

 しかしセバスチャンの嘆息を余所に、その事件は繰り返し起きてしまうのだった。





 ※     ※     ※




 初日は蛇。

 その次は雀。

 三度目は鼠で、四度目はまた蛇。

 五度目となる昨日は、なんとモグラだった。

 繰り返される嫌がらせに、厨房のスタッフはみんな窓の外を気に掛けるようになっていたが犯人を目撃したものは誰もいなかった。

 犯人は幽霊のように足音ひとつせず忍び寄り、悪戯を仕掛けて消え去ったとしか思えない。

 もちろん窓際とは言え腰から下の高さの部分は不透明な壁であるから、身体を伏せていれば厨房からは目撃されない。だが犯人が窓の外を這いながら移動しているというのはいささか現実味に欠ける話だった。

 なにしろ事は人目の無い夜ではなく真っ昼間から夕方に掛けて起きており、何より地面には靴跡ひとつ残っていなかったのだから。



 

 セバスチャンは朝から屋敷中を隅から隅まで探しまわり、結局夕方近くになって視野にも入れてなかった庭園で目的の人物を発見することとなった。

「おいっ、斎藤!」

 八つ当たりもかねて声を張り上げるセバスチャンの剣幕に目を剥いてか、錦織家の第一執事と話していたその男は「ではこれで」と、そそくさとその場を後にする。

「あれ? あの人は……」

「一体なんですか、騒々しい」

 斎藤はいささかウンザリした表情でセバスチャンを見る。もっともこれはいつものことである。

「なぁ、あの人って庭師の田崎さんじゃなかったか?」

「ええ、そうですよ。少し彼に聞きたいことがありましたので」

 それよりも何か用事があったのではないのですか。そう斎藤が促すと、セバスチャンは途端に目を輝かせ振り返った。

「そう、そうなんだよ! オレ、ついに分かったんだ!」

「自分の頭の悪さにですか?」

「違げえよっ! 今回の事件の真相に決まってるだろ!」

「真相……ですか?」

 セバスチャンは意気揚々とうなずく。

「そう。今回の事件は何と、すべて『十二支』になぞらえられているんだ!」

 斎藤は途端に微妙な顔をするけれど、セバスチャンは気付かず得意げに自分の推理を披露し始める。

「初日の蛇は『巳』、二回目の雀は『酉』、三番目の鼠は『子』というように、どれも十二支に出てくる動物が使われているんだ」

「モグラはどうするんです? 寡聞にして十二支にモグラが出てくると言う話は聞いた事がないのですか」

 まさかこれだけは例外扱いするのかと揶揄するように尋ねるが、セバスチャンはあっさりと答える。

「モグラは『辰』だよ。モグラには土竜って言う呼び名もあるだろう」

「……知りませんよ。そんな無駄な雑学は」

 若干不満そうなその声は、無意味と知りつつもセバスチャンに自分の知らない知識をひけらかされた事が気に食わなかったからだろう。

「それで?」

「それでって……?」

「犯人は十二支になぞらえてこの事件を起こした。ではその目的は? 犯人は十二支に出てくる動物を使うことで、一体何を言おうとしていると仰るのですか?」

「そ、それは……」

 冷ややかな目つきの斎藤に聞き返され、セバスチャンは口ごもる。

「だいたいなぜ十二支になんてなぞらえる必要があるのですか。もし私が誰かに何かを伝えたいとしても、わざわざこんな面倒臭い手段は用いませんね」

「そ、そうか……」

 冷たくあしらわれてセバスチャンはしょぼんと意気消沈する。しかしそれでも彼はめげなかった。

「じゃあお前は分かったって言うのかよ。この事件の真相が!」

「ええ、確証はまだ得ていませんが」

 半ば八つ当たりとして噛み付いたセバスチャンは、あっさりと返した斎藤の言葉に耳を疑った。

「えっ、そ、それって」

「実際に調べてみない内は何とも言えませんが、それでも大まかなことの次第は掴めたと思います」

 斎藤はその涼しげな眼差しを、呆気に取られるセバスチャンに向けた。

「では、この悪戯の犯人を捕まえるといたしましょうか」



 

 ――深夜、翌日の下ごしらえも済み、非常灯の青白い光がシンクに冷たく反射する。業務用の大型冷蔵庫の稼動音だけが鈍い音を周囲に響かせている中で、ふいに場違いとも言える男の声がした。

「駄目だろう、お前は。あんなことをしちゃ」

 暗がりでぼそぼそと囁かれる声。しかしその不気味なシチュエーションに反して、その内容はまるで小さな子供に語りかけているようでもある。

「もしばれたら、もうここにはいられなくなっちまうんだぞ。だから――、」

「それはもちろんそうでしょう」

 冷ややかに響く声。それに被さるように、唐突に厨房の明かりが点灯した。

 白熱灯の目の眩むような明かりに照らし出され、その人物はびくりと弾かれたように身を起こす。ついで、厨房の床を何かが勢いよく駆け抜けた。

「セバスチャン!」

「あいよっ、まったく人使いの荒い奴だ!」

 金髪長躯の執事は、そう言いながらもその長い腕を巧みに使い、すばしこく逃げ回るその小さな生き物を捕まえることに成功する。しかし彼は、己の手の中に掴み取ったそれを見て、大きく目を開いた。

「ね、猫――っ!?」

 そして「ぶぇ、ぶえっくしょんっ!」と大きなくしゃみをする。

 これは堪らないと慌てて放り出した猫の首を斎藤は器用に受け止めた。

「お、お前……分かっててオレに捕まえさせただろう!!」

 充血した目でぐずぐずと鼻を鳴らすというなんとも哀れな様子で、猫アレルギーの第二執事は同僚に迫るもののしれっと無視される。

「さて、それでは何か申し開きはありますか。稲川さん?」

 数週間前に雇われたばかりの新米キッチンスタッフ稲川は、斎藤の言葉に観念したようにがっくりと肩を落とした。



 

 彼がその猫を拾ったのはおよそ二週間前。

 稲川が錦織家で働き出して一週間が経つか経たないかという頃だった。

 新しい職場での仕事にも何とか慣れ始め、自己研鑽を行う余裕も出始めてきた時期である。帰宅途中の冷たい小雨が降りしきる中、彼は段ボール箱で震えていた小さな子猫を見つけてしまった。純朴な気質の彼は冷たい雨に濡れて震える子猫を見捨てることができずに拾ったは良いものの、現在住まうアパートはペット厳禁。しかもこちらには上京してきたばかりなので、頼れる知り合いもいなかった。

 最初のうちはこっそりアパートの自室で世話をしていたが、とうとう大家に見つかってしまう。誤魔化し切れなくなった彼は、思い余って仕事場であるお屋敷にまで猫を連れてきてしまったのだ。


 

「そうして昼間は庭に放し、夜はこのキッチンで飼っていたわけですか」

 斎藤は呆れたようにため息をつく。稲川は図星を付かれてますます肩身を狭くした。

 もっともこんな騒ぎになって、慌てたのは当の稲川だろう。

 拾った当初は衰弱していた子猫だが、いまはすっかり体力も回復した。それだけに留まらず、元気の余りあるわんぱくな子猫は放された広大な庭でせっせと狩りに励み、仕留めた獲物を稲川に見せびらかそうとするのである。

 すなわちこれまでの不気味な悪戯は、無邪気な猫による手柄自慢だったのだ。

「でもどうして――犯人が猫だと分かったんですか?」

 おずおずと稲川はたずねる。

「死体に残された噛み痕」

 あっさりと斎藤は答えた。

「ですから最初から予想はしておりました。一応確認のため庭師の田崎さんに問い合わせたところ、見つかった動物はすべて屋敷の敷地内にいる生き物だと答えていただけました」

 ならば犯人は間違いなく内部にいるもの。それも庭にいるものと決まっている。

 しかもこの屋敷では夜間に放される番犬以外に動物を飼ってはいないのだから、誰かが持ち込んだとしか考えられない。

「じゃあ稲川だと断定できたのはどうしてだ? そりゃ事が起こったのはキッチンだ。厨房スタッフの誰かだと考えるのは分かるにしても――、」

 そこでセバスチャンもはっと顔をあげた。斎藤はうなずく。

「それは貴方が言ったことですね。稲川さんは誰よりも先に厨房に来て、誰よりも遅く残っている」

 さもなければ夜に猫を匿うことも、早朝庭に放つこともできないだろう。

「また料理長に聞けば、ここのところ前日の片付け時と翌朝では微妙に物の配置が変わっているそうです。きっと猫が散らかした後の始末でもしていたのでしょう。それから餌の準備。冷蔵庫から余り物の食材が消えていたと言う話も聞きましたし」

 もっとも料理長は、新米が料理の練習をしているものと期待していたようですが――、そう嘆かわしげにため息をつく斎藤に、稲川はぼそりとつぶやく。

「練習もしていた……」

 すると途端に斎藤はしたり顔で頷いてみせる。

「そうですね。何しろそれは貴方が猫を拾う前からのことだったそうですし」

 稲川は再びばつが悪そうに俯いた。

「それじゃあ、これからどうするつもりだ?」

 セバスチャンは稲川を顎で示しながら斎藤に尋ねる。

「そうですね。何しろこんな騒ぎを起こして厨房を混乱させたのです。もちろん解雇処分――、」

 びくりと稲川の肩が震える。

「――と、いうことも考えましたが、一応試用期間の延長という事で手を打ちましょう」

 斎藤は澄ました顔でそう答える。稲川と、なぜだかセバスチャンまでがほっと胸を撫ぜ下ろした。

「良かったなっ」

 ばんっと、セバスチャンが稲川の背をたたく。しかし斎藤の目がふいに冷ややかさを孕んだ。

「ただし、この猫はこちらで処分させて頂きます」

「えっ!?」

 稲川はぎょっとして斎藤を見る。

「ど、どうして……?」

「当然でしょう。このまま厨房で猫を飼い続けることまで許可はできません。ここは食事を作る場所なのですよ。動物を飼うなんて不衛生極まります」

「いや、だけど処分って言うのはさ――、」

「では貴方が面倒を見ますか?」

 思わずたしなめたセバスチャンも、ぐっと言葉を詰まらせる。

 猫アレルギーがなくても執事というのはかなりの激務だ。セバスチャンには猫の面倒を見る余裕はない。呆然と立ち尽くす稲川、押し黙るセバスチャンを横目に、猫の首根っこを掴んだ斎藤はすたすたと厨房を出て行く。

「お、おい、待てっ。待てよ、斎藤!」

「静かになさい。今何時だと思っているのですか」

 とっさに追いかけるセバスチャンと、歯牙にもかけない斎藤。

 声を落として続けられる二人のひそやかな言い争いは、結局セバスチャンの劣勢のまま決着を迎えるかと思われたが――、

 

「――ねぇ、どうしたの二人とも」

 ぎくりと斎藤の肩が強張った。そんな斎藤の背中越しに、セバスチャンは自分の主の姿を見つけて眉を上げる。

「ありゃ、お嬢様。おこしてしまいましたか?」

「ううん。あたしはのどが渇いたから、ちょっとジュースでも飲もうと思ったの」

「そうですか。でもジュースはやめておいた方が賢明ですよ。歯を磨いた後なんですから」

 ネグリジェをまとった彼らの主、莉緒が寝ぼけ眼を擦りつつ階段を下りてくる。

 ちなみに莉緒の若干舌っ足らずの喋り方は、まだ意識がはっきりしていないから――というだけでなく、半分以上がもともとだ。

「あれ、斎藤は何を持って――、」

 半分閉じられていた彼女の目が、斎藤の手元に引き寄せられる。

「あっ、ねこちゃんだ! 斎藤、この子どうしたの!?」

 夢うつつの中にいた彼女の意識はいきなり覚醒した。

 きらきらと目を輝かすお嬢様を前に、斎藤は主に気付かれないようにそっとため息をつく。

 こうして気付かれてしまった以上、もはや隠し通すことは不可能だろう。

 斎藤はすっかり観念すると楚々とした態度で、手の中のそれをお嬢様に捧げ渡した。

「お嬢様、どうやら気の早いサンタクロースからの、……クリスマスプレゼントのようです」

 小さな子猫は虹彩をまん丸にしたまま、にゃあと一言鳴いた。




「まぁ、犬に比べれば猫のほうがだいぶマシですけどね」

 嘘か真かもともと本当に処分するつもりはなかったと言う錦織家の第一執事は、後にしみじみとそう語った。

 何はともあれ厨房を騒がせたいたずらものは、こうして錦織家の一員に加わった。

 もちろんその餌係の役目は、見習いの皿洗いの仕事に追加されたのであった。


この作品は作者のHP「飛空図書館」にて掲載されております。

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